
2025年5月4日 説教「神へ立ち返る機会」 “Opportunity to Turn Back to God”
箇所Text:ヨナ書 Jonah 3章1〜10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:66、187、249、250、540番 招詞/Call to Worship:ヨエル Joel 2章12~13節 交読文/Line-by-line responsive reading:15番 詩51篇(Psalm 51)
初めに
やめなさいと言われるのは大抵、いやです。泥遊びをしている子供に「やめなさい」と言っても、やめたくなりません。お腹すいた人に「そのお弁当を捨てなさい」と言っても同じです。聖書で「悔い改めなさい」と言われますが、いや、神様に反抗するのが心地よい、楽しい、気が楽などと思うことは、誰にでもあります。
聖書は多くの箇所で悔い改めを教えます。今日のヨナ書3章は、悔い改めの切っ掛けと事例の話です。この話を通して、本当の悔い改めが何かだけでなく、それが私たちにもたらすいのちと喜びを学びたいと思います。
一、ヨナ3章の話
まず、ヨナ書1章の初めと比べると、大体同じシーンです。1・2節では、天地の創造主なる神様が反抗的な預言者ヨナに、敵国アッシリアの首都ニネベへ遣わす命令を下されます。そして1章とは違って、3節前半でヨナはちゃんと、「【主】のことばのとおりに、立ってニネベに行った」のです。2章の終わりで彼は地中海の海岸のどこかで、自分を飲み込んだ魚によって吐き出されたので、現代のイラク内陸にあったニネベまでは長い道のりでした。さすがに、1・2章の難を通ってきたヨナは従いました。
ところで、3節後半はニネベの都市に触れますので、歴史的背景を補足します。アッシリア帝国はかつて、残忍な方法で他国を虐げ制服し、さらに他の国を恐怖に陥れ服させる帝国でした。(第二列王記18章にもその様子が記されています。)しかし、ヨナが活躍した時期はちょうど紀元前8世紀前半から半ばまでの頃、アッシリア帝国が危機に直面していた時期でした。飢饉、震災や紛争が重なったそうです。だから、ニネベの住民は、神々の裁きを経験していると思っていたかもしれません。ニネベが歩き回るのに三日かかる程、大都市だったと書いてあります。(町の壁の外の郊外を含む距離かもしれませんが、とにかく当時の中近東にとっては大きな都市でした。)
ヨナは町の中に入り、警告を布告し始めました。4節「…『あと四十日すると、ニネベは滅びる。』」厳しい刑罰宣言でしたが、同時に希望をも差し出す知らせでした。具体的に、40日間の猶予を与え、方向転換をする機会でした。さらに、「滅びる」という言葉は曖昧でした。原文では、新改訳聖書の注からも分かりますように、日本語の「くつがえる」に近い語が使われています。滅びるかもしれないし、ただガラッと変わるという可能性も秘められていました。⑴
5節以降でニネベの人々は町を挙げて、熱心に応答しました。理由は、ヨナが奇跡的に魚から吐き出された後の皮膚の状態や匂いが注意を惹いたからかもしれませんが、聖書ははっきり教えません。とにかく、ニネベの住民はヨナを見聞きして、「神を信じ…た」と5節にあります。
町の住民は、イスラエルの神のみを礼拝して、偶像を捨てたとは書かれていません。しかしせめて、ヨナが偉大な神から来たのだと真剣に受け止めて、行動しました。「断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった」のです。断食は辛いですし、やぎの毛からできた、着心地の悪い粗布の服を着るのは想像しにくいことです。でも、都が生き延びるために、ヨナの神に謝りましょうと思って、都は劇的に悔い改めを現す行動を取りました。
二、ニネベ人の悔い改め
教会では教会で神様の愛を語りますが、神様の裁きをも語らなければなりません。神様を拒み続ける者は、神様の怒りを受けて地獄で「滅ぶ」と聖書が厳かに警告します。そして神様は確かに愛であり、立ち返る、悔い改める機会を下さいます。
ニネベ人たちは悔い改めました。王の宣告を読みましょう。
8~9節「…ひたすら神に願い、それぞれ悪の道と、その横暴な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないですむかもしれない。」
ここにも、聖書で言う悔い改めは三つの要素が描かれます。神様との関係が基本となっていることが特徴です。⑵ 機械的な「やめる」ことでなく、真の神との関係の修復を求める、立ち返りです。
①今までの生き方が神様の目に悪かったと心を痛めることです。それを憎むようになることです。ニネベ人たちは確かに、「それぞれ悪の道と、その横暴な行い」がある8節で自覚していました。
②神様が憐れむと信じて、赦しを求めることです。6~9節でニネベ人たちは淡い期待を持って、荒布や断食によって憐みを請い求めました。ただ行動を変えるだけでなく、神様に赦しを期待する必要があります。
③以上の考え方転換を基に、生き方の転換を求めて、新たに神様に従おうとすることも悔い改めの要素です。ニネベ人たちは王と共に、「横暴な行いから」離れようとしました(10節)。
ニネベ人は限られた情報の警告しか受けなかったのに、また、不完全な悔い改めをしたのに、悔い改めて、助かりました。ヨナ3章10節に、「神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった」と書かれています。
三、福音による悔い改め
さて、今日の結論はただ悔い改めなさい、ではありません。楽しいことはだめ、ということではありません。ルカ11章32節でイエス・キリストは「ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めた」と御指摘の上、「しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります」と続けられました。ヨナにまさるもの、つまり神の王国とそれを来らせるところだったイエス・キリストが来られました。悔い改めの意味は変わりませんが、より豊かになりました。ヨナにまさる主イエスの御業の故に、悔い改めの革命が起きました。
まず、①私たちは罪を自覚するために満ち足りた説明と助け手を受けました。誰でも、自分のことを良い人と思いたい本能はありますが、これは罪に盲目でありたい罪深さの本能です。ところが、私たちはヨナの一言でなく、必要な言葉全体を聖書で頂いています。聖書にある戒めという律法によって、神様の御心を深く知ることができます。イエス様の御生涯から、最高の模範を見て、どんなに神様から離れてしまっているかを知ることもできます。
そしてこれを人々に悟らせる助け手として、聖霊様も与えられています(エゼキエル36:26-27、ヨハネ16:8-11参照)。「私の罪を分からせてください」と祈れば、沢山教えていただけるでしょう。こうして私たちはニネベ人より、罪深いと気づかされます。
次に②神様の赦しの恵みが、キリストにあって最高の表現で示されました。イエス様は完全な義のご生涯を歩まれましたが、受けるべき祝福が「覆され」、クリスチャンたちに転嫁されます。もう一方で、クリスチャンたちの罪は十字架の上でイエス様に転嫁されました。受けるべき刑罰も「覆され」、イエス様によって完全に吸収されました(第二コリント5:21)。父なる神様は喜んで、イエスに信頼して悔い改める罪人を正しい、きよい者として愛して受け入れてくださいます。旧約聖書より遥かに福音がはっきり見えるようになりました。
最後に③私たちはニネベ人以上に、罪から離れて神様に立ち返る理由を受けています。地上で罪を犯して、最後に赦しを貰って天国に入るのは人気な生き方ですが、聖書に反し、実際私たちをもっと幸せにはしない生き方です。
初めに、子供たちに泥団子をやめさせ、大人に食事をやめさせることについて話しました。悔い改めの現実にもう少し近いように、喩えを補足します。子供に、大好きな家族が家に来たから、泥遊びをやめて会おう!と言ったらどうでしょうか。大人に、その弁当にカビがあるけど、これから一緒に高級レストランに行くからそれを捨てて、行こうと言ったらどうでしょうか。
私たちの思いと言葉と行動の罪はしばらく楽しく感じるかもしれませんが、実は毒であり虚しいです。私たちは天地を造られた神様に、神様の素晴らしさを見上げるように、悔い改めよと言われます。主イエスとの交わりで永遠のいのちを今も楽しみ、喜びが満たされるように、悔い改めよと言われています。悔い改める行為の本質は、「罪から神へ立ち帰る」ことです。機械的な行動中止ではありません。私たちを癒し、喜びで満たし、造り変える方へ立ち返ることです。罪を認めるのが恥ずかしいと思わないで、イエスの犠牲の愛によって立ち返る道が開けたと信じて、大胆に悔い改めましょう。神様が立ち返る機会を今日も与え、招いてくださいます。
説教の後
振り返り:悔い改めるべき罪の心当たりはありますか。イエスにある赦しを信じて、罪を手放せますか。
参照箇所:ルカ13:5・11:32、第二コリント5:21、ローマ3:23-24
註
⑴『明鏡国語辞典 第二版』496-497頁の「覆す」の定義によると、「国家や組織を打ち倒す」という意味合いは確かにありますが、「逆さまの状態に…する」という用い方もあります。ヘブライ語でもヨナが使った言葉はその同じ、二通りの意味合いのある表現でした。
⑵ ウェストミンスター小教理問答問い87「自分の罪を真に自覚し、キリストにある神の憐れみを悟ることによって、自分の罪を嘆き憎みつつ、新しい服従への十分な決意と努力とをもって、罪から神に立ち帰るのです。」(日本キリスト改革派教会公認訳)