
2026年4月12日 説教「マリア!」 “Mary!”
箇所 Text:ヨハネの福音書20章11〜18節(新p227)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:54、301、358、158、542番 招詞/Call to Worship:詩篇126章5~6節(旧p1072) 交読文/Line-by-line responsive reading 12番 詩篇42篇 (Psalm 42)
English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)
2026年4月12日更新
毎年、桜の花が散っても、来年もそのような景色を目にすると想定して、待ち侘びることができます。でも主イエス様は死なれてまた復活なさったことを、人は想定していなかったので、待ち侘びるどころか、絶望していただけです。でも、今日の話の女性にとって、一言で絶望が喜びに変わりました。
【マリアの経験】
- 先週の話で、イエス・キリストが復活したと最初に聞いた女性3名にマルコが言及しました。ヨハネはマグダラのマリアという、そのうちの一人に焦点を当てます。20章の初めに彼女は墓から走って、十二弟子のペテロとヨハネにイエス様のご遺体がないと伝えました。その二人は墓を見に行き、ある程度信じますが、10節の時点でまだ半信半疑だったようです。
- それで11節から、マリアはまた墓に戻ったところでエピソードが始まります。「マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。」天使からイエス様がよみがえられたと聞いても、信じられません。信じるために、天使そしてやがてイエス様が語りかけます。
- 12節で「白い衣を着た二人の御使いが」いました。彼女がマルコ16章で見た同じふたりだったでしょう。13節「女の方、なぜ泣いているのですか」と尋ねられます。イエス様は復活したと言ったのではないか、諭そうとする言葉でしょう。しかしマリアは「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません」と、遺体のままのように答えます。
- 14節以降、復活したイエス様が初め登場。マリアは、「…イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。」イエス様が見たい、見えるだろう、という現実逃避など、空想はマリアの心にありません。だから、妄想だったという主張は間違っているでしょう。イエス様はマリアに、二つの質問をなさいます。⑴「なぜ泣いているのですか。」泣く必要はありません!⑵「だれを捜しているのですか。」言い換えると、どんな「人」が葬られたと思いますか。イエス様は死んで、腐って終わる人ですか…。
- マリアはまだ、イエスはただ死んで腐ると思っていました。15節後半「…彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。」絶望で目が霞んで、耳がふさがれていました。声を聞こえてもそれがイエスの声だと意識しません。そんなはずがない、とその可能性を除外しました。管理人かのように、イエス様にイエス様の身体の引き渡しを求めます。
- 16節でマリアにとって、すべてが変わります。「マリア」!とイエスが、マリアの心を動かしてきた、慣れた御声を掛けます。マリアがハッとして、アラム語で「先生」と答えます。
- マリアは駆け寄って、イエス様にしがみ付いたと思われます。それは17節から想像できます。
- 「わたしにすがりついていてはいけません。…」マリアは、イエスの説明からすると、二度とイエスから離れたくないと思って、しがみついたでしょう。
- すがらなくても良い理由があります。「わたしはまだ父のもとに上っていないのです。」まるで、「まだ時間がありますよ」という意味でした。実際、イエス様は復活してから40日の間、地上に残って、弟子たちと時間を過ごされました。※⑴
- イエス様は、「わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい」と命じられます。「兄弟たち」は、まだ迫害を恐れて隠れていたり、半信半疑で墓から帰って行ったりしたヨハネとペテロのことです。
- イエス様は復活したからだ、マリアが最初イエスだと分からなかったからだを持っておられました。他のどの人より遥かに偉大な方でした。死をも、悪魔をも打ち破られた勝利者でした。でも、あの弟子たちを「わたしの兄弟たち」と、愛情を込めて呼んでくださいます。「わたしの父…わたしの神」と御自分は弟子たちを超えたことをも、「あなたがたの父…あなたがたの神」と、弟子たちと共通の父なる神様がいることも述べて、偉大さと親密さ両方をほのめかされます(ヘブル2章11~12節参照)。※⑵
- そしてイエス様は御自身がその父なる神「のもとに上る」と仰います。「上ろうとしている」「近いうちに上る」とも訳されます。キリストは本当に天に昇ります。
- イエス様は現時点、地上にいませんから、私たちはその御からだにすがることはできません。しかし、イエス様は十字架に行く前に、すでに、ともにい続け、再び、御自分を信じて従おうとする者の所に来ると約束なさいました。マリア、他の弟子たちは、孤独にはなりません。
- 「助け主」ヨハネ16章7節(新p218)「…行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」
- 「再会と居場所」ヨハネ14章3節(新p213)「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」
- さて、18節で【マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。】イエス様が生きておられる、そしてまだ暫くおられると安心して、マリアは従順にイエスと別れを告げて、子たちに知らせました。
【私たちの経験】
- マリアも他の弟子たちも、イエスの約束を信じる信仰が弱かったです。世間の常識、自分の知恵に頼って、神様の教えを無視する、不信仰な心が残っていました。でもそういう罪についても、イエス様は十字架上で、罪びとの刑罰を身代わりとして受けて、神様に見捨てられる苦しみを受けました。そして復活し、さらに天に昇り、聖霊を送ってくださいました。それゆえ、イエス様はクリスチャンをもクリスチャンの共同体である教会をも、見捨てないで共にいてくださいます。主イエス様は真実に、信仰の弱い人(マリア、また私たち?)の名をも呼んでくださいます(ヨハネ10章4・14節)。
- 桜が毎年咲くと思って、期待します。気候パターンが乱れていても、雨も風も日光も、四季の楽しみをいつか届けると信じます。でもイエス様が約束された御言葉はそれ以上に確かです。
- イザヤ55章10~11節(旧p1262)「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、 地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、 種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。 そのように、 わたしの口から出るわたしのことばも、 わたしのところに、空しく帰って来ることはない。 それは、わたしが望むことを成し遂げ、 わたしが言い送ったことを成功させる。」
- イエス様があなたの名をもお呼びになり、創造主なる神様と愛し合う関係に召してくださったと信じますか。マリアは復活のイエス様を期待しませんでしたが、生きるイエス様は彼女を求めて、呼んでくださいました。
- キリストを信じる生活が始まりかけのであっても、キリスト者生活が何十年も続いていても、私たちはまだ、罪深く弱い者です。私たちの力に頼れません。しかし、私たちの心を変え、心に「住み」、罪から立ち返るように「ひきかえし」、神様の愛する子という関係に召してくださる神様の仰せの力に頼れます(讃美歌358番2節)。神の力強い御言葉を信じて、イエス様に付いて行きましょう。
説教について
振り返り:イエス様があなたを呼んだと信じますか。その約束を信じていますか。
参照箇所:ヘブル2:11-12・13:5-8、イザヤ55:10-11
注 ※⑴ D. A. Carson, John, Pillar New Testament Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 1990), 644-645 (Accordance version).
※⑵ 上掲書, 645.