
2025年7月13日 説教「必要を満たす行いと言葉」 “Meeting the Need in Word and Deed”
2025/7/11
箇所 Text:エペソ人への手紙 Ephesians 4章28~30節 聖書 新改訳2017 ©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns (Romaji below):322、185、121、542番 招詞/Call to Worship: 交読文/Line-by-line responsive reading 13番 詩46篇(交読p11 Psalm 46)
初めに
寂しそうな人、困っている人、怪我をしてしまった人を見るとき、どうしますか。思いやりを示すと疲れるかもしれません。大変だから相手の必要を満たさなくてもよいように無視する「見て見ぬふり」はできます。
でも私たちは誰かに愛されて、必要を満たす行動やお声がけがあったから、生きています。あなたのために時間やお金をたくさんかけて、励まして、守ってくれる人は親、先生や上司かもしれません。そうしてくれなかった親・先生・上司もいます。でも私たち皆を思って、愛する創造主なる神様がおられます。その神様は天から「ちゃんとやれ、綺麗なことだけ話せ」という意地悪コーチではありません。近くに来て、支えてくださり、私たちの必要を満たした上で私たちも人の必要を満たすように導く方です。一、必要を満たす行い(28節) 二、必要を満たす言葉(29節) 三、私たちを満たす聖霊(30節)。
一、必要を満たす行い(28節)
まず、必要を満たす行いを28節で学びます。人から奪うのでなく、人に与える姿勢です。
- ここ22~24節そして25節で見たように、悔い改めと神への従順はただ悪いことをやめなさいだけでなく、神様が喜ばれる良いことに励むことを意味します。盗まないだけではなく、寧ろ惜しみなく与えるようになる、と教えられます。
- 第八戒の「盗んではならない」(出エジプト20:15)だけでなく、「あなたの隣人の…を欲してはならない」という貪り(出エジプト20:17)も当てはまります。私たちは自己中心の目的で他の人の物(や時間など)を奪わず、さらに自己中心の目的で働くのでもいけません。寧ろ、分け与えるために働きます。
- パウロは今以上にも驚かれる一言を添えて、「自分の手で正しい仕事を」と言います。
- 当時、産業革命の大分前でいわゆる肉体労働者は多かったです。今よりもさらに、彼らの日常は大変でした。有能な人は手を使わなくても良い、知性中心の営み(管理職、哲学など)が偉いとか崇高だとか考えられがちでした。でもパウロ自身も教師であるのに、天幕などを作る労働に慣れて、それで糧を得る時期もしばしばでした。
- そして「正しい」(よい)仕事をするように。それは人に羨ましがれる仕事ではなくとも、人のためになる仕事、神の栄光をあらわす仕事なのか、私たちも吟味するべきです。私たちの働きは「地味」な作業かもしれません。それでも、誰かのためになるなら、それはそれで良いのです。得た糧で自分そして他の人の必要を満たすことができれば、なおよしです。
二、必要を満たす言葉(29節)
次に29節は、必要を満たす言葉です。
- ここもやめるべきこととするべきことがあります。
- 「悪いことば」を出すのをやめます。「悪い」は腐った食べ物、あるいは悪い果物がなる木について用いられることばです。言葉を使って、人をけなし、神様への反抗を推奨し、とにかく神様から人の目を逸らせることができます。しかし、神の子の言葉はそういう腐敗をもたらしてはいけません。果物の箱に一個だけカビ着いた果物があっても、捨てたいですね。少しでも悪い言葉があると、神様に背く臭いが広がります。)
- 腐った言葉の代わりに、人の「必要」に応じて語る良い言葉を語るように言われます。(教会の中での話を特に扱っているので、特に霊的な必要を満たす話を求めるということです。)
- 良い言葉を語る目的とは、「聞く人に恵みを与え」ることです。神様からの恵み、贈り物を覚えて、私たちも恵みをおすそ分けすることを目指して、何を言うか吟味するとパウロは教えます。以前の4章15節や4章25節のように、真理を語ることは愛の現れですし、愛をもってまたできるだけ愛を表現して、真理を語る使命も受けています。
三、私たちを満たす聖霊(30節)
- 30節は少し突如に感じるかもしれませんが、聖霊様との特別な関係の観点から、正直な、また優しい振る舞いと愛ある言葉を教えます。と言うのは、私たちが行いと言葉を用いて、必要を満たすか人を傷つけるかする際、意識する以上に神様が全てを見ておられます。
- 聖霊様は全てのクリスチャンの心の内に入って、常におられるからです。
- エペソ4章30節は旧約聖書のイザヤ63章10節をほのめかします。その箇所でも、反抗的な民イスラエルが主の聖霊を「悲しませた」とあります。永遠で変わらない神様ですからこれは擬人化ですが、聖霊様も神様でありまた人と関係を持つ方であることはその表現から明らかです。
- 要するに、神が罪ある人をまだ愛し、永遠の命に与らせる際、聖霊様をその内に送って下さいました。
- 聖霊様は1章14節の通り、クリスチャンの一人ひとりが神様の祝福を受けることを約束する証しの「証印」であり、クリスチャンを助ける方です。
- そして私たちは聖霊様との関係を大切にし、深めるように教えられます。5章18節では聖霊に満たされるようにとあります。
結び
私たちは28、29節で聖霊なる神様の愛に応答して、行いと言葉で喜ばせたいか、問われます。事実、非常に難しいことです。なぜなら私たちは自分の必要に目を向けがちだからです。他のクリスチャン、他の人のことを見て見ぬふりするのが楽かもしれません。でも必要を満たす行いと言葉は惜しみなく与える心から出ないといけません。
聖霊を悲しませないような、人の必要を満たす惜しみない生き方と寄り添って良いことで高める言葉は確かに求められています。でも失敗するのは、世の中の全ての人…クリスチャンも自己中心の罪が残っているので、たとえ良い行動や言葉を使ったとしても、それは自分の評判、自分の自己満足、あるいは神様に自分を認めさせる交渉手段のためかもしれません。
そこで私たちは聖霊様を悲しませてしまいます。重い責任を負っています。しかし、同時に聖霊様を悲しませるほどに深く愛されています。聖霊様はエペソ書1章14節によると、「聖霊は私たち〈キリスト者〉が御国を受け継ぐことの保証です。…」神の「御国を受け」、永遠に神様とともにいるという人間最高の幸せを受けるために、私たちは一つだけ必要があります。「…あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、」その聖霊様によって保証を受けます。
救いの福音は繰り返し謳うべき、良い知らせです。即ち、私たちは罪ある者であるのに対して、イエス・キリストが代わりに罪の償いをして、さらに罪びとをきよい者として神様に歓迎されるようにしてくださったことです。大工として良い働きをしてから、人々を癒し慰めて様々な必要を満たされました。特に私たちの霊的な必要を満たすためにイエス様が自分を捨ててまで愛してくださいました。私たちが他の人の必要をいつも満たすかのように正しい者として扱うように、神様の前で代表者となってくださいました。私たちを代弁して、私たちを天のお父様と呼べる神様に紹介してくださいます。
そうして、私たちの最高の必要を満たす神様と共にいることができます。聖霊様が保証する、神様との永遠のいのちがクリスチャンに与えられています。まずイエス・キリストにそう拠り頼みますか。そして、他のクリスチャン、他の人の必要を満たすために、聖霊に頼りますか。
礼拝の後
振り返り:聖霊様が保証する、神様との永遠のいのちがクリスチャンに与えられています。他の人の必要を満たすために、聖霊に頼りますか。
参照聖句:エペソ1:13-14、5:18。
Romaji of Sambika Hymns
322 (Psalm 42:1-5)
- Kami yo, ojika no tanigawa no mizu wo shitaite aegu goto,
waga tamashii wa ikeru Kami shitai matsurite aegu nari - waga adabito wa kakomi tachi, ware ni mukaite “naga Kami wa
izuko ni aru” to nonoshireba, namida zo tsuneni kate narishi - waga tamashii wa unadarete omoi wa uchi ni midarekeri.
oodaki hibiki, fuchi kotae, oonami ware wo koe yukeri.
- waga tamashii yo, ika nareba omoi midarete unadaruru.
iwa naru Kami wo machi nozome, ware ni mikao no tasuke ari.
185 Holy Ghost, with light divine
- kiyoki Mitama yo, oguraki kokoro
terashi tamae ya, mihikari wo mote. - kiyoki Mitama yo, uchinaru tsumi wo
kiyome tamae ya, michikara wo mote. - kiyoki Mitama yo, kono ukimi nimo,
mitashi tamae ya, amatsu yorokobi.
- Mitama yo, taezu kokoro ni sumite,
osame tamae ya, nokoru kuma naku.
121 Mabune no nakani (Japanese original: With a cry in the Manger)
- mabune no naka ni ubugoe ag
takumi no ie ni hito to narite,
mazushiki urei, ikuru nayami,
tsubusani nameshi kono hito wo miyo. - shokusuru hima mo uchiwasure-te,
shiitage rareshi hito wo tazune,
tomo naki mono no tomo to nari-te,
kokoro kudakishi kono hito wo miyo.
- subete no mono wo ataeshi sue,
shino hoka nanimo mukui- rarede,
juujika no ue ni agerare tsutsu,
teki wo yurushishi kono hito wo miyo.
- kono hito wo miyo, kono hito ni-zo,
koyonaki ai wa araware taru,
kono hito wo miyo, kono hito koso,
hitoto nari taru ikeru Kami nare.
542 doxology (All the world, together praise God in Heaven, whose glory never ends)
yo wo kozori-te ho-me ta-taeyo
misakae tsukisenu amatsu Kami wo