2026年8月16日 説教「礼拝の乱用とサムエルの生い立ち」 “Abuse of Worship and Samuel’s Upbringing”    

箇所 Text: サムエル記第一 I Samuel 2章11〜26節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア 招詞 Call to Worship:ヘブル Hebrews 12:28-29 讃美歌 Hymns:11、322、191、540番 交読文 Responsive reading:19番 詩84篇(Psalm 84)

English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing) 

※原稿と実際の語られる説教が異なることがあります。ご理解ください。


 聖書は、全身全霊をもって、自分を造られまた赦して、近づけてくださった神様のために生きること全体を礼拝と呼びます(ローマ12章1節)。また、特に神様を信じる人が共に集い、神と出会う礼拝の大切さを教えています(ヘブル10章24・25節)。しかし、面倒臭い…しんどい…つまらない…と思ったことがあるかもしれません。気づけば、
1日を神様考えずに過ごしたとか、賛美の歌を考えずに歌っていたとか…。神様はそれをどう見ておられるでしょうか。今日の話は二つの歩み方を示します。礼拝を乱用する歩みと、不思議にも守られる礼拝の歩みです。

 11節でサムエルはエリに預けられて、イスラエルの礼拝で仕えることを習い始めました。けれども、この箇所のほとんどはエリの息子二人(1章3節:「ホフニとピネハス」)を取り上げます。

 12節は、彼らを「よこしまな者で、【主】を知らなかった」と言います。11節の「幼子」と同じ言葉は13節で彼らについて、「子弟」として使われます。しもべとも訳せます。要するに、著者はエリ自身の息子と彼に預けられたサムエルとを、似た立場の子、しもべとして比較しています。※⑴ 

 ホフニとピネハスはどうだったでしょうか。祭司は民に、真の神様との生きた関係をどう生きるかを教え、また、礼拝で神様と会衆の間に立って、代表者として礼拝を進める責任を負っていました。重い責任でした。以前、祭司アロンの長男と次男が命じられていなかった香を神へのささげ物として出した時、彼らはすぐに神様からの火で焼き尽くされて、処刑されました(レビ記10章1〜2節)。(数週間前のローマ3章の説教のように、旧約時代に処罰はすつに下されることが多かったです。)

 ところが12〜16節が言うには、ホフニとピネハスは平気に礼拝を乱用して自分の腹を満たしていました。イスラエルでは、動物の脂肪分は血同様、主なる神様へのささげ物専用でした。人間の食物ではありませんでした。祭壇の火で脂肪分を炙り出して、肉が焼き上がったときに、特定の胸肉の部分は祭司の食べる分でした(レビ7章28〜36節)。しかし、エリの息子たちは脂肪の多い肉を食べようと思って、できるだけ取れる肉を先に取り上げていました。16節で、礼拝者が「まず脂肪をすっかり焼いて、好きなだけお取りください」と言っても、子弟は「力ずくで取る」と脅迫して、奪いました。

 17節は「このように、子弟たちの罪は、【主】の前で非常に大きかった」とまとめます。神様の前で喜ばれる礼拝をするべきところ、神に嫌われることを平然としていました。言い換えて、「この人たちは【主】へのささげ物を侮った」と続きます。どうしてでしょうか。確かに儀式に細かいルールはありました。しかしそれで神様は彼らの罪を見過ごして、彼らと関わり続けていました。神の恵みに感謝して喜ぶべきことです。でも、面倒臭い義務だと思うようになり、さらに無視しても良い手間と思い始めて、結果として軽蔑していました。都合のよいように、礼拝を変えていました。

 ところが、18節はその横のシーンを描きます。「さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、【主】の前に仕えていた。」主の前のジュニア祭司たちの罪Vs.主の前のサムエルの奉仕が対比されます。サムエルの生い立ちにもちろんエリは影響を与えましたが、産みの母ハンナの愛を受け続けていました。※⑵ 19節毎年会っていました。若手祭司たちの悪い模範の環境にいながらも、守られました。さらに、20〜21節 でエリは祭司の権限によって祝福をハンナと夫のエルカナに述べて、ハンナは他の子供をも授かりました。

 ところが、エリは自分の息子たちの罪の噂を聞いていました。22節で礼拝を乱用して欲しい食べ物を奪い、さらに仕えようとする女性たちを口説いてか強姦してかで、傷つけていました。次のシーン、23〜25節でエリは正そうとします。25節で人間同士が争うなら神様でも間に入り助けられるが、「主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか」と忠告しました。エリは息子たちを、説得しようとしました。

 けれども、ホフニとピネハスの心は頑なでした。25節後半「しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころだったからである。」神様も、罪さえもご計画に含めて、用いられます。その二人を、彼ら自身に責任を問い、処罰すると定めておられました。

 最後に、26節はまたサムエルの、エリの子との違いを浮き彫りにします。「 一方、少年サムエルは、【主】にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。」(ルカ2章52節参照)エリ自身の子の歩みは破廉恥な、権力を悪用して礼拝を乱用するスキャンダルでした。まさか、少年サムエルがあのような環境でも、静かに育って、守られて成長していました。

 さて、今日の話は、礼拝の乱用の問題の中でさえ、神様はその子供を守り導かれる話です。私たちには、警告も望みの良い知らせも聞く必要はあると思います。

 まず、私たちに示される私たちの罪。エリ自身がずっと育てた子は自分の勝手な思いから、神様が命じられたことをせず、禁じられたことを行いました。自分を本当に満足できる神様を捨てて、神の礼拝の何よって、欲しいものを手に入れようとしました。残念ながら、ホフニとピネハスと違う形を取ると思いますが、私たちも、礼拝にしんどさを覚え、自分の都合のために利用する誘惑になびくかもしれません。

 礼拝は私たちの日曜日の朝1時間を始め、1週間の7日間全部にわたって、神様の素晴らしさを表現して生きることです。神様にあって畏れも喜びも抱かせる生き方です。※⑶ 確かに、疲れます。親しい人間関係のように、神様との出会いである礼拝で、全身全霊が求められます。疲れる時があります。けれども、その出会いを面倒臭い、あるいはただの手段と思ったら、非常に勿体ないです。例えば、一人だけで礼拝を済ませるのが楽と思って、集わない…礼拝の賛美や献金をだれかに認められるための手段として使う…歌や説教の間、もっと関心しやすいことを思う…このような思いに従いそうなら、神様がどんなに私たちを大切にして喜ばせることができるかを信じていないからでしょう。

 父なる神様はその民を愛して、礼拝に招いてくださっています。冒してはいけない、聖なる方です(ヘブル12章29節「燃え尽くす火」)が、喜びある礼拝によって支える主です。少年サムエルは父と母を離れて、反面教師のような若手祭司たちを見ながらも、静かに礼拝に関わるように、守られました。

 ヘブル人への手紙12章(新p455)の著者は、恐れと尊敬を持って礼拝するように招く28節の前に、クリスチャンの礼拝の意味合いを説明します。自分の自己中心を認めて、嘆きつつも、安心して神様を崇めることができます。なぜなら24節によると、神様があなたを迎える根拠は、「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。」(24節)「主はくだりて、血のあたいもて 民をすくい、きよき住居を つくりたてて」くださいました(讃美歌191番)。「この人たちをわたしが血で罪の滅びから買い出しました。彼らをきよく扱って、実際にきよく歩むように守ってください!」イエス様の血はそのように「すぐれたことを語る」のです。神様に歓迎される保証は、私たちが与えるものやなすわざによりません。「新しい契約の仲介者イエス」です。

 教会の礼拝に偽善的な罪が残るのは残念な現実です。ところが、色々な「あらそい み民をさき、世人そしりて なやむれども」神様は、信頼し続けるクリスチャンを守ります(讃美歌191番)。礼拝は第一に神様の栄光のためですが、第二に私たちを潤し満たすためです。私たちの礼拝を用いてきよめる保証であるイエス様を信じますように。

説教について

振り返り:神様を軽んじてしまった際、悔いて、神様に立ち返ってよいと保証したイエス様を信じますか。

参照箇所:レビ7:28-36、マラキ1:6-2:9、ヘブル12:21-29、ペテロ第一2:4-5

注 ※⑴ David Toshio Tsumura, The First Book of Samuel, NICOT (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 2007), 156-158.

※⑵ 創世記3:15の「女の子孫」と「蛇の子孫」の一例と言えるでしょう。   ※⑶ ウェストミンスター小教理問答問い1。

鳴門キリスト教会
礼拝内容(説教)