2026年6月7日 説教「別の形で、神の義が示された」 “God’s Righteousness Revealed–A Different Way” 

箇所 Text: ローマ Romans 3章20~22節   聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア  讃美歌/Hymns: 75、187、204(1,3,4節)、80、545A 番  招詞/Call to Worship:詩篇 Psalm 85篇9~13節 交読文/Line-by-line responsive reading  34番 出エジプト20章 (Exodus 20 The Ten Commandments)

English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)
 

 鳴門海峡の渦潮を経験する方法は幾つかあるでしょう。水泳得意な人は、中へ飛び込むことはできます。その絶大な力は体験できます。でも、溺れてしまうでしょう。あるいは、泳げなくても、観光船に乗って(橋の渦の道を歩いて)、近くまで行って見ることができます。心配していても、乗れば大丈夫です。

 聖書が教える創造主なる神様の義を経験する方法は二つあります。それを示す律法に飛び込み、自分でその中を泳ごうとする方法もありますが、それに耐えられません。もう一つは、今日の箇所(先月の月報で紹介した「みことば漬け」の箇所)でパウロが言う「律法とは関わりなく」経験する方法です。

一、律法を通して義を持って神様の歓迎を受けることができません。

1 ローマ3章19節「律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。」律法は神様のさばきの基準である「義」を表します。しかし、律法は心を変え、律法を守らせる力を持ちません。(先週より、申命記30章16節参照)

2 ローマ3章20節はその理由を「なぜなら…」と紹介します。

3 「…人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。」「義と認められる」立場は、神様が歓迎できるほどにきよく、正しい立場です。だれも、自らの立派な生き方やまた熱心な祈りを根拠に、神様に近寄って正しいと言われることはできません。

4 20節「律法を通して生じるのは罪の意識です。」神様の「義」は律法の基準から見えてきます。ところが、自分の歩みをそれに照らし合わせたところで、罪責感しか生じないのです。後悔、恥、そして正しく審判して裁かれる神様の前で恐れます。

5 ローマ2章13節でパウロがすでに忠告しました。「律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。」律法を自力で少しでも守られると思うなら、大間違いです。神の義に飛び込んだら、守っていないあらゆる点で指摘されて、溺れてしまうでしょう。神様は「有罪」と言わざるを得ません。

二、「しかし今や、律法とは関わりなく、…神の義が示されました。」(21節

1 ところが、別の形でも、神様が求める義を経験することができます。「関わりなく」又は「抜きに」それがあります。

2 「…律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。」神様が人を律法の行い次第でない形で「無罪、義人」と言い渡すことは、すでに旧約聖書(つまり「律法と預言者たちの書」)で予告されていました。最初から計画されていた道です。

3 「律法抜き」の義は私たちが律法どおりに行って、取り繕った義ではありません。

三、22節は、神様が別の形で示してくださった義を説明します。(ローマ5章まで、詳しくなる)

1 22節「すなわち、イエス・キリストを信じることによって…」律法の言うことを行うという方法と全く異なった方法は、キリストに信頼を置くことです。

1. イエス・キリストに自分を委ねること。

2. 神様に歓迎される望みを、全て、イエス・キリストにかけること。

3. 罪びとは信じる信仰でなく「イエス・キリストの真実によって」義と認められる、と訳す人もいます。しかしここも他の聖書箇所も、罪びとが信じて、義を受けると伝えます。

2 「信じるすべての人に与えられる…」何も差し上げないでも、受けられます。ただ、信頼を置く必要があります。

3 「神の義です。」神様の義について覚えるべき事が幾つかあります。

1. 神の義は完全です。それを受けるなら、神様に歓迎されるために残り数パーセントもの良い行いは要りません。

2. 「神義」はおそらく、神様から来る義と言う意味です。

3. 「義」は抽象的ではありません。具体的に神様が喜ぶ行いです。具体的に、イエス・キリストの義のお裾分けです。

4. 神様から与えられる義は、イエス・キリストに信頼を置いた人がイエス・キリストの行いの義です。キリストが代わりに神様から拒絶の刑罰を受けて十字架で死なれた義です。

5. ですから、「神の義」はイエス・キリストが生きた具体的な義です。第一コリント1章30節(新p327)「あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。」私たちにイエス様の義があるとして見ていただいて、歓迎いただけます(第二コリント5章21節)。

6. 律法を通して神様の義が表される際、罪びとは自分の行いの履歴に従って、「有罪」との言い渡しで裁きと拒絶に終わります。

7. しかし、福音を通して神様の義が表される際、罪びとはイエス様の行いの履歴を受けて(転嫁されて)神様に歓迎されます。無罪・義人との言い渡しを受けます!

4 「そこに差別はありません。

1. ローマ1章から3章前半までは、旧約聖書の律法に精通しているユダヤ人であっても、その律法を知らなくでも神様の存在を認識しつつ神に逆らう異邦人であっても、最終的に同じ清い律法の基準によると裁きを受ける、と指摘しました。律法によって義ある人と言われることがあり得ません。

2. 同じように、義ある者として扱われる人の違いによる、「差別はありません。」同じ祝福、同じ完全なキリストの義を持つ者と見做されて、神様に歓迎されます。

5 神様の律法を守れない人は裁きの「渦潮」に入ると定められています。でもイエス様と繋がる者が守られます。イエス様が代わりに、霊的な意味で深海で死んでくださいました。私たちは信頼を置くと、イエス様が私たちが乗り込んで渦潮から守られる「船」となられます(第一ペテロ3章18〜21節参照)。

四、結び。律法を守れないことも、イエス様が守ってくださったことも、信仰告白です。

1 イエス様の義があるものとして歓迎していただけるから、私たちはどのように神様に応えるべきでしょうか。感謝で満たされた心から、イエス様を十字架に付けた罪を嫌い、離れて、神様に近づく歩みをしようではありませんか。

2 私たちは律法を守るべきだとも、守れないとも認めます。イエス様が自分の代わりに罪の処罰を受け、代わりに義の従順を完全に果たされたと信じます。立派なクリスチャンになったつもりであっても、まだ、あなたが神の義を持つのはイエス様にあってのみです。だから誇らないように。

3 そして、自分のためにそうしたイエス様に自分を委ねて、神様に近づく信仰告白をします。期待して、聖餐式でもこれを告白しましょう。

説教について

振り返り:イエス様が自分の代わりに罪の処罰を受け、代わりに義の従順を完全に果たされたと信じますか。

参照箇所:ローマ1:16-4:8、第一コリント1:30、第二コリント5:20-21

鳴門キリスト教会
礼拝内容(説教)