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説教箇所:ヨハネの福音書10110

説教題:「わたしは羊たちの門です」1

 今まで、イエス・キリストが比喩を用いてご自分を語って来られる箇所でいのちのパン、世の光を見てきました。今日はわたしは羊たちの門ですになります。日本では立派な門のある家が多くありますが、それは内と外を分ける存在ですね。不思議なことに、イエス・キリストは全ての人に声をかけて、門であるご自分の「内」に入るように招かれます。この壮絶な招待に私たちはどう応答して、その恵みをどう受け止めているのか、考えてみたいと思います。

 1015節でイエス様は幾つかの喩(たと)えの中に羊の群れ、囲い、門があります。羊を世話する囲いの「門番」と「羊たちの牧者」、また羊を盗み滅ぼす盗人もいます。

 古代の中東の社会では馴染みある話でした。羊は家畜でしたし、イスラエルではいけにえとして使われる大切な動物でもありました。そして、羊は頑固で、弱い家畜です。間違った方向へ行くと絶体絶命の動物です。守ってくれる人を必要とします。古代の中東のイスラエルの地域では、数家族で一つの大きな囲いを石などで建て、そこにそれぞれの群れをまとめて、夜に門番に守らせることもありました。羊たちは門を潜って、夜は囲いの中の安全、朝は囲いの外の牧草地へ向かうことができました。

 ところが、イエスは喩えとして話されていました。そして聞き手は「イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった」6節にあります。それでイエスは続けて、7節で踏み込んでご自身を説明する比喩をまた用いられます。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。」

 710節で、7節意味を確認したいと思います。話の構成は、1)いのちを奪う「盗人」、2)いのちを与える「門」、3)いのちの「門」を通る「羊たち」になります。

 

一、いのちを奪う「盗人」

 第一に、イエスが人々に招きをしているので、「羊」は人々とまず理解します。また、イエスに敵対する人もいるのも分かります。先週、世の「光」と逆の「闇」を対照しました。今回、「門」なるイエス様と対照的な存在は、羊たちの敵である1節と8盗人であり強盗です。

 文脈からすると、「盗人」らは聖書が言ういのちと幸せを得られない様に、人(羊たち)を間違った方向へ導く人です。彼らは、8節のイエスによると、イエスの前に来た者たち」です。それはイエスの時代の前という意味より、「イエスの前に割り込もうとした者たち」と言えるでしょう。1節で「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者」です。つまり、イエスという「門」を自ら通りたがらず、イエスへでなく滅びへ他の人をも導いてしまう人です。2

 10節でイエス様が警告を続けます。

「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。」

 まず念頭にあるのは9章の指導者として認められたパリサイ派の人たちでしょう。彼らは、イエスによって目が見えるように癒された男性がイエスを慕うゆえに、その男性を追い出しました(9:24-34)。彼らはイエス様に従うのを嫌って、むしろ自分で人を違う方向へ導きたかったのです。

 彼らは聖書をよく勉強して、善い行いに励む人たちでした。善い行いや結果に励むのは良いことですし、そうする人を認めてもいいです。しかし、もしそれがイエス・キリストより大切であれば、それは盗みであり、人を滅ぼす強盗なのです。

 日本社会でキリスト教が広まらない一つの大きな要因は、日本社会そのものの善い行いに対する誇り、自慢でしょう。パリサイ人たちのように、煙幕を張ることができる、いわゆる「良い人」が多いです。キリスト教の道徳がなくても、社会はこんなにうまく行っているじゃないか、と言われやすいです。クリスチャンでない日本人も確かに人の迷惑にならないように務め、礼儀正しくて丁寧、真面目。そして原則として、それを認めて、尊敬することはできます。

 けれども、キリスト教が日本(いや、世界中)で問題となるのは、キリスト教は行動に限らず心の中の信念だけでも終わららず、霊と霊、神が人間と人格の関係を持たれるものだからです。全身全霊で、イエス様に拠り頼んで近づかないといけません。でも人生がうまく行っている人にはそれは受け入れ難いです。羊が「門を通るより、自分で石垣を駆け上って囲いに入った方が格好い。門は要らない」と思う方が楽だと言い換えられます。

 門を避けて祝福を得られるという声は今も、私たちの周りそして中にありえます。①イエスを知らない、信じない世間かもしれません。(ユダヤ人たち)②時には、教会の中で真理を曲げる教師かもしれません。(パリサイ人たち)③あるいは時には、私たちのうちにある高慢かもしれません。どれも、滅ぼしてしまう強盗の声、最終的に、悪魔が送った声です。

 

 二、いのちを与える「門」

では、次にいのちを与える「門」を考えましょう。イエスと門の比喩で、何が似通っているでしょうか。9節は門とイエスについて二つの共通点を教えます。

1)まず、前半に一つがあります。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」

イエスは門の様に、羊がどこかへ移る(繋がる)為におられます。そしてイエスは「救い」へ通じる門です。「救い」とは、真の神様またイエス・キリストとの関係を拒み破壊した罪とそれに対する裁きから救われて、本当の幸せを神様との関係において受けることです。これは後ほど扱う「いのち」とも言えます。また、この比喩で「囲い」の中が救いを象徴します。イエスは救いの唯一の門として、ご自分を差し出されます。

 そしてイエス様を「通る」ことはイエスを自分のいのちの中心とすることです。何でも、イエスに信頼して生きることです。

2)二つ目に、イエスは門の様に、羊がいのち、しかも豊かないのちを受ける為におられます9節後半は続けます。

また出たり入ったりして、牧草を見つけます。

 イエスは、囲いから出ると救いを失う、とは言っていません。この比喩はその意味をしていません。むしろ、出ても入っても守られ、必要なものを受けられると言っているのです。イエスに来る人はイエスを通して、日々、永続的ないのちが養われます。10節によると、それはイエスのご意志です。

10節後半 わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

 神様とイエスと親しく知り合う関係のことです。神のすばらしさを経験してほめたたえて、さらに神を喜ぶことです。3 その中で、地上の色々な恵みをも経験できますが、中心にあるのは真の神との関係です。

 イエス様を通る人、すなわちイエス様に自分の信頼を寄せる人は、霊的に殺されることからも霊的に飢えることからも守られます。イエスの羊は満足して、「私の杯は あふれています」と詩篇23篇のとおりに言えます。イエス様は門として、心の満足を下さいます。4

 イエス・キリストが門として信頼に値するのはなぜでしょうか。死と裁きの「門」を自ら潜られたからです。永遠のいのちに値するほどの、完全な従順と信仰を持って神を愛してくださいました。死に、葬られ、三日目に甦られたからこそ、罪人も神と生きる関係を受けて、今と永遠の幸せを受けるようにしてくださいます。

三、いのちの「門」を通る「羊たち」

 さて、イエスのみもとに行き、通ることは、(繰り返しになりますが)イエスに拠り頼むこと、信頼して生活することです。イエスが完全な義なる方として、私たちが神に歓迎される為に必要な義のきよさを転嫁してくださると信じる必要はあります。それは十字架によって保証されたことです。そして、信じると、従う決心も求められます。罪あることに気付かされると、悔い改めることも求められるので、いのちの門なるイエスを通りその羊となるのは気持ちよくない時があります。しかし、本当の平安と喜びへの門です。クリスチャンはすでにこれを経験していますが、ますます深く味わえるはずです。

 質問を三つ、提案したいと思います。自分の本音の答えをまず考えてみてください。よかったら、どなたかと一緒にその答えを分かち合って、励まし合ってください。

 1)あなたを、キリストを通らずに違う方法で平安や喜びを手に入れる様に引っ張る「盗人」の「声」がありますか。8節後半によると、イエスを通る人は先ほどの偽りの牧者の声から守られます。「羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした」。でも時には、そういう声はとても魅力的に感じます。それは人や人間関係から来るかもしれません。気をイエス様からそらす娯楽かもしれません。恐れを抱かせて、イエス様から離れさせようとする心配事や世間の目かもしれません。人間の成功を謳って、イエス様の屈辱的な十字架が自分と関係ないとささやく自慢かもしれません。

 2)あなたは、イエスが自分の門、救い主であると信じているなら、日々、それを味わっていますか。主日礼拝、そして特に主の聖晩餐において、私たちはイエスが養うのを経験します。しかし日々、聖書を振り返り、祈ることによっても、私たちの信仰は養われます。祈りの答えを経験します。悔い改めるべきことも示されるかもしれません。私たちの信仰は生きていますか。

 3)あなたは、イエスの守りや養い以上に、イエスご自身を慕っていますか。イエス様は心身ともの祝福を、今の人生でも将来の永遠にも保証してくださいますが、今、それが完全である訳ではありません。今幸せだと言える根拠はあくまでも、イエスとの関係にあります。そこに喜びを抱けていますか。

 以上の三つの質問に対して、聖霊様が私たちに不足や罪を示されたかもしれません。イエスを通らないで欲しいものを求めたこと、イエスの約束を日々の喜びとしないで「ギリギリ」や「ペーパードライバー」のクリスチャン生活で満足したこと、あるいはイエスよりイエスからの贈り物を慕った思いはあるかもしれません。だからこそ、毎日、毎週、「イエスは私のいのちの門です」と確認するのは大切です。

 今日、主の聖餐式でも、イエスこそ私たちの養い、いのち、救いだと確かめます。驕り高ぶった思いや自己中心的な思いから私たちを洗い聖めて、神に受け入れら得る義を転嫁するのは、いのちを捨てて門を開いてくださったイエス・キリストです。今日も、イエスを慕ってみもとに行きましょう。

 

 

1 招詞 詩篇103:1-5。賛美:讃美歌67287271。
2マタイ23:13参照。
3ヨハネ17:3