
2026年5月10日 説教「イエス様の昇天、弟子たちの喜び」 “Jesus’ Ascension, the Disciples’ Joy”
箇所 Text:ルカ Luke 24章50~53節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:19、286、461、541番 招詞/Call to Worship:使徒 Acts 1章10~11節 交読文/Line-by-line responsive reading 21番 詩91篇 (Psalm 91)
English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)
愛する人との別れは寂しいことです。夏休みに友だちに会えない学生でも、恋愛関係の終わりでも、死によって引き離された人でも、別れることが痛いです。それまで共にいた相手が今後、共にいません。一時的でも、辛いことです。その痛みを和らげるのは、別れの前の良い思い出、あるいは、時には再会する希望かもしれません。
イエス・キリストが復活して、天に昇られたことはクリスチャンの確信と告白です。でも、弟子たちにとって、寂しい別れでもありました。しかし、彼らは取り残されたとき、残ったのは喜びでした。素晴らしい約束と恵みを受けつつ、希望を持って別れたからです。
【イエス様の昇天】
まず、イエス様が地上で最後に、何をなさったか。ルカは五つの動詞で教えます。三つの行動にまとめられます。
1)【弟子たちと一緒に出発】50節「それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き…」ルカ19章によると、ベタニヤ付近にオリーブの山があり、それは使徒1章に書かれている、イエス様の昇天の場所です。十字架にかけられ、復活したときのように、エルサレムの中ではなく、その外、しかし近くにイエス様はおられました(ヘブル13章13節参照)。また、弟子たちと一緒で行ったのも興味深いです。イエス様は十字架では孤独に彼らと、イエス様の全時代の弟子に代わって、創造主なる神様の刑罰を受けて死なれましたが、もう一度、一緒におられました。
2)【弟子たちの祝福】50節後半に二つの動詞が組み合わされます。「手を上げて祝福された。」イエス様は旧約時代の祭司のように(レビ記9章22節)、手を上げて祝福を宣言なさいました。パウロもほぼ全ての手紙の終わりに、神様の祝福を宣言する形で挨拶します。それに倣って、牧師はよく「祝祷」を述べます。でも、神様に代わって行う牧師と違って、イエス様は直接、祝福を下さいました。
3)【天への帰還】51節「そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。」イエス様が高く上げられ、天の国に帰還なさいました。その時の賛美は想像の絶するものですが、天使は驚いたに違いありません。神として出て行かれた神の子が、人間として、しかも釘の痕を負って、雲のうちに上られました。
神様の大歓迎が伴い、イエス様の栄光を世界に見せる昇天でした。①ルカは受け身の動詞を使います。イエス様は自ら「上がられた」とも言えますが、むしろ「上げられた」ことを強調します。父なる神様はイエス様を自慢して、引き上げてくださいました。②しかも、使徒の1章10節は「雲がイエスを包」んだと言います。旧約時代でも、雲で神様の栄光が現されました。父なる神は子なる神の帰還を栄光で包み、最高の栄光で歓迎なさいました。
イエス様が最後まで低くなってくださったことを謳ってから、ピリピ2章は9節で神様がイエス様の栄光を掲げたと伝えます。「それゆえ神は、この方《キリスト》を高く上げて、 すべての名にまさる名を与えられました。」
【弟子たちの喜び】
天に入られたイエス様の歓迎の迫力は具体的に分かりませんが、ルカは弟子たちの見送り方を教えます。これも三つに分けられます。
1)【礼拝】52節前半「彼らはイエスを礼拝した…」マタイ28章17節では戸惑う者もいたとありますが、ここではもはや、弟子たちの応答は礼拝だけでした。雲に乗って昇られたイエス様は確かに、神の子、永遠の王だと認めました。
2)【エルサレムへのお帰り】52節後半「…大きな喜びとともにエルサレムに帰り」は、イエス様が命じられたとおり、ひとまずエルサレムで聖霊様によるバプテスマ(満たし)待つ必要がありました(使徒1章5〜8節参照)。寂しさの中でも、神様の約束が残りました。共にいること、聖霊様を送ること、そしてイエス様がまた地上においでになること(マタイ28章20節、使徒1章5・11節)。喜ばずにいられませんでした。イエスは生きておられ、治めておられました!
3)【続く礼拝】53節「いつも宮にいて神をほめたたえていた。」山から降りても、弟子たちはエルサレムので礼拝を続けました。※⑴ 後に、エルサレムの宮(神殿)にいなくても、それが無くても、礼拝できる、と分かりました。教会の人々自身が共に神様の宮をなしている、とエペソ2章は教えます。集まれば、どこででも神様の素晴らしさを讃えて、喜ぶことができます。また、礼拝は山の上、イエスが見えたときだけではないことも大切です。地上の生活で続くものでした。
弟子たちの応答の行動は礼拝・帰り・礼拝でしたが、その全体の気持ちは「大きな喜び」でした。イエス様を見捨てたのに、見捨てられていませんでした。祝福の恵みを受けて別れられました。彼らに生きる希望を下さっていました。彼らは地上に残っても、イエス様が共にいると約束されていました。
【適用】
弟子たちは当然、寂しさをも抱いたでしょう。しかし、大きな喜びもありました。誰よりもとうとく愛おしいイエス様を見失っても、失ってはいませんでした。弟子たちはその約束を持っていました。イエス様は再び来られることです(使徒1章11節)。そして、信仰の弱い彼らに刑罰を与えるためではありません。イエス様がすでに、刑罰を受けてくださいました。今は、祝福と約束を受けていました。
スポーツで優勝したチームがホームスタジアムやお国に帰ると、盛大に歓迎されます。勝利を得たプレーはテレビで再生されます。一人かチームの勝利が大勢の勝利として喜ばれます。イエス様の勝利はイエス様に信頼し、従おうとする全ての弟子にとって、最高の喜びです。天に入られたことは、私たちが神様に赦され歓迎される保証、永遠に共にいられる保証です。
そこで、日常の状況にかかわらず、喜ぶことを選んでいますか。弟子たちのように、イエス様の敵の怒りの的になっても、喜ぶ力と助けがあります。主イエス様が約束して送ってくださった聖霊様が下さいます。
もしまだイエス・キリストの弟子でない方なら、その弟子となるように、今日でもその招きを受け入れてください。創造主なる神様を拒んできたことを認めて、神様の和解と赦しをイエス様のご紹介で求めてください。
そしてイエス様の弟子である方。イエス様はあなたを見捨てていません。覚えておられます。地上におられなくても、私たちをも、日々に導いてくださいます。聖書を通して、礼拝の言葉を通して、祝福してくださいます。天におられますが、再び降りて来て、私たちを復活させてくださいます。また裁きから救って、新しい天と地に迎え入れてくださいます。ですから、疑いを捨てて、喜びを持って、最初の弟子たちのように礼拝しましょう。日常の状況が何であろうとも、喜んで神様の素晴らしさを表すことを選びますか。
説教について
振り返り:イエス様が天へ歓迎されあなたをも歓迎すると信じて、日常の状況にかかわらず 喜ぶことを選んでいますか。
参照箇所:使徒1:9-12、ピリピ2:6-11、エペソ2:20-21、マタイ28:16-20
注 ※⑴ 50節でイエス様が「祝福された」、53節で弟子たちが「ほめたたえていた」は、同じ動詞(ギリシャ語で「良い」+「言葉」の語根から)です。弟子たちは主イエス様の良い言葉を受けて、良い言葉で応答しました。信者が神様と生きた関係を歩む姿です。