ようこそ。鳴門キリスト教会へ。

ヨハネの福音書1416節 

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」1

 聖書が取り扱う大切なテーマの一つは、人間の最高の居場所、「家」(うち)です。私たちの実家や家には人間関係などの問題は何かしら、あるかと思います。しかし、聖書の指す最高の家は、完全に守り愛する神様が共にいるところです。聖書の黙示録で、次のようにそれを描写します。

 黙示録21:1-4 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。 3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。 「見よ、神の幕屋が人々とともにある。 神は人々とともに住み、人々は神の民となる。 神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。 4 神は彼らの目から  涙をことごとくぬぐい取ってくださる。 もはや死はなく、 悲しみも、叫び声も、苦しみもない。 以前のものが過ぎ去ったからである。」

 人の共同体と共に、神様がおられる状態は、最高の居場所です。では、どうすればそこに行くことができるでしょうか。イエス様はこの課題を、今日の箇所で取り扱ってくださいました。

 アウトライン:第一、天の「家」(5節まで)、第二、家に行く為に必要なイエス様(6節)、第三、「イエスはわたしの道・真理・いのちです」という経験の意味(6節)を考えましょう。

 

第一、天の「家」(15節)

 13章の終わりでは、イエス様は、十字架に行く直前に、十字架とその後の復活後にどうするかを弟子たちに説明します。そして、彼らが「今ついて来ることができません」とも仰いました(36節)。寂しさと戸惑いの瞬間でした。

 しかし、14章でイエスは弟子たちを慰めます。今度の別れは永遠の別れではなく、いつまでも終わらない再会の準備の始まりになると教えてくださいました。

1-2 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。」

 イエス様が行くところは、「父の家」、要するに神様がおられる天国です。地上の家族には葛藤や悩みがあり、実家に帰って皆と顔を会わせることも苦しいと感じられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、最高の父である神様のおられるところには、葛藤の代わりに平和があります。

 また、天国の「家」を治める長男イエス様は喜んで、そこを全ての弟子のために用意すると34でおっしゃいます。

「行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」

 イエス様のことばはなんと大きな励ましだったはずでしょうか。ところが、問題があります。5にある、弟子トマスの素朴な疑問に現れます。

「私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

 トマスの疑問は私たちの問題でもあります。イエス様は道を知っていますと仰いましたが、トマスは実は分かりませんでした。だから神様が聖書を人に下さり、「家」への「道」を知らせてくださいます。

 もう一つ問題があります。すなわち、私たちはそもそも、家にいない状態です。イエス様が用意される完全な家庭、完全な家を拒み、自分の居場所を作ろうとしてしまいます。最初から、神の家を逃げ出してしまったものです。こういうふうに罪を犯すと言えます。だから神の完全な家には入れていただけません。理想的な居場所や実家を地上で持っても、それは神の家に入る資格にはなりません。神の家に行く道でもありません。私たちの生き方という「道」、自分の知恵という「真理」、自分の熱心という「いのち」でどうにもなりません。私たちは天の「家」にたどり着くために本当の道、真理、いのちが必要です。

 

二、家に行く為に必要なイエス様(6節)

 それでイエス様が答えます。

6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

前後の箇所でイエスが特に答えようとするのは場所と「道」の問題ですから、「道」は主題であり、「真理」と「いのち」は「道」をより深める比喩でしょう。ただし、いずれもイエス様はご自身がそれだと仰せになりました。

 この三つの比喩では、イエスはそれぞれとどう似ているでしょうか。

 1)「道」。イエスは神のみもとにある「家」へ通る道なのです。6節後半のとおり、イエス「を通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」道案内ではありません。通らなければならない道そのものです。

 多くのスピリチュアルな道は「神」に至ると多くの人は言います。この相対主義的な宗教観は「心が広い」、「愛のある考え」だと自負しますが、実はイエス様ご自身の教えを無視して、キリストの教えを排除するものです。キリスト教が排他的だと言えばそうですが、他の宗教観も同じ様にキリストの宣言を拒む、排他的なものです。「中立」な立場はありません。また、聖書で神様がイエスという道を実際に教えてくださるから、それは人を排除するためでなく人を招くものなのです。広く広く、クリスチャンが分かち合うべき道です。

 2)イエス様は道として、「真理」でもあられます。イエスは確かに真理を教えられますが、抽象的な真理をただ教える先生ではなく、真理そのものであられます。言い換えると、イエス様ご自身を知る必要があります。2 イエスに頼って、道なるイエスを歩むと父なる神のいる天の家に行く方法を知ります。神の家に住みたいなら、真理は必要です。

 クリスチャンの歩みは、知って、信じる必要のあるものです。もし友人同士や夫婦同士がお互いの名前、趣味、希望、恐れ、好き嫌い、感心あることなどを知らなかったら、本当に親しいと言えませんね。同じように、神様と愛の関係を持ちたいなら、どんな神様かを知らないといけません。だから聖書を学び、それをまとめた神学を学ぶことは健全な信仰に必要です。神を心から知ろうとして学ぶ「神学」なら、それは無用で冷たい学問ではありません。むしろ、心が熱く神様を慕うために大切な道具です。そしてその真理は必ず、イエス・キリストと結びついています。神様を見ることができなくても、聖書でイエスを知るのは、神を知る道です。

 ちなみに、多くの社会では周りの人・世間の考えで「真理」が決まる同調圧力も「抽象的な教理より今の利益」、実用主義の考え方も物凄い影響力を持ちます。メリットが見えなければ、信じない、という生き方です。しかし、実際に現実があり、空想もあります。重力に逆らって、崖の上から飛んで空を羽ばたこうとしても現実はその想像をを認めません。イエスを本当に知らないといけません。本当に知っていれば、次のいのちがあります。

 3)三つ目に、イエス様は「いのち」でもあられます。前回、ヨハネの福音書1125節でもイエス様は同じ比喩を用いられました。173節でも、「永遠のいのちとは、唯一のまことの神…と…イエス・キリストを知ることです」とあります。まことの神様と、永遠に続く、生きた交わりを楽しむために、いのちとしてのイエスを受け入れるのです。だからこそ、天の家は数日間だけのバケーション先ではなく、永遠のいのちを永遠に楽しめる新しい天と地にあります。3その命の源はイエス様です。

 真理なるイエスを信じて、いのちなるイエスによって生きて、道なるイエスによって歩むと、父なる神のいる天の家に行くことができます。これは、私たちクリスチャンが歩んでいる道であり、信じている真理であり、生きているいのちです。

 

三、「イエスはわたしの道・真理・いのちです」と経験する(6節後半)

 イエスが私たちの道・真理・いのちであると私たちがイエスにより頼めば、父なる神の天の家に入れると約束くださいます。イエスにより頼むことは、椅子に腰をかけることに喩えられます。椅子の存在をただ認めるのではなく、ただ「あの椅子に自分は座れる」と意識するのでもなく、そこからさらに実際に座ることです。神の家に入る資格は全てイエスから来ると信じて、イエスに自分を委ねて、神に近づくことです。それは6節にあるようにイエス・キリストを「通して」神様に近づくことです。

 もう一つの喩えですが、私たちは誰かを知っているから、あるいは誰かに属するから道が開ける経験をすることがあるでしょう。誰かの推薦で学校や会社が受け入れた、また、会社の名の下で取り引き相手に連絡できるなどもそうです。別の人の履歴や信頼関係があったから、だれかに近づくことができた訳です。

 クリスチャンは誰かの者として名乗って、神に近づかなければなりません。自分の名と価値にかけて近づこうとしても、神様は「あなたは入る資格がありません。あなたは罪人アダムの子孫の罪を背負っています」と拒否します。私たちと私たちの先祖アダムの故、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」にいるからです(ローマ3:23)。しかし、キリストのお名前によって祈り、イエス・キリストに信頼を置いて神様に近づくと認められます。イエスの「履歴」と「信頼」義の資格を持つものとして、父なる神に扱っていただいて歓迎され、最終的に天国と新しい天と地に入ることができます。

 イエスの履歴とはどういう義ですか。天への上りの道を通られる前に、死への道を下ってくださいました。十字架まで道を歩まれました。真理である故に、ローマ人に拒まれ、イスラエルの民に拒まれました。いのちを与えるために、いのちを奪われました。だからこそ、神への完全な愛と従順を果たされ、義の資格を得て、復活なさいました。それゆえ、私たちもその名において近づくことができます。

 今日、神から遠く離れているなら、帰ってください。イエスは自分の道、真理、いのちだと確信する兄弟姉妹でも、毎日神に歓迎される為にイエスを見上げましょう。神様がおられる永遠の家を求めて、楽しみにしましょう。

 

1 招詞:エペソ2:17-19。交読:13(詩46篇)。賛美:88番、287番、273A番。

2 詩篇8611節の作者は真理と道を関連付けて祈りました。

3 旧約聖書では「いのちの道」もよく出て来ます。ダビデ王はこのようにその期待を神様に祈りました(詩篇16:11)。