2026年8月2日 説教「義と見なす、義なる方」 “The Righteous One Who Treats as Righteous / The Just Justifier”  

箇所 Text: ローマ Romans 3章23~24節   聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者 :百瀬ジョザイア  讃美歌/Hymns: 4、214、271B、502、541 番  招詞/Call to Worship:詩篇 Psalm 47篇1~2節 交読文/Line-by-line responsive reading  18番 詩67篇 (Psalm 67)

English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)
 

 

 新約聖書と旧約聖書のどちらが好きですかと聞くと、ほとんどの人は新約聖書は馴染みやすいと言います。旧約聖書の文化背景が難しいだけではありません。戦争やいけにえの血まみれな話、創造主なる神による刑罰は怖くて嫌だ、というような答えがよく返って来ます。

 ローマ3章25、26節はその旧約聖書の世界がどう新約聖書の世界に変わったかを教えます。すでに述べられた「キリスト・イエスによる贖い」(24節)を掘り下げる説明です。具体的に、神様が古い契約で罪を罰して来なかったこと、そして今はどうなったかという大変重要な真理を通して、誰でも受けて良い救いの素晴らしさを述べます。

 これは人間が考え出せることではなく、神様のみの知恵によるものです。

一、25節前半:イエス・キリストは宥めによって、神様との平和と可能にされました。

神はこの方を、…示されました」。神様はイエス・キリストを世に示してくださった、あるいは《定められました》。神様が何よりも人に知ってほしいのは、イエス・キリストです。

信仰によって受けるべき」イエス・キリストは、自分の正しい心や行いを頼りに神に認められたい人の助けになりません。私たちは信仰によって、キリストのすべてを受けられます。

宥めのささげ物」は「宥めのもの」とも訳せて、旧約聖書の出エジプト記37章とレビ記16章のように、より具体的に「宥めの蓋」に使われる言葉です。

神の神殿の最も聖なる部屋に神の契約を書き留めた黄金金貼りの「契約の箱」がありました。その上部に金貼り「宥めの蓋」が付いていました。そしてレビ記16章にある、毎年の重大な「贖い」の儀式では、祭司は一頭の雄牛と一頭の雄の山羊の血を順番に宥めの蓋に掛けました。レビ記16章16節で「イスラエルの子らの汚れと背き、すなわちそのすべての罪を除いて、聖所のための宥めを行う」と説明されています。つまり、イスラエルの民が主なる神に反抗してきた「罪」のために処刑されないで済むように、罪を身代わりの動物の血で覆い、赦していただきました。

「宥められる」と人間的に言うと、怒りを和らげるように働きかける感覚でしょう。※⑴ 真の神との関係では、神様は正しく裁く方なので、ご自分に対する反抗(罪)を正しく処罰する怒りをあらわされます。その正しい怒りを出し切ることにより、神の公正な義を保ち、あらわされます。モーセの古い契約では、動物が犠牲となって主の怒りを受け、神は民を罪赦されたきよい民と見なしてくださいました。

さて、今日の箇所は、イエス・キリストがそういう宥めの役目を果たされたと言う訳です。動物でなく、イエス様ご自身は十字架の上で処罰され殺されました。そういう意味で新改訳聖書の訳「血による宥めのささげ物」と言えます。さらに、イエス・キリストご自身が宥めがなされる本来のところ、「宥めの蓋」となられました。神様が人を赦すようになるところ・お方です。

二、25節:神様は古い契約の時代に、罪の刑罰を保留して、恵みを示してこられました。

1 さて、25節後半に神様は「ご自分の義を明らかにされるため」働かれたとありますが、26節でも大体同じ表現が出ます。過去と現在の旧新約時代が違っても、神は同じ目的をお持ちでした。

2 旧約時代に関して、25節で「神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。」つまり、贖いの日の宥めのように、神様は一時的に人が受けるべき刑罰を保留しておられました。決して、無視したのではありません。ただ、動物の犠牲をもって一時的に「見逃してこられた」ということです。

3 また、旧約聖書のイメージは刑罰と戦争だと申し上げましたが、確かにその部分もありました。神様は、将来の、世の終わりと造り替えの日に下す裁きの前味として、罪を悔い改めない人への裁きを即座に行うことがありました。戦争を命じ、神の礼拝を軽率に扱う人をすぐに殺すなど、厳しく罰することがありました。そこから、本来私たちにも来るはずの裁きを垣間見ます。

4 けれども、神との絆を受け入れ、神様の指定する方法で信仰によって近づく者は、罪が見逃された、その刑罰を保留されたということです。 

三、26節:神様は新しい契約の時代に、義と認める恵みと、罪を罰する義を示しておられます。

1 ところが、26節は「今この時に」神様が義を明らかにしようとされた新しい方法を教えます。※⑵

2 26節の「ご自分の義を明らかにされた」(25節とほぼ同じようにも訳せます)は今度、24節の「キリスト・イエスによる贖い」で完全に示されました。

3 動物のいけにえによって罪は本当に消し去れられません(ヘブル10章4節参照)。そもそも、その贖いの儀式は本当の贖いをほのめかす「予兆」でした。※⑶だから、罪は25節で一時的に「見逃してこられた」が、いよいよ裁かれる日の、究極の贖いの「今」が来ました。

4 究極の贖いは、25節にあった「信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物《宥めの蓋》」イエス・キリストでした。主イエスの身体が裂かれ、血が流されました。神様が反抗的な罪びとに与えるのを保留していた怒りの裁きをイエス様に全部向けて、宥めてくださいました。

5 結果として、私たちは神様の怒りでなく歓迎を受けることができます。※⑷ 古い契約の時代の怖い罰はありません。ただ、新約聖書でも、イエス様が裁き主としてすべてを正す究極の審判と刑罰を最終的に下すとあります。

6 でも、まずイエス様ご自身が神の怒りを宥め、イエスに信頼する者にその怒りが降らないようにしてくださいました。そう言う私たちは正しい神に近いて、助けを求めて良い「義」ある人として見なされ、歓迎されています。

7 「すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、…」これですべてがまとまります。神様は、「義であり」、全ての罪に見合った怒りを持って徹底的に罰せられます。

8 ところが、同時に、罪から抜け出すことのできない罪びとを「義と認める方」です。具体的に「イエスを信じる」罪びとの罪に対する怒りを宥められるように、イエス様を召し、遣わしてくださいました。

9 昔のイスラエルの信者たちも、神の恵みゆえの赦しを期待して、代わりのいけにえと贖いの働きによって義と認められました。あなたと私は、よりはっきりと、「今」にそれがイエス・キリストの流された血の犠牲により、完全で2度と繰り返さなくても良い贖いによって神の怒りから救われると知ることができます。※⑷

10 では、あなたはイエス・キリストを通して義と見なされて歓迎されると信じて歩んでいますか。未だに、神様が自分に苛立ちや怒りを少し抱いて、罰したいと思っていると感じることがありますか。神は義でありつつも、完全にあなたを義と見なし、歓迎されるようにイエス様を下さいました。ですから、受け入れられるか心配する必要はありません。キリスト者は罪が赦され、きよい者として扱われています。義と見なす、義なる方を信じて、その子イエス様に頼って、恐怖なく歩んで良いです!

説教について

振り返り:イエス・キリストを通して義と見なされて歓迎されると信じて歩んでいますか。

参照箇所:レビ16:1-19、使徒17:30-31、エペソ3:3-7、第二テサロニケ1:9-10

注 ※⑴ 北原保雄編集『明鏡国語辞典』第2版(大修館、2011)、1295ページ。※⑵ パウロは「今」を「キリストが始められた終末的な神の国の時代としての今」として、深い意味を込めて用いることがよくあります。例えば使徒17:30-31、エペソ3:3-7、コロサイ1:25-27参照。 ※⑶ 贖いのための宥めの蓋も、契約の箱と共に、イエス様の誕生の遙か前に失われました。また、ウェストミンスター信仰告白7章5項参考。 ※⑷ キリストの前の聖徒もキリストの後の聖徒も、同じ救いに与っています。ウェストミンスター信仰告白7章3・5・6項、11章6項参考。 

鳴門キリスト教会
礼拝内容(説教)