
2025年9月7日 説教「神様に似てくる人の幸い」 “Blessed Is the One Who Grows in the Image of God”
箇所 Text:詩篇 Psalm 112篇 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:457、312、138、293、539番 招詞/Call to Worship:コロサイ3章9節後半~12節 交読文/Line-by-line responsive reading 41番 マタイ伝5章(Matthew 5 Beatitudes)
詩篇112:1 ハレルヤ。
幸いなことよ
主を恐れ その仰せを大いに喜ぶ人は。
112:2 その子孫は地の上で勇士となり
直ぐな人たちの世代は祝福される。
112:3 繁栄と富はその家にあり
彼の義は永遠に堅く立つ。
112:4 直ぐな人たちのために 光は闇の中に輝き昇る。
《主は》情け深く あわれみ深く 正しくあられる。
112:5 幸せなことよ。 情け深く 人に貸し
自分に関わることを公正に扱う人は。
112:6 その人はとこしえまでも揺るがされない。
正しい人はとこしえに覚えられる。
112:7 その人は悪い知らせを恐れず
主に信頼して 心は揺るがない。
112:8 その心は堅固で 恐れることなく
自分の敵を平然と見るまでになる。
112:9 彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。
彼の義は永遠に堅く立ち
彼の角は栄光のうちに高く上げられる。
112:10 悪しき者はそれを見て苛立ち
歯ぎしりして消え去る。
悪しき者の願いは滅び失せる。聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
初めに
私たちは良くも悪くも、親や先生に似てきます(マタイ10:24参照)。私は父親に似た者となりました。見た目だけでなくしぐさや考え方もよく似ています。でも、彼にも私にも、似た欠けもあります。
良い人のようになれれば、幸せです。最高の方、神様に似た人は幸いだと今日の箇所は教えます。その人の模範は、先月見た詩篇111篇の創造主なる、救い主なる神様です。実は、詩篇111と112篇は似た表現のリンクで繋がるセットです。※⑴ 112篇を見ましょう。時間あるときに111篇を参照してみてください。
一、正しい人の幸いと悪しき者の悲惨(1~10節)
- 【正しい人の幸い】1~2節は序文として、主を恐れる人々を幸いと宣言します。
- 1節2行目「【主】を恐れ その仰せを大いに喜ぶ人」です。111篇10節はすでに、「知恵の初め それは主を恐れること」と教えました。
- 「恐れ」は、恐怖心より、畏敬の念、優先、心の拠り所とも言えます。何に従おうと思うか、何を失っら、だれの気を損ねたら一番怖いか。こういう質問への答えから、自分の恐れの対象が分かります。
- 幸いな人は創造主なる神様と似てきます。真の神は、義と愛の神様です。 これらは、主を恐れ、その教えを喜ぶ人にも育まれ、祝福のある歩みです。そして祝福された歩みに神様の力強い助けも現れます。大まかに言うと、
- 4~5節と9節はその人に育まれる、義と愛を表します。
- 3節と6~8節はその人に与えられる神様の祝福を表します。
- 1節2行目「【主】を恐れ その仰せを大いに喜ぶ人」です。111篇10節はすでに、「知恵の初め それは主を恐れること」と教えました。
- 【神の祝福⑴】3節「繁栄と富はその家にあり」と、主を恐れる人の物質的な助けの祝福があります。旧約聖書文脈のキリスト前のイスラエルでは、神に従う場合に物質的な祝福がよくありました。この生涯の内には必ずという訳ではありませんが、正しいことをすると良い結果があるのは聖書の律法の原則です。
- 【人の義と愛⑴】
- 3節2行は9節2行とほぼ同じ、「彼の義は永遠に堅く立つ」です。神様についても同じことが111篇3節2行目に書いてありました。神様の民は神様に似てきます。
- 4節1行で義ある、「直ぐな人たち」の栄えと力を言ってから、2行目で「主は情け深く あわれみ深く 正しくあられる」と続きます。
- 「主は」は訳者の解釈を含めた補足です。詩全体の文脈からすると、補足するなら「人は」が正確と思います。どちらにしても、人は神様のあわれみと正しさの性質において成長できます。5節ははっきりと、主を恐れる人は「情け深く 人に貸し 自分に関わることを公正に扱う」と言います。神様に似てくる人は自己犠牲的ですが、正しいことに励み、神様より助けと幸いを受けます。
- 【神の祝福⑵】6~8節 主を恐れる人が受ける祝福は3節の助けと繁栄に加え、助けに期待する平安にもあります。
- 6節1行「その人はとこしえまでも揺るがされない。」確固たる安心を持ちます。
- 6節2行「正しい人はとこしえに覚えられる。」111篇10節最後の主のように、主を恐れる人の名声がいつまでも残ります。
- 7節~8節1行 幸いな人は悪い知らせにも怯えず、神様に信頼できます。私たちは色々な事を心配します。しかし、心配を神様に委ねることができます。
- 8節2行は10節をほのめかして、「自分の敵を平然と見るまでになる」とあります。悪を愛し主を恐れない人は最後に、神様に怯えて、神様の敵として悲惨を自分に招きますが、主を恐れる人はそのような人を恐れなくても良いです。
- 【人の義と愛⑵】9節1~2行目は、主を恐れる人の愛と義のある歩みに戻り、3~5節を反復します。「貧しい人々に惜しみなく分け与え」愛を示し、義を保ちます。
- 【神の祝福⑶】9節3行目「彼の角は栄光のうちに高く上げられる。」「角」は聖書で、牡牛の角のように威厳や力の象徴です(第一サムエル2:10参照)。義ある人の力と光栄は神様によって保たれます。
- 【悪しき者の終わり】10節は1~2節の人と反対の人に言及し、警告します。
- 神様を憎む人は「消え去る」のです。
- 8節2行目のとおりに正しい人は敵から守られるが、「悪しき者」の夢は叶わず、悔やみと悔やしがりの中で神様の刑罰を受けます。
二、テーマ 神様に似た人とはだれか
この詩全体は、神様を恐れて、その教えを愛する人の歩みは神のみわざに似てきて、祝福されることを強調して、反対に神に背く者は空しく滅びると教えます。
- 詩篇には幾つかのジャンルがあります。詩篇111篇は「賛美」の詩でした。神様の素晴らしさをたたえる理由を伝えて、神様を謳いました。詩篇112篇は、聖書的な「知恵の歌」です。詩篇1篇や旧約聖書の箴言の一部のように、神様が正しいと認める人の幸いな歩みと結果である祝福を教えて、良い道を選ぶように勧めます。
- 詩篇112篇の強調点は、神様のように義と愛、正しさとあわれみを持って歩む人が神様より守りと繁栄を受けて、平和を抱いて、光栄を受けることです。
- 他方で、反抗を貫く悪しき人は悲惨な「苛立ち」と神様からの裁きを受けます。
- これは私たちには良い知らせではありません。主より人の目、病、痛みなどを恐れるなら…主の仰せより快適さ、力、成功を喜ぶなら…人に与え、人を赦す義と愛が足りないなら、私たちには幸いでなく悲惨が控えます。
三、幸いな人(詩篇111・112)
- でも112篇は、人が幸いになりえると理解して、神に似てくる歩みへ召します。私たちには良い基準または模範がある以上に、「その義は永遠に立つ」幸いな方によって私たちも義あるものとなる方法があるからです。
- イエス・キリストは詩篇111篇の神様ですが、クリスマスで祝うように、人間にもなられました。約2000年前のご生涯を通して、「情け深く あわれみ深く 正しくあられる」方でした。詩篇112篇にある祝福を受ける条件を完全に満たされた唯一の義なる方です。
- ただ、キリストは悪しき者かのように扱われました。受ける裁きに動揺しても、なおも父なる「主に信頼して」十字架へ向かわれました。罪びとの身代わりとして刑罰を受けるだけでなく、自ら義の道に歩めない罪びとに義の祝福を下さるためでした。
- 第二コリント5章21節(新p361)「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」自分のために罪の裁きを受けた、復活した主としてキリストに拠り頼むと、あなたは神の義をキリストから転嫁された者です。神の律法を守ってなれない幸いな人になれません。しかし、神の恵みによって、信仰によって幸いな人として、詩篇112篇の愛と義を歩みます。例えば、第二コリント9章8~9節でパウロは詩篇112篇9節を引用して、神はクリスチャンに寛大な心を養われると教えます。
- キリストの義を転嫁されて、歩む者は幸いです。こんな私たちが神様に似てくるように、聖霊様の助けを受けます。神に似ていないところの、自己中心なことを悔い改めましょう。そして、ただイエス・キリストの義によって義ある者として神に歓迎され守られると信じましょう。イエス様の義をすでに持つ者としてキリストに似てくるように、その義と愛を追い求めましょう。
説教について
振り返り:自分はキリストの義を持つ者だと信じて、その義にふさわしく歩む挑戦をしていますか。神様の助けを受けると信じますか。
参照聖句:詩篇1篇、第二コリント5:21・9:9
註
※⑴ 構造的にも、どちらも各行の頭文字は順に、ヘブライ語アルファベットの最初から最後までを使う「アクロスティック」の詩です。