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ヨハネの福音書101016節  説教題「わたしは良い牧者です」

百瀬ジョザイア牧師

 

 前回、ヨハネ10章の初めの比喩から始まりました。羊たちの囲いの門という喩えを扱いました。今日、11節以降にある別の比喩を見ましょう。こちらはとても有名なたとえであり、旧約時代にもダビデ王は「【主】は私の羊飼い」と詩篇23篇を書きました。今度イエスはご自身についてそうい言われましたが、信じて従う人々を導き、守り、養われるということです。その意味をこの箇所でより具体的に発見したいと思います。

 1113節で「良い牧者と雇い人」、1416節で「良い牧者と羊たち」、そしてこの全体にある適用として「良い牧者を聴き、従い、信頼する」を順番に見たいと思います。

一、良い牧者と雇い人は異なる(11-13節)

 1113節は、良い羊飼い(牧者)のイエスをいわゆる「雇い人」の様な人と対照します。もしあなたが羊だったら、どの種類の人に導かれたいか考えてみてください。イエスはヨハネ1010節で言われたのは、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」でした。もっと言うと、羊飼いは羊たちを守る為に戦って、いのちを捨てると言われます。そこまでする心算です。

11節 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。

 もう一方で、旧約聖書の時代からも、イスラエルは羊の群れに喩えられました。イスラエルに加えられた人々、つまりクリスチャンたちも、自分を導く人たちのことを「牧者」「牧師」と呼びます。ところが、時には牧者は悪い牧者です。エゼキエル書34章でその様子が分かりますが、古代イスラエルは長く、その問題で悩みました。彼らのいわゆる「牧者たち」は自分の利益になる場合のみ、民(羊たち)を養いました。イエスの時代でも、今でも、羊と呼ばれる神の民、教会の人々はそういう人に悩まされることがあります。2

 良い牧者イエス様とそういう人の違いは、1213節で明らかです。

「牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。」

 羊たち(また、信徒)が襲われても、自分が助かれば好いと思って逃げ出す人はいます。そういう人は、羊とそこまで親しみがありません。賃金よりいのちが大事だと思うのは当然です。羊といのちを天秤にかけるのでなく、賃金といのちを天秤にかけて、もちろんいのちを守り賃金を捨てます。でも同時に羊たちを捨てる訳です。

 ところが、良い牧者は違います。羊を持って、よく知っている牧者なら、羊の為に獣と命懸けの戦いをするかもしれません。命懸けで羊たちを守るのは牧者の使命ですが、なおさら、神の民を牧する長老・牧師たちに同じような使命があります。けれども、最初から文字通り死ぬ積もりはないかもしれません。ところが、イエスは、命を捨てなければならないという使命を抱いて、仰せになりました。究極の「良い牧者」、感謝に値するお方です。

二、良い牧者は羊たちを愛する(14-16

 さて、イエスに従って牧会する牧者、特に長老たち、牧師たちはその模範に見習うべきところ多くありますが、今日の箇所は最終的に、イエスにしか言えないことです。イエスは次に、羊たち(それは、イエスについていく人のことです)との愛の関係を描きます。その愛について三つのことが言えます。

14-15節前半 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。

 1)イエスの愛の特徴①とは、愛の親さです。聖書で「永遠のいのち」はそもそも、「唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ること」とヨハネ173節で定義されています。「知る」ことは親しみを意味します。羊たちはイエスを慕って、知ります。イエスは羊たちを憐れんで、知ります。

 ところが、究極の「知り合う」関係と言えば、三位一体の神様の父と子と聖霊の間にある親さはそれです。永遠で変わらない神の中での愛ですから、究極です。それにたとえて、イエスは信じて従う人々との関係について、まさに15節にあるとおり、「わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。」その関が「ちょうど」、父なる神と子なる神(イエス)の関係と同類です。同じ深さの愛とは言い難いですが、同じように親密な愛を、イエスを信じる者は受けて、捧げることができます。私たちはこれを経験して、喜んでいるでしょうか。

 2)イエスの愛の特徴①は、その愛の深さです。11節の繰り返しになりますが、イエスは15節後半でも、「また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます」と仰います。

 人間がペットなどの為にいのちを捨てるというのは考えにくいかもしれませんが、ごく稀にあるかもしれません。しかし、国の王が弱くて、しかも頑固で浮気性の反逆者の民を、いのちを捨てても助けるのでしょうか。中々考えにくいことです。全宇宙の王イエスは、弱くて、頑固ですぐに神に背いてしまう反逆者の「羊」たちを、命を捨ててまで、守ってくださいます。それが十字架の驚き、神の恵みの絶大な意味です。

ローマ6:6-8 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

 イエスは羊たちを守ると決意されていました。十字架で、「神の子羊」として無惨に殺されました。その際、神様ご自身から降りかかる罪への怒りという刑罰を吸収して、宥められました。それで私たちは父なる神の愛だけを受けられるようになりました。いのちを捨てられた良い牧者イエスの愛はそれ程に深いです。

 余談ですが1718節にさらに詳しい説明がありますが、イエスの愛は天のお父様が非常に喜ばれる、しかも権威のある愛です。イエス様は子なる神として、いのちを捨てても復活する権威を持って、愛を示してくださいました。(どんなに立派な王や羊飼いであっても、しもべや羊の為にいのちをたとえ捨てたとしても、それでおしまいです。しかしイエス・キリストは蘇られた、「救いの主」です。)イエスは牧者として、蘇られてこそ、愛を示してくださる、最高の牧者です。

 3)最後に、16節によるイエスの愛の特徴はその愛の広さです。

わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。

 イエスは神の近くに来た人を「この囲い」に入っている羊に喩えます。そして、群れを小さな囲いの中に限定せず、広がって成長していく大きな群れの全体像を心に描いて、その一匹一匹を求め、囲いへ連れて入れると仰います。イスラエルのユダヤ人を前にして語られましたが、その民族的、宗教的な「囲い」の枠を超えて、世界中の国と民から集める人々を含めた「群れ」を見据えました。そして羊が聞いて、従えるように、神様がしてくださいます。イエスの「声」は、聖書から聞こえます。

 私たちの会衆にいる信者はイエス・キリストの世界的な群れの一部です。今年の年間聖句を通しても、色々な人が集い、イエスを知ることによって一致して成長することを願っています。まさに、イエス様がこの思いをまず持たれたのです。そしてこれは今ここにいる人で終わらないはずです。これからも、この小さな「囲い」にも人が加わるように導かれると信じて、そうなるように祈り、励みたいです。

 まとめて言うと、イエスの愛は親しく、深く、広い愛です。深く感謝するべきお方です。

三、良い牧者を聴き、従い、信頼する

 さて、牧者としてのイエス・キリストは、普通の中途半端な牧者との違い、そして従う羊たちとの関係を通して、ご自分がどんなに愛に富んだ方かを示されました。私たちへの適用は簡単です。「あなたはイエスの羊として歩んでいますか。」これにも、三つの要素があります。

 1)まず羊は牧者の声を聴く必要があります。ヨハネ1016節だけでなく、34節、8節でもでイエス様は「羊」がご自分の声を聞き取り、従うと言われました。その声が分かるからです。その声は、聖書で聞くことができます。聖書を離れては、神の声を聞くことができません。神のことばである聖書を聞いて読んで、「イエス様の声だ」と分かるように、聖霊様が助けてくださいます。3聖書に親しむ中で、イエス様の声にますます慣れ親しみましょう。

 2)聴いてから、羊は牧者に従う必要もあります。今日の箇所の16節にあるように、イエスの「羊たちはわたしの声に聞き従います。」もちろん信じますとは言いやすいですが、実行するのは難しいです。世間の意見に流されたり、羊より狼に似た、神に反抗するような衝動や欲望に譲ったりするかもしれません。「聖書で書いてあることは分かるけど、現代の、日本の常識や状況に合わなすぎて、従えない」と思われる可能性があります。その時、良い牧者の声と愛を思い出しましょう。

 3)羊は、従うだけではなく、信じる必要もあります。なぜなら、私たちは羊の様に高慢で頑固だからです。どんなに行いや言葉を良くしても、罪を犯し続けます。赦しを受けるには、イエスを信頼する必要があります。私たちの為にイエスがいのちを捨てて、また復活してくださったと信じる必要があります。甘えないで、しかし憚らないで、イエスに信頼しましょう。

最後に

 「イエス・キリストが私の良い牧者です」言えますか。イエスは今、子羊として屠られたが今永遠に生きて、統べ治めてくださる王様です。しかし、反抗的な私たちを愛して導いてくださいます。私たちはその御声を聞いて、従っているでしょうか。信じているでしょうか。その声は最高であり、その導きは完全です。その愛の深さと広さが私たちの罪を背負って、覆います。

 詩篇23:6 まことに 私のいのちの日の限り

いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。…

 良い牧者イエス様に聴き、従い、信頼することができます様に。

 

1 招詞 第一ペテロ2:24-25。交読:6(詩23篇)。賛美:讃美歌4番「よろずのくにびと」、354番「牧主わが主よ」、164番「こひつじをば」 神学テーマ:導き、王なるイエス。

2エゼキエル書34:2-48参照。

3使徒28:25参照。ウェストミンスター信仰告白1:10