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ルツ記1118節「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」1

(日本長老教会世界宣教週間の説教)

 

 世界中の宗教で、どれよりも多くの民族に広く行き届いたのはキリスト教です。そして多様な人種、言葉、文化のクリスチャンたちは他の民族の人に行きキリストを伝えるために命をかけてきました。それは、聖書の神様の偉大さと、この神様が求めておられる「多様さの中での一致と愛」の希望があるからです。

 今日、そのことをナオミとルツの話でも見て、世界宣教の意義を確かめたいと思います。

第一、ナオミの悲しみ悩み、希望(17節)

 今日の物語の流れは3部に分けることができます。まずルツ記17節まででナオミの悲しみ悩みそして希望、次に815節で、ナオミが愛する嫁を帰そうとする話、最後に、1618節でルツの告白と愛を考えます。

 ルツ記の冒頭に、「さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった」とあります。日本全体の食料自給率がとても低くなってしまっていますが、簡単に輸入できるから何とかなっています。しかし、それほど貿易のない農耕文化であれば、食物を作れなければ死んでしまいます。

 四人家族が登場します。夫エリメレクがイスラエルのベツレヘムの町を離れて、外国のモアブに「滞在することにした」と書いてあります(1節)。モアブはイスラエルの遠い親戚の子孫の国民でしたが、仲が悪かったです。何よりも、別の神を拝む民族でした。エリメレクが家族を率いて主なる神の約束の地を離れて、モアブで生活したのは、信仰の状態をほのめかします。

 さて、悲劇がナオミを襲います。3節によると、モアブにて「夫エリメレクは死に」ました。ナオミに、唯一残る支えとは息子達でした。でも、彼らはまだ帰りませんでした。

4節 二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。

 ナオミか息子達は嫁にヤハウェ、イスラエルの神のことを伝えたでしょう。

 その後、別の悲劇が襲いました。5節によると、息子達が永住となった滞在の10年後に亡くなりました。社会的に言うと、ナオミはもう死んだと同然ということでした。支える男性がいなくなりました。再婚の見込みはなし。幸い、嫁達はまだ一緒でした。そこに主の憐れみが現れました。そして、6・7節によると「ナオミは嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ることにした」。故郷の飢饉が終わったという噂を聞いたからです。

二、嫁達を帰そうとするナオミ(815節)

 ところが、ナオミは嫁達の将来を思って、不安になりました。彼らを異国に連れて、彼らに辛い思いをさせたくないと思いました。そこに深い愛があります。8節を読みましょう。

「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。」

 そうして、ナオミはオルパとルツを褒めて、感謝しつつ、彼らがモアブで再婚して幸せになることを願います。でも彼女達は10節で「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります」と返事します。

 しかし、ナオミは嫁達の将来のことを考えて、1213節で熱心に訴えます。その訴えの背景の状況ですが、当時のイスラエルでは、家の相続を守る制度として、もし兄が子孫を残さずに亡くなったら、その弟は嫁と結婚して新たに子孫を残そうとする教えがありました。2 しかしナオミは1213節で、仮に嫁と結婚できる弟達をこれからすぐに産むことができたとしても、嫁たちにはもう遅すぎるでしょう。早く、違うモアブの男性の家に嫁いで安定した生活を手に入れなさい、とナオミは二人の為に、自分の支えと家族を捨てようとします。

 14節で「オルパは姑に別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついた。」「すがりつく」という表現は①夫婦が結婚することや②イスラエル人がヤハウェを慕って近づく命令の箇所でも使われる、強い表現です。3ルツの熱心ははナオミのに負けません。ナオミはもう一度、説得しようとします。

15節 「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神々のところに帰って行きました。あなたも弟嫁の後について帰りなさい。」

 オルパのように、常識のとおりにやりなさい。元の民と元の神々に戻って良い。私を構わないで。ナオミはそうして説得しようとします。

三、ルツの告白(1618節)

 ところが、ルツが返事します。

16-17節 「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。
  お母様が行かれるところに 私も行き、
  住まれるところに 私も住みます。
   あなたの民は 私の民、
   あなたの神は 私の神です。
  あなたが死なれるところで 私も死に、 そこに葬られます。…」

 ルツは寂く貧しく生きても、ナオミを独りにさせまい、と覚悟しています。民を置いて、実家を置いて、ナオミの為に生きて、イスラエルの主なる神の為に生きると決心しました。ナオミの自己犠牲的な愛に対して、ルツは同じ愛を返します。

 18節で「ナオミは、ルツが自分と一緒に行こうと固く決心しているのを見て、もうそれ以上は言わなかった」と書かれています。結果として、悲劇に打ちのめされたナオミに家族が残って、二人は共にイスラエルへ向かいます。来月、ここまでと続きをより詳しく見ます。

四、ルツとイエスと世界宣教

 さて、この話は世界宣教、そして私たちとどう関係するのでしょうか。今年の年間聖句…。世界へクリスチャンが宣教師として出て行くのも、教会開拓がなされるのも、私たちが個人的に人にイエスのことを伝えるのも、実に同じ希望があるからです。それは、一致の希望です。

 今回の話でモアブの異邦人ルツは、イスラエル人ナオミに対する愛とイスラエルの神を慕う思いを抱く様になったのです。それは、それまでモアブ、またモアブで拝まれた神々との共同生活が終わっても、新しい一致が生まれました。自分はナオミと一緒にい続け、イスラエル人に連なり、イスラエルの主(ヤハウェ)によりすがると決心したからです。生まれ育った家庭、宗教、文化より深い絆を与えたのは、真の神様でした。人間を造られた主として、ルツにとって最高の関係を築いてくださったから、ルツは過去の関係以上にナオミとの関係を大切にしたのです。

 これはとても難しかったはずです。自分と異なる人と一緒に時間を過ごして、ましてや、わざわざ遠い所へ会いに行くのは不都合で不安、不便なことです。自分と違う人に愛を注ぐのは難しいことだから、自分と違う人は神の家族に加わらなくてもいいかもしれない、とナオミのように思いやすいかもしれません。そしてクリスチャンが人種差別を容認したり、人に伝道しなかったりする理由にもなります。

 しかし主は教会に実際の一致を下さっています。どんなに多様なグループでも、イエス・キリストを通して神の家族とされた者たちは一つです。教会を部外者として反対して、やがて心変えられてかつて迫害していた人と共に礼拝するようになることもあります。使徒パウロはその一人として、エペソ人書21619節でイエスは

十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです

と指摘しました。十字架で死なれたイエスは罪人に対する、神の裁きの「敵意」を、身代わりとして被って、罪の赦しによって、まず「神と和解させ」てくださいました。次に、先に和解を受けた人々を通してキリストはナオミのように「近くにいた」ユダヤ人と、ルツのように「遠くにいた」異邦人の「二つのもの」を一つの「神の家族」に加えてきてくださいました。

 こうして、ナオミとルツの自己犠牲的な愛は、最終的にイエス・キリストによって成就しました。神様はイエス・キリストを世に送られたのは、罪と不便さで分たれた人々を一つの民としてきよめて、神を賛美し喜ぶように集めるためでした。天国のシーンを幻で見たヨハネによると、私たちはこう歌うでしょう。

黙示録5:9-10 「…あなたは屠られて、
すべての部族、言語、民族、国民の中から、
あなたの血によって人々を神のために贖い、
私たちの神のために、彼らを王国とし、
祭司とされました。…」

 天国での賛美を想像してみてください。あらゆる人種の人が入り混じって、何千もの言語と方言でその賛美を歌います。かつて敵国だった人同士が一緒に並んで賛美します。元部落民と元武士階級の人、迫害したパウロと迫害で殺されたステパノは一緒。ひとりの神を拝み、イエス・キリストの十字架の犠牲によって贖われ、きよめられた皆は一つの民です。

 そのために、私たちは祈り、献げ、また、もしかしたら、地の果てにまで行こうではありませんか。

 

1 招詞:詩篇117:1–2。賛美:225番「すべての人に」、271B「功なき我を」、191番「いとも尊き」。

2申命記25:5–6

3創世2:2434:3参照。②申命10:2013:4、ヨシュア22:5、エレミヤ13:11参照。