
2026年4月5日 説教「よみがえられました、アーメン!」 “He Is Risen, Amen!”
箇所 Text:マルコ14章28節、16章1〜8節(新p102)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア
讃美歌/Hymns:62、148、271B、158、541番 招詞/Call to Worship:イザヤ25章7~9節(旧p1204) 交読文/Line-by-line responsive reading 4番 詩16 (Psalm 16)
English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)
(2026年4月4日夜更新)
主イエスはよみがえられました!確か、つまり「アーメン!」と言えますか。クリスチャンでなければ、信じがたい、そして信じても自分と関係はない、と思われるかもしれません。クリスチャンであって、教会ではアーメンと言えても、家に帰って、家庭事情、仕事や勉強に戻ると、いわゆる「日常の現実」にぶち当たります。疑いや後悔、罪悪感が押し迫って来るとき、「イエスの復活の話」に逆に当惑するかもしれません。イエス様の復活当日の朝も、そうでした。
【女性たちの計画から、驚きと恐れへ】
- ユダヤ人の葬りは、前回でも見たように丁重に行われました。マルコ16章1節「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。」土曜日の夕方は、仕事を原則してはならない「安息日」の後であったので、お店が少しだけ開き、香料の買い物はできました。
- 2節「そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。」つまり日曜日になり、彼女たちは計画どおりになすべきと思ったことをしようと、出かけました。
- ところが、3節で、彼らが前から考えていたか分かりませんが、今さらながらここで疑問を話し合います。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」二日前に、イエスのご遺体がどこに納められ、またどんなに大きな石で墓の穴が塞がれたを見届けていました(15章47節)。まず石が転がし退けられなければ、目的を果たせません。
- でも、16章4節で彼女たちはショックを受けます。「ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。」すでに墓への入り口が開いています!
- 「墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。」「青年」の姿を取ったのは天使、創造主なる神からの使いだと他の箇所が述べます。ここで使われる「驚く」は悩みや当惑を含めた驚きでした。イエス様のご遺体が見当たりません!反応に困りました。イエスの預言をもし聞いていたら、復活の約束を知っていたはずですが、その成就だという結論に至りません。
- それに対して、5節でまず、天使は「驚くことはありません」と励まします。
- 6節の続きは皮肉な励まし、不思議な慰めの挨拶です。
- まず「あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。」確かです。「あの方はよみがえられました。」ええっ!?「ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」確かに、ご遺体はありません。その場所が空になっています。※⑴ さらに当惑したでしょう!女性たちは、「申し訳ありませんが、墓地の管理人はご遺体を動かす必要がありました」とかなら、事務的に対処できましたが、とんでもない展開です。
- 7節で天使は続けて、イエス様の14章28節の預言の成就を伝えます。
- 「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」
- マルコが使徒ペテロと親しかったと言われていますが、ペテロの思い出かもしれません。14章28節でイエス様は弟子たちに「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」と述べられました。その数時間後に弟子は皆散り散りにイエスから逃げ去り、さらにペテロはイエスとの関係を否定してしまいました。みっともなかった弟子たち、ことさらにペテロへ、初めて出会ったガリラヤで関係を新たにしましょう、と。イエス・キリストは罪ある人との関係を新たにしてくださいます。
- さて、8節はマルコ書で最も悩ましい箇所の一つです。「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。」
- 他の福音書では彼女たちは他の弟子たちに天使の伝言を述べました。それはここと矛盾のように聞こえますが、女性たちはまず当惑に陥れられ、後から他の弟子たちに伝えたということでしょう。でもマルコはわざと、突然の終止符を打ちました。
- ちなみに、括弧には、9節以降の文章も、新約聖書のある写本にありますが、元々のものではなさそうです。おそらく、書き写したある人がマルコ書の突然な終わりに、それこそ当惑して盛り込んだ補足でしょう。その内容は大体聖書の他のところで見かけられるものです。
- 最後の「恐ろしかったからである」について、半信半疑とショックの意味です。彼女たちは単純に埋葬のお手伝いがしたかったのに、驚きに驚きが積み重なり、ついに身震いする程に恐ろしく感じました。マルコの福音書は「恐れる」の語を使って、怯える恐れ以外に、奇跡的な助けを見聞きした人の反応をも表します。女性たちは「そんなはずがない」と混乱して、どうしようかと戸惑って恐れて、福音書が終わります。
- イエスが身体的に復活されたことを聖書は他の箇所でよく伝えますが、マルコは敢えてそこまで書かないで、女性たちの最初の反応に集中さることにより、私たちに問いかけます。私たちだったら、そこでどう応答した、と思いますか、と問い掛けられます。
- 他の福音書では彼女たちは他の弟子たちに天使の伝言を述べました。それはここと矛盾のように聞こえますが、女性たちはまず当惑に陥れられ、後から他の弟子たちに伝えたということでしょう。でもマルコはわざと、突然の終止符を打ちました。
【私たち】
- 私たちの日常生活は女性たちの経験に似ているかもしれません。女性たちのように、最高に良い知らせを聞いても、それが絶大過ぎて受け入れがたく感じるかもしれません。自分の日常からかけ離れたように感じられます。
- イエスをも復活をそもそも信じないなら、望みがないことは当然のことです。
- クリスチャンであっても、家族や同僚に信仰が否定されると、聖書の教えは「現実離れた、非常識」と思うかもしれません。外からそういう疑いは忍び寄るかもしれません。
- 或いは、自分の心の中からでも疑いは起こり得ります。こんなに良い知らせは自分のためではありえないと疑うかもしれません。「こんな信仰の弱い私のためにイエスが復活して、また会いたいと言うのはあり得ない…神様に恩を着せられたから、頑張ってお返ししないといけない…」など、「良過ぎる」ような良い知らせである福音に反応します。
- つまり、神の壮絶な教えと壮絶な恵みをそのまま認めないで、日々の悩みを自分の力で解決したがります。
- でも、聖書の神こそが現実を宣べられます。その知恵こそ、本当に日常を変える現実です。「生ける望み」を与えるものです(第一ペテロ1章3節)。
- 誰でも、神様の教えに背いてしまい、神様との関係を蔑ろにしてしまう「罪びと」です。しかし、イエス様が身代わりとして死んで、さらに復活して天に昇られました。それゆえ、そのイエス様に自分を委ねて神様との関係の回復を求めることができます。そうする者は神様からの赦しと歓迎、つまり神様と愛と平和の関係を頂きます。そして日々の決断において知恵と助けを受ます。いつまでも神様と親しく歩める希望があります。
- 恐れ、心配や罪悪感があっても、私たちは「あの方はよみがえられました」そして「天から、また来てくださいます」という約束を受けています。イエス様が、罪を悔い改めて信頼する者の心の中にいて、会ってくださいます。永遠に神様と歩める希望があるゆえ、集まり、祈り、「主は蘇られた」と宣言し続けましょう。アーメン!
説教について
振り返り:イエス・キリストがよみがえられたことはあなたに希望を与えますか。なぜ、ですか。
参照箇所:詩篇115:2-3、第一コリント15:12-20、第一ペテロ1:3
注
※⑴ 他の福音書(ヨハネ20章5~7節)では、そこにイエスに巻きつけられた葬りの亜麻布が畳んであったと補足します。5~7節)では、そこにイエスに巻きつけられた葬りの亜麻布が畳んであったと補足します。