
2025年4月6日 説教「ヨナの三つの宣言」 “Jonah’s Three Declarations”
箇所Text:ヨナ書 Jonah 2章6〜10節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:75、284、260B、514、541番 招詞/Call to Worship:詩篇 Psalm 37篇1~6節 交読文/Line-by-line responsive reading:10番 詩32篇(Psalm 32)
初めに
皆様はハッとさせられて、改めて気づいた大切なことはありますか。私はクリスチャンになった切っ掛けは、小さなことでした。弟をいじめてそのまま外へ遊びに出かけようとしたのに、母に引き留められて、ジョザイアは本当に信じると言っているイエス様に従っているのかと問われました。聖霊様はその小さな切っ掛けでハッとさせて、私が次の日にイエスを信じて、神様に立ち返る祈りをしました。さて、預言者のヨナは私の経験より大きな切っ掛けでハッとさせられました。大きい分、三つもの事を(再)発見して、宣言しました。ところが、考えてみれば、その気づいた宣言は、私の発見と同じでした…。
前回のヨナは絶体絶命の状況、溺れ死にかけた状態で巨大な魚に、奇跡的に飲み込まれて生かされたとえお話ししました。6節で「滅びの穴から」救われたと書かれています。ヨナは7節で振り返りを続けます。海の中から祈ると、「聖なる宮」、エルサレムの神殿でなく神様のおられる天国にまで祈りが届きました。 神様はヨナを顧みて、ご返事くださいました。ヨナが魚に飲み込まれたタイミングか別の時にかは書かれていません。しかし、神様のあわれみに感心して、8・9節で三つの宣言をしました。今日、その宣言を聞いて、それらから聖書の良い知らせ、福音を学びましょう。
一、神様以外の神の空虚な救い(8節)
「空しい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨て去ります。」家族や友達との関係がこじれたら、お願いはしにくいですね。創造主を神として拒んで、霊的に浮気をした者は、神様に不忠実であり、助けを期待できません。
「偶像」とは、大仏のような物体に限らず、何でも、神様に替わって自分を満たそうとするものです。原文で「偶像」はただ「虚無」虚しいものと書かれています。「空しい偶像」と説明を含めて訳されています。
聖書の神以外の霊、仏、力、または影響力、財産、お金、評判、人間関係、快楽、評判、世間…何にでも、心の拠り所、最大の希望また喜びとなっていませんか。それは全部、真の神様に取り替えられてしまった「偶像」であり、正にむなしいものです。それは私たちを救えません。ヨナは多分、自分の反抗を後悔しながら、自分だけでなく聞く者誰にも忠告をしているでしょう。
同じように、エレミヤ書2章13節(旧p1285)で主は預言を下さいました。
「わたしの民は二つの悪を行った。
いのちの水の泉であるわたし〈まことの神様〉を捨て、
多くの水溜め〈偶像となるもの〉を自分たちのために掘ったのだ。
水を溜めることのできない、 壊れた水溜めを。」
本当に深刻な問題です。私たちは人に好かれる(嫌われない)こと、快適な生活をできること、お金を持つこと、快楽や恋愛や力によって意味を持ち価値を持つ、また楽しみを得ようとしがちです。でも本当の喜び楽しみは創り主のみ、「いのちの水の泉」にあります。他は良いことであっても、神様以上に大切にするなら、空虚な、穴の開いたバケツ、ざらのように水を失わせる罠です。
二、立ち返りの誓い(9節)
9節前半でヨナは自分は、違うと言います。祈りを聞き入れ、救ってくださった主に対して、
「しかし私は、感謝の声をあげて、
あなたにいけにえを献げ、
私の誓いを果たします。」
と約束します。神様がいのちを守ってくださったので、ヨナは礼拝の場所に行って公に賛美することを期待するようになりました。慕い求めて、仕えるべきのは他のものや人、「空しい偶像」ではなく神様だと認めています。神様はこれを喜ばれたでしょう。ただし、後で分かるように、ヨナの心に大きな課題が残っています。まだ葛藤があります。
三、主が救うという告白(9節)
三つ目の宣言は最も大切です。先ほどの二つを含むような宣言です。9節の最後でヨナは神様を認めて、祈りを終えます。「救いは【主】のものです。」
完結で、先の二つの宣言に意味を与える宣言です。自分で自分を救えるなら、中には空しくない偶像、また自力での救いはあるはずです。でも救いは主のみのものです。そしてヨナの礼拝に対する想いは単なる個人的な趣味でもなく空しい儀式ではありません。救いを与える権力と恵みをお持ちの神、いのちの水の源なる主に近づくことを意味します。
ヨナは10節で身体的に神の救いを受けました。「主は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させた」のです。死の寸前まで連れて行かれて、神様に祈り求めるように導かれたヨナはもう一度、陸に戻って活躍できました。魚の胃袋にいたと考えると、見た目と匂いは酷い状態だったでしょう。でも、死んだはずのヨナは生きていました。主による救いを体験しました。
適用
でもヨナの言葉は身の危険からの救い以上に、神様の包括的な裁きからの救いを受けられるのです。永遠のいのちには、からだの復活で身体的な救いと魂の救いの両方を含まれています。人間は神様の裁きから、神様によって救われなければいけません。救われるためには、主だけがお救いになると認める必要はあります。要するに、私たちは神様以外のものを空しい偶像と認めて、自分を救えるのは唯一神様だと認めなければいけません。人の賞賛や愛情、快適な生活や快楽、お金、そして真面目な生活や単に律法を守ることを指して、神様に認められることはできません。それらは空しく、満たすことも救うこともできません。 でも礼拝しますと約束しても、偶像に戻ってしまうのは私たち人間の気まぐれで自己中心です。すべきこの宣言、戒めでは救われません。
しかし、ヨナの三つ目の宣言が希望を与えます。主こそ、お救いになるという約束はあります。これは行うべきことでなく、ただ信じるべきことです。
ところで、「イエス」の名の由来は恐らく、「主は救い」です。ヨナがその名を知らずとも、今となって救いは主イエスのものだとはっきりと教えられています。マタイの福音書1章21節(新p2)で、イエス様の命名について天使が預言しました。「その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
主の聖晩餐でも、私たちはそれを鮮明に覚えます。イエスは罪びとの私たち、民を救うために、十字架にかかってくださいました。最期まで十字架に残って、からだの死を通ってださいました。神の民の罪を背負って、助けではなく神様に見捨てられる怒りを向けられるという裁き(要するに地獄の体験)をお受けになりました。肉が割かれて、血が流されて、心身ともの死を通られました。
しかし主イエスは復活して、ヨナのように闇から出て、地上に立ちました。本当にからだと霊をもって復活されました。主イエスは先週のエペソ書4章7~10節のとおり、教会の一人一人に恵みの贈り物をくださる権威を持って、天におられます。罪で堕落した世界を造り変えて、主の救いを待ち望んできた者たちと共に、永遠に新しい天と地で住まわれます。救いをただ主イエスから受けようと思う者はただ信じて、救いを受けます。だからこそ、偶像を捨てて、神様を礼拝する心をも持つことができます。
最後に、ヨナの三つの宣言からお聞きします。あなたは、イエス様を自分の救いと認めますか。神様以外のものは空しいと認めますか。神様だけに仕えて、神様だけを喜びとしたいですか。特に、主イエスの救いを待ち望んでいますか。もしそうであれば、主の救いはあなたのものです。イエス様があなたのものだからです。
聖餐式でパンとぶどうジュースを取り入れるように、私たちは信仰によって、イエス様を霊的に取り入れて、霊的に養われます。ヨナが再発見して宣言したこの福音に立って今週、色々な偶像の罪と戦いましょう。神様を仰いで、主のために家庭生活と仕事と勉強と全てに励みましょう。偶像を離れて歩む行いはとても重要ですが、私たちに確信を与えるのは、ただイエス様から救いを頂いている平安です。それゆえ、悔い改めと礼拝に挑みます。「救いは主のもの。」信じて、歩みましょう。
説教の後
振り返り:以外に拠り頼みがちな「偶像」は何ですか。主イエスがその偶像からも救ってくださると信じますか。
参照箇所:エレミヤ2:13、マタイ1:21