ようこそ。鳴門キリスト教会へ。

ご挨拶

鳴門キリスト教会のホームページにお越しくださりありがとうございます。歓迎します。

今まで教会と繋がりがなかった方でも、クリスチャンの方でも、集会に歓迎します。個人的に話を聞いてほしい方も歓迎します。お気軽にご連絡ください。

なお、新型コロナウィルス感染症の現状を受け、しばらくの間礼拝短縮やライブ配信など行なっておりましたが、現在、少しずつ対面の集まりを再開しています。マスク着用は任意です。消毒液を入り口付近に置いていますのでどうぞお使いください。

 

牧師の自己紹介

2024年5月に就任した百瀬(ももせ)ジョザイアと申します。

国籍はアメリカですが、クォーター(4分の1日本人の血を引いた)です。苗字についてよく聞かれますが、そ祖父がカナダへ移住した日本人だった経緯により、私は「百瀬」と申します。

両親が宣教師として、40年以上前に来日しました。その後、私は関西で生まれ育ちました。大学卒業後、4年間大阪にある特許事務所で勤めてから、聖書の勉強の大学院(神学校)に通い、2018年から教会インターンをして、2023年に牧師になりました。

家族には妻と息子3人がいます。趣味はハイキング、釣り、読書などです。

 

クリスチャンになったきっかけ

教会で育ったので自然とクリスチャンになったかと思われるかもしれませんが、クリスチャンは遺伝ではなく、聖書の神様からの働きかけがなければなれません。私の場合、きっかけは私の失敗でした。

失敗と言っても、はっきり言うと聖書の定義する「罪」でした。

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(旧約聖書、レビ記19:18)

「隣人」の弟を意地悪く押し除けようとしたある時、母が呼びかけて諭しました。「ジョザイアは本当にイエス様に従っているのか」のような問いかけでした。突然、心に刺さりました。自分はクリスチャンの積もりでしたが、それまでに自分の「罪」(神とその教えに対する反抗)を憎いと感じて、神様に赦しを求めて、罪としていなかったのです。まだ自分中心に生きて、幸せになろうとしていました。そこで、心変えられる必要がありました。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず…(新約聖書ローマ人への手紙3:23)

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(新約聖書テモテへの手紙第一1:15)

罪から離れようとして神に近づく(「悔い改める」と言います)必要もありましたが、その前にまず、神様が指定してくださった救われ方(神と平和を持つ方法)を受け入れる必要がありました。つまり、イエス・キリストが約2000年前に十字架の上で死なれた時に、私の身代わりとして私の罪に対する刑罰を受けて償ってくださった事実を受け入れ、そういう意味でイエスに信頼を置く(信じる)必要がありました。

神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。(新約聖書テモテへの手紙第一2:5-6)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3:16)

そう信じて、神に従う助けを神に求めた時に、私はクリスチャンになりました。

 

目指していること

聖書のすばらしさとその神に魅了されたから牧師になりました。聖書を人と分かち合って、生きる目的が聖書の神様との関係にあることを説明して適用しようとしています。

人のおもな目的は、何ですか。

人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。(ウェストミンスター小教理問答第1)

そして、神様から離れて生きている方に、イエス様がなしとげる和解によって、神を喜ぶように勧めたいと願っています。

神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方<キリスト>を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(第二コリント5:20-21)

 教会や聖書に分かりにくいと感じられることが多々あるかもしれません。分かりにくさをなるべく解消してまいりたいと思いますので、気になることをどうぞお声がけください。

 

※このホームページで使っている聖書の訳は、聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会です。ウェストミンスター小教理問答の日本語訳は『ウェストミンスター信仰基準』日本基督改革派教会大会出版委員会編(1994、新教出版社)、「ウェストミンスター小教理問答」3ページ。