
2025年7月6日 説教「ヨナの物差しVs.神の恵み」 “Jonah’s Measure Vs. God’s Grace”
箇所 Text:ヨナ書 Jonah 4章1〜11節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:4、225、249、162、540番 招詞/Call to Worship:黙示録Revelation 5章9~10節 交読文/Line-by-line responsive reading:23番 詩Psalm 96篇
初めに
アメリカと日本とで違う物差しがあります。(昔の日本に「尺」のもありました。)もし二人の大工さんが違う物差し(メジャー)を使っていたら同じ数字「30」と言い合っても、板をどこを切ればよいか問題になります。また同じメートル式などであっても、正確な物差しが必要です。
人間関係でも私たちは「物差し」をもっています。子どもの頃、不公平だと思ったことがありますか。えこひいきやいじめでは、何か悪い物差しを使って人を扱うのです。今週、世界中での福音宣教を思い起こしますが、今日の話で誰が神様のあわれみと救いを受けるべきかという問題が出ます。でも神様はただ公平でなく、恵み深いお方です。今日の話でヨナの物差し、私たちの物差しを確かめてから、神様の物差しどころか、基準どころか、恵みの素晴らしさを確かめましょう。
一、箇所全体「ヨナの物差し」(4章全体)
これまでのドラマを確認しましょう。ヨナは1章で創造主なる神様に、敵国アッシリアの町ニネベへ行き、その悪について警告しなさいと言われて逃げて、海の嵐で捕らわれて、さらに魚に飲み込まれて、やっと2章で祈りました。ヨナは陸地に戻され、3章で再び命じられるとニネベに警告を伝えました。そしてニネベの住民は神様に謝る姿勢を示して、警告された滅びを免れました。
4章のドラマはまたニネベからヨナへ焦点を移します。前回4章の初めで見たように、ヨナは変わらず嫌々な気持ちでした。2節の通り、「…私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです」と文句を言い放ちます。ニネベが警告を受けないままで滅びるのが願いでした。神様はそうさせない「あわれみ深い神」だから、ヨナは憤ります。そして4節で神はヨナの物差しの正当性を問うて、「あなたは当然〈良い〉のように怒るのか」と言われる訳です。神の恵みの向けられる人をヨナが決めて良いか神が決めて良いかの議論です。※⑴
続きに5節から見ましょう。ヨナはニネベが滅びるかもしれないと願って、町外で「仮小屋を作り」待ち構えます。でも神様はヨナに対して、愛の込めた罠を仕掛けます。「神である【主】は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして」くださいます。1章17節同様に、神は被造物を「備えて」、用いて、ヨナを苦しみから助け出します。
ところが、次に神は7節で「虫」と「東風」という被造物をさらに用いて、ヨナの心地よさを奪い、熱中症のような状態へと追いやります。ヨナは頑固で変わらずです。8節で3節を繰り返し、「私は生きているより死んだほうがましだ」と反応します。一時的に助けられたことを神様に感謝もせず、もう嫌だ嫌だと愚痴を言い放ちます。
主はヨナに、ヨナのすねた態度を9節で指摘します。4節の質問の繰り返しです。ヨナは9節で答えます。「私が死ぬほど怒るのは当然のこと〈よい〉です。」要するに、ヨナは自分が神様の思いより正しい思いを持っていると意地を張ります。しかも、自分の心地よさに関わる植物が死んだことを怒るのは正しいと言い張ります。
これでヨナは神様の「罠」に入ったので、10・11節で神様がヨナの心の問題をズバッと指摘してくださいます。ヨナと主の対比を用いて、主ご自身の考えの高さを主張します。
10・11節「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない〈道徳的に分別が足りない〉十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」
ヨナは、彼と関係なく成長して、自分に涼しさを与えてからまた死んだ植物を惜しみます。しかし、1・2章の海、陸地、魚も、3章の異邦人も、4章の植物も虫も風も太陽も支配される創造主は被造物について思うようにする権威はないのか、とヨナに指摘なさいます。
ヨナは祈って恵みを求めても良かったのに、1章で海の嵐、そして4章で砂漠の炎熱の中で死に、神を諭してやりたい、あるいは自分で償い、が神の無償の赦しより良いと思ったのです。神様のあわれみが向けられるところを、自分の都合で決めたかったです。
ヨナ書はそのような指摘で終わって、ヨナの反応を記さずに、絶妙に。ヨナの応答を知らない私たちは、自分たちの応答、そして私たちの心の現実について考えさせられます。
箇所の意味合い「私たちの物差し」
さて、この箇所から私たちが学ぶべき現実とは何でしょうか。神様と私たちがそれぞれ用いる基準がどんなに違うかを知ることができます。三つの観点から課題があります。
1)自分で良し悪しを決めて、神であるかのように考えがちですか。人間は、自分で作った基準、物差しによって生きることを求めて、それに合わない人に怒ってしまいやすいです。欲しいものが得られなと怒るなら、私たちは神の位を奪おうとしてしまっているかもしれません。
2)先ほどの課題の一つの具体例ですが、神の恵みを否定して、自分の物差しで恵みが与えられる人を決めたがりますか。自分か他の人の失敗や罪を見て、その人の赦しを拒みたくなりますか。
3)さらに具体的な課題ですが、伝道と世界宣教を考えるときも、誰が聖書の良い知らせを聞いて、神の刑罰から救われるべきかを自分の物差しで考えますか。物差しは私たちの心地よさですか、それとも全地、全ての民族、できるだけ多くの人へ届けよという神様のあわれみ深い御心が基準ですか。 ①異文化での宣教を支えるなら犠牲して、献げる価値はあると思いますか。 ②自らの快適さを捨ててまで、出かける価値はあると自分を主に委ねますか。※⑵(異文化でなくても、家族や近所の中でも、誰のために祈り証しを伝えるかを分けることがあり得ます。)
三、福音「神の恵み」
私たちは自分の思い通りに進まないことに怒り、面倒くさがりやすいのです。神であるかのように事を求めて、神の恵みでなく自分か他の人の成功を基にあわれみを求めて、さらに便利なときだけに人の救いを求めるような者です。
しかし神様は揺るがない基準、律法とご計画、そしてさらに「恵み」もあります。「天が地よりも高いように、 わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、 わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」とイザヤ55章9節で宣べられました。人間中心の物差しは間違えます。しかし神様は完全な思いで、完全な知恵と力で全てを「備えて」くださいます。私たちの近所付き合いにしても世界宣教のための祈りと行動は神様によって支えられます。
神様は確固たる善、義、きよさの基準を持っておられます。人を、その教育や生い立ちでなくその心の罪深さをご覧になって、裁かれます。近くの人も、遠くの人も、大都会の人も過酷な山や氷河に住む人にもそうされます。しかし、神様は御心どおりに恵みをもお示しになります。
ローマ9章15~16節(新p312) 神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
「あわれんでくださる神」は「驚くばかりの恵み」を信じる私たちに示されます。私たちは努力によって神の基準を満たせ無い、罪びとです。本当は、誰一人も神のあわれみを受ける「べき」基準に達しません(ローマ3:23)。ところがイエス・キリストは私たちの受けるべき、ニネベの東風と日差し以上の神の裁きを、十字架の上で身代わりとして受けてくださいました。また、イエス様は100%完全な義の基準を満たしてくださいましたから、イエス様に信頼を置く者誰でもはその祝福を得られます。神は100%自由に、私たちの行いに強いられずに、ただ信頼する私たちをキリストを通して「義あり、歓迎される人」として認めて受け入れてくださいます。
自分の物差しではいけません。神様の基準を守るというのでもいけません。しかし神の恵みだけによって、私たちは生きることができます。ヨナの話の続きを知りませんが、あなたの話はどう終わるのでしょうか。人に不公平なことをされたと感じるとき、私たちが本来受けるべき刑罰はイエス様によって取り扱われたと知ることができます。世界宣教のために自分の富も時間も命もささげる価値はあります。神の恵みの価値、イエス・キリストの価値が圧倒的に大きいだからです。神の備えを信じて、惜しみなく与える歩みをしていくことを願います。
説教の振り返り:神様が示す一方的な恵みを受け入れ、他の人にも向けたいですか。
説教の参照箇所:マタイ20:1-12、イザヤ55:6-9、ローマ9:15-16
註
※⑴ その憤りは原文で、ヨナ1、4章で繰り返されるキーワードです。①「よい」と「悪い」の言葉は1章にもよくあるし、日本語訳では、文脈によって訳し方は異なりますが4章3・8節で「まし」、4・9節で「当然である」。これらは全て「よい」の語を用います。②4章1節「不愉快」、4章2節の「わざわい」、4章6節の「不機嫌」はすべて「悪い」の語を用います。 ですから、この章の対話は、ヨナによる「よい・悪い」の定義と神様による「よい・悪い」の定義のどちらが正しいかが議論されているのです。
※⑵ 韓国・朝鮮系出身の日本宣教師から話を聞くと、ヨナの問題は非常に鮮明に浮かびます。彼らの国を植民地にして、神社参拝を強要して、多くのクリスチャンを殺害した日本へ、宣教に行くか…そう思えない、朝鮮・韓国のクリスチャンが多かったそうです。しかし、その兄弟姉妹の多くは現在も日本で仕えておられます。