ヨハネの福音書6章32〜35節1 「わたしはいのちのパンです」2
百瀬ジョザイア牧師
お腹空いたことがあるかと思います。遊んだり、作業したりして食べる時間がなかったとか、調理時間が長引いて待ったとか、かもしれません。やっと食べることができた時、シンプルなおにぎりやパンでも、どんなに美味しかったか覚えていますか。そしていっぱい食べて、満足を覚えた時を思い出せますか。今日の箇所を冒頭にまとめますと、イエス・キリストが最高の美味しさ、満足を与えられる方です。私たちは日々、常に、そのイエス様を受け取るように招かれています。
先週から、イエス・キリストがご自身について言われた「自己紹介」(自己啓示)をヨハネの福音書で見始めました。これからのものは、イエス様が「比喩」(ひゆ)を用いた発言です。「AがBだ」と言って、AとBの似通ったころをはっきりさせることによってAの特徴を明らかにする話し方です。ヨハネ書に7つ程ありますが、これらを通して私たちが「イエスは私の何々(いのちのパン、ぶどうの木など)である」と確かめることができればと願います。
今日は「わたしはいのちのパンです」という比喩です。三つのポイントを覚えて頂きたいと思います。1、ユダヤ人の要求。2、「いのちのパン」の意味。3、いのちのパンからいのちを頂くこと。
一、ユダヤ人の要求
まずヨハネの福音書6章全体の文脈ですが、6章の初めでイエス様の話をかけ離れた山で聞きに来た人々5千人以上の為に、パン5個と魚2匹とを、皆が満腹になるほどに奇跡的に増やしてくださいました(1〜14節)「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と、群衆は感激しました(14節)。
ところが、先週も言いましたが、私たち人間はイエス様がご自身について言われる事を受け入れたくない場合があります。この箇所の群衆もそうでした。24・25節で彼らの何人かはカペナウムという町まで主を熱心に捜しに戻って、見つけけました。しかし、イエス様は彼らの期待を裏切るような返事をして、結果的に群衆は離れて行きました。彼らのやりとりの結果、「あの人は救い主じゃない!」と思ったからです。
そうなってしまった理由は幾つかありました。一つは、救い(永遠のいのち)は自分の行いで得られると思ったことです。28節で彼らは「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか」と尋ねました。ごく自然な質問かもしれませんが、イエスは29節で「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです」と返します。努力と行いに集中する人はイエスの招きを受け入れたくないのです。多くのユダヤ人たちも、このイエスをそこまで信じたくありませんでした。
彼らがイエス様を離れた二つ目の理由は、彼らがイエス様に、おもに物質的な祝福を求めていたからです。彼らは食べ物が与えられれば良いと夢見ていました。30と31節でユダヤ人たちの先祖が荒野の中で導かれた40年の間、奇跡的にパンを受けて生活をしていた出来事を指します。そしてイエス様に、前日の奇跡をすっかり忘れたかのように、モーセの時代の奇跡以上のしるしを見せたら信じよう、と挑戦します。けれども、イエス様は32・33節でこう正します。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」
ただの人間でなく神ご自身がパンを下さった、とイエスが言われます。ところが、求めるべきなのは、究極の「いのちを与える」「まことのパン」だったのです。でも34節でユダヤ人たちはこう返事しました。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」 言い換えると、「パンのビュッフェは『美味しい』話だ。もっと教えてくれ」と、物質的なこととして聞き取り続けました。
一言でまとめると、ここの人たちは自分の想像に合った、都合のよい救い主ならイエスを認めようと思っていました。物質的な助けをくれるなら歓迎するが、「いのち」ほど大きなことを与えて、完全な信頼と服従を要める救い主はほしくありませんでした。ほとんど皆は66節で疑いと拒絶の気持ちで去ってしまいます。
二、「いのちのパン」の意味
けれどもイエス・キリストは35節・48節・51節でご自分を「いのちのパン」と呼んで、招待し続けました。今日のメイン箇所の35節です。
35節 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
「わたしがいのちのパンです」を文字通りに受け止めたら、群衆のようにチンプンカンプンになってしまいます。しかし、今日からの説教シリーズの比喩とは(繰り返しですが)、「AがBだ」と言って、AとBの似通ったころをはっきりさせることによってその特徴を明らかにする話し方です。ですから、パン=イエス・キリストではなく、それらの似ているところを考える必要があります。
今回の比喩では、どちらも命を与え続けます。ところが、イエス様は人に(身体的だけでなく)魂のいのちをも下さる「まことのパン」(34節)という点では異なります。
では、イエスがいのちのパンなら、どんな「パン」でしょうか。3点お話しします。
①イエスは最高の満たし、満足を与える「パン」です。その招きから分かります。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」これはは、一度食べて飲めばイエスはもう要らなくなって、クリスチャン生活卒業、という意味ではありません。イエスの与えるいのちが決定的なものだという事です。
私たちは色々な楽しみ、成功、人間関係で充実や満足を一時的に経験できるかもしれません。しかし、最も大切な目的と生きがいは、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」とまとめられます。3 私たちを造られた神様と親密な関係を持っていない限り、心が飢えていて、乾き切っています。色々なもので穴埋めをしようとしても、満足できません。けれども、イエス様が心の飢え渇きを満たすことができます。私たちの造り主、救い主だからです。永遠のいのちはヨハネ17章3節でこう定義されています。神を親しく知って、イエス・キリストを親しく知ることです。キリスト教は行いでなく、信仰、信頼関係、愛の契約の絆で成り立ちます。
②イエスはいつまでも続く命を下さる「パン」です。もう飢えることも渇くこともないのは、一生涯続き、永遠に続く満足が与えられるということです。40節でイエス様が続けます。
40節 「わたしの父のみこころは、子〈イエス〉を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
つまり、私たちが死んでも、この世界の「終わりの日に」新しい、復活したからだを持って、永遠に神の素晴らしさを経験して喜ぶことができます。イエス様が新しい、完全なからだを下さり、復活させてくださるからで。だから死後に関する恐怖を抱く必要がないのです。
③イエスは命を捨てたからこそ、永遠のいのちを下さる「パン」です。
さらに進むとイエスは、聞いていたユダヤ人たちを愕然とさせて、怒らせたことを仰いました。
51・54-55節 「わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。…わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。」
60節によると、群衆の多くはイエスの肉体を食べて、血を飲むと聞いて、拒絶しました。比喩として捉えても、そこまでイエスを取り入れたいと思いませんでした。勿論、文字通りに捉えたかもしれません。イエスの肉体を食べるというのも気持ち悪い、想像できないことだったでしょう。
しかし、イエスの肉と血はまさに、想像を絶することを意味しました。パンを食べる前に、麦を潰さなければなりません。火を通さないといけません。イエスがご自分の肉を「パン」として与えるために、肉が裂かれ、血が流されました。なぜなら、霊的に死んでいる人(それは私たち皆)に永遠の命を与えるために、身代わりとして裁きを受けて、死んで、葬られる必要がありました。イエスはそうしてくださり、さらによみがえってくださいました。そこでエペソ人への手紙2章4〜5節がこう言います。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
イエス様がいのちのパンとして魂のいのちを与えるために、死んで、よみがえってくださいました。
三、いのちのパンからいのちを頂くこと
さて、いのちのパンからいのちを頂く方法ですが、普通のパンについても言えますが、イエス様のいのちを受けるためには、イエスを自分の内に取り入れる必要があります。美味しいパンを見て、買って、切って、材料や栄養分の分析をしても、食べなければ力にはなりません。イエス様の話を聞いて、読んで、分析して、整理して、話しても、イエス様ご自身を取り入れなければそのいのちの栄養は受けられません。だからこそイエス様がヨハネの6章で招いてくださいました。
イエス様がこのように、いのちのパンとして「食べる」様に招いてくださいます。聞く者が心の拠り所を自分、お金、人間関係、力、外見、能力、立派な行いなどからイエスに移す様に。満たされる為に、自分の行いの改善と努力に頼らず、完全な義によって歩んだイエスの義に拠り頼む様に。
これは誇りを捨てることになります。イエスを自分のいのちのパンとして取り入れるのは、「私は弱くて、罪深く、情けなく、自分自身にいのちのない者だ」と認めることです。だからこそクリスチャンになるのは難しいですし、クリスチャンになってもイエスを本当に必要と認めるのは時に難しいです。
でも、私たちは恵みによって救われています。聖書で神の律法を受けますが、イエス様が代わりに律法を完全に守られて、その義を信じる者に転嫁してくださるという福音をも聞きます。これを信じるたび、私たちはイエスを心で食べて、飲むのです。そうして、イエスのもとに行きます。養っていただきます。聖晩餐式でもそうです。ですから、毎日、毎秒、イエスのもとに行って、信じようではありませんか。イエスはヨハネ6章36節で言われます。「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」
家庭、幼稚園、学校、職場、趣味などの中で葛藤があり、もどかしさを感じて、満足を得られないときは日々あるでしょう。どんな業績でも空しいと感じることはあるかもしれません。人間関係が壊れてしまうときもあるかもしれません。その中でお腹が痛いほどに空いたと感じる時のように、私たちは心の飢え渇きに気づくかもしれません。その時に、イエス・キリストが私たちのいのちだと気づきやすいです。不満があるとき、喜びと満足の源であるイエスに期待するよう、お祈りすることができます。
私たちが罪人で受けるに値しないのに、イエス様は招いてくださいます。裂かれた肉と流された血で私たちの罪を覆って、私たちを囲み、きよめ、歓迎してくださいます。それで神との生きた関係を永遠に与え続けます。クリスチャンとしても、この良い知らせを毎日覚えたいと思います。
結論
イエス様はあなたにとって、いのちのパンですか。イエス・キリストは私たちが神様と生き生きした関係を持てるようにしてくださるお方です。「イエスが私のいのちのパンです」と告白して、実際に信頼して喜んで、歩めるようにお祈りします。
注
1新改訳2017版(©2017新日本聖書刊行会)使用。
2 招詞 イザヤ書55章1〜3節。賛美:讃美歌 163番「天つ御使いよ」、187番「主よ、命の言葉を」、260番「千歳の岩よ」
3ウェストミンスター小教理問答の回答1。 “Man’s chief end is to glorify God, and to enjoy him forever.”