
2025年8月31日 説教「知恵のある者として」 “As Wise”
箇所 Text:エペソ人への手紙Ephesians 5章15~17節(新p390) 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:89、286、294、544番 (English transliteration Romaji here) 招詞/Call to Worship:詩篇 Psalm 32篇8~11節(旧p963) 交読文/Line-by-line responsive reading 20番 詩Psalm 90篇
15 ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。
知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、
16 機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。
17 ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。エペソ人への手紙5章15~17節
初めに
「知恵」をいつ欲しいと思いますか。ある状況の中で何をするのが一番良い結果に導くかを「知恵」として、「知恵を借りる」など言って、求めます。力や時間、お金を無駄にしないで何かを得るために「知恵」を求めるかもしれません。
では、入学試験、お料理、仕事の計画などでお金や時間を無駄にしてしまった、あるいは人生を無駄にしてしまった!という後悔はありますか。仕方ない事もありますが、知恵を働かせなかったら、使った時間やお金がむなしかったと感じると思います。
キリストを信じない人からすれば、クリスチャンが安息日を守って礼拝することや聖書を読み、競争社会の中でも正直や優しさを通そうとすることを見て「かわいそう。利益にならない。馬鹿げた、愚かだ」と見えるかもしれません。しかし、本当の知恵は神様が教えるものです。聖書によると知恵ある者とは、神様の教えを自分の歩みに(益々)適用できる者です。
パウロはすでに、エペソ人への手紙で何度か「歩み」について語りました。2章2節以降:クリスチャンもかつては、神様に逆らって、悪魔に従って、反抗的に歩んでいました。でも変えられて、違う歩みへ召され、導かれました。神様との平和そして教会の中の一致の現実を3章までで取り扱ったパウロは4章1節で、「…あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい」と適用に入り、愛ある共同生活の歩みを教えてきました。そして今回、知恵ある歩みがポイントです。
一、知恵のある歩み(15節)
- 15節は「ですから」と始まることから分かりますが、前の箇所(8~14節)と繋がっています。要するに、キリスト者は神様のきよさの光に変えられました。神に反抗する罪の生き方を見極めて、それに賛同しないべきです。むしろ、時には罪を他の人にも指摘して、イエス・キリストの光に入れられるよう求める愛の使命を受けました。15節後半は、教会がそのとおりに歩むことを念押しで求めます(15節後半)。
- 「知恵のない者としてではなく、知恵のある者として」の歩みが目的です。
- 神様の教えに無頓着になり成り行きで歩もうとするなら、キリストの光を忘れて、知恵のない歩みを採ってしまいます。
- 私たちは人生の他の大きな目的について目標と計画と努力を持つでしょう。神様の「光」を味わって他の人にも味わわせるために、目標と計画と努力に現れる知恵が必要です。
二、この「時」を活用する歩み(16節)
続いて、16節は「だからです」と15節の知恵がなぜ必要かを教える理由です。
- 「機会を十分に活かしなさい。」存分に、「今」を活用しなさい…すなわち、知恵のある者の歩みは、機会を逃さない歩みです。時間はすぐに過ぎ去ります。(詩篇90篇参照)※⑴ 今の内のみにできることがあります。 若い時も中年の時も年老いても、「機会を十分に活かしなさい。」体力と気力、そして霊的敏感さは時期によって変わっても、今できることがあります。
- パウロは「悪い時代だからです」という理由に焦点を当てます。エペソ2章12~13節は、ユダヤ人以外の人は神様の約束から離れていたかつての時代に替えて、今の時代にどの背景の人でも、キリストの十字架での犠牲に希望を置く者は神様の王国に入る約束を受ける、と宣言しました。ただし、まだキリスト者の心にも罪が残っています。世の中が神様に反抗する、「悪い時代」が続いています。イエス様が再び来られる時代までの間、悪い時代に流されないように時間を活用する葛藤は続きます。
- 悪い時代だから「油断は禁物」です。今、イエス様のことを聞かないといつまでも神様から離れている人が周りにいます。今こその、神様の恵みを知る機会があります。それを活かさないと、後の困難でキリストから受ける慰めと希望は信じにくくなります。今こそ注意して時を活かすと、神様から切り離すような誘惑にノーと答えることができます。
三、主のみこころを悟る歩み(17節)
17節は16節の悪い時代を生き抜く必要を踏まえて、15節をより具体的に繰り返します。
- 「みこころ」という言葉は聖書では「計画」(エペソ1:11)として用いられる場合があります。神様の計画について、神様がはっきりと聖書で伝えたこと以外は知り得ません。しかし、「みこころ」のもう一つの意味合いは「望む事」(エペソ2:3参照)です。ここもそうです。神様(ここでは「主」、イエス様)が人に教えて、人に望まれるみこころです。
- イエス様のこういうみこころは聖書で明らかにされています。※⑵ それは私たち人間の最善のためです。知恵を働かせるための枠組みを教えます。十戒などを知ると、主のみこころの大枠を知り、その中で最善は何かを考えてみて、自由に選んでも良いです。
- 5章10節の「何が主に喜ばれることなのかを吟味」する課題も聖書を知り、聖書の教えの枠組み内で自由に、最善を求めるのは知恵であるとお伝えしました。
- 「悟り」は座禅や修行から来るひらめきなどではなく、神様の教えを慕って、信じて、従おうとする姿勢に対して、神様から与えられる気付きです。牧師が教えたことばかりに頼らず、一人ひとりが自分で注意して聞いたり読んだりして、悟るようになります。
- イエス様のこういうみこころは聖書で明らかにされています。※⑵ それは私たち人間の最善のためです。知恵を働かせるための枠組みを教えます。十戒などを知ると、主のみこころの大枠を知り、その中で最善は何かを考えてみて、自由に選んでも良いです。
- 逆に、気持ちを込めず、あるいは諦めの気持ちで神様の教えを軽く扱って人生を歩んだら、どうでしょうか。「悪い時代」なので、勿体ない、「知恵のない」歩みになるでしょう。
- しかし、神様の教えは人生全体に喜びを抱かせる道の教えです。神様が教会全体の一人ひとりに対して抱く「みこころ」はエペソ1章5節(新p384)にありました。「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」さらに、そのためにキリストがどんな愛を示されたのか、1章7節は伝えます。「…私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。…」十字架で血を流し、罪の暗闇の歩みから買い戻したイエス様によって、神の子、光の子となりました。知恵ある歩みはクリスチャンの救いの経験の続きです。
結び
【まとめ】今日の箇所の趣旨は、教会がこの世の中にいる「時」はまだ悪いものであるから、気を付けて、日々の歩みが主イエスが教えてくださった歩みに適うことを求める必要があります。
【悪い時代と愚かさ】私たちの問題は、私たちを取り囲む悪い時代の影響と、私たちの愚かな、生温い態度です。クリスチャンになっていなければ、悪い時代の流れにそのまま乗っています。
【福音】しかし、愚かに歩んだと後悔する際、神様の良い知らせを覚えましょう。イエス・キリストに自分を委ねると、神のきよい、愛されている、光の子として扱っていただいています。歓迎されます。義と認められます。間違って時間などを無駄にしたと気づいたら、そこから、知恵ある歩みを始める(再開する)機会です。
【適用】だからこそ、「主のみこころ」を悟り、人生の毎日、毎秒を有効活用しましょう。よく言われるように、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」、知恵のある物として歩めることを願って止みません。
礼拝の後
振り返り:主の恵みによる救いのみこころを知って、主の教えをもっと知り歩もうと思いますか。
参照聖句:詩篇90:1-12、コロサイ4:5、エペソ1:3-5・2:2-3・3:10・4:1・5:8-14
註
※⑴ 詩篇90篇は人生の短さとむなしさと失敗を憂い、創造主なる神様に知恵を学ぶ心を懇願します。
12節(新p1030)どうか教えてください。自分の日を数えることを。
そうして私たちに 知恵の心を得させてください。
※⑵ ウェストミンスター小教理問答第3問、ウェストミンスター信仰告白1章1・6・7節参照。