2025年4月13日 棕櫚の聖日 説教 「天国に」 “In Paradise”

箇所Text:ルカの福音書Luke 23章33〜43節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア  讃美歌/Hymns:131、142、271B、545A番 招詞/Call to Worship:ルカ19章37~40節(新p159) 交読文/Line-by-line responsive reading:39番 イザヤ書Isaiah 53章

棕櫚の聖日・受難週の説教です。

初めに 

あなたは、救われていますか。最期を迎える時が来ると、あなたは何に慰めを持とうと思いますか。今日、どうすれば天国に行くか、どうすれば自分の罪の罰から救われるかを完結にまとめた話を聞きました。覚えておくと非常に有益な話です。個人的な慰めを得られます。そして愛する人にも、伝える機会が限られてもとにかく伝えたい内容のある話です。いざという時に思い出せるようにしてほしい話です。それは、パラダイス、天国へ導く話です。

一、それは王か?(ルカ33~38節) 

イエス様は、人間の観点からすると、みっともない偽りの王として、十字架の上で晒されました。棕櫚の聖日の日曜日に大歓迎されたし、群衆の賛美を受けました(ルカ19:28-46)。そして嫉妬に燃える学者たちを論破して、弟子たちに教えて、木曜日の夜の過ぎ越しの祭りまで過ごしました(ルカ20-22章)。けれども、木曜日の夜中の不正な裁判で自分は創造主なる真の神に選ばれた王メシアだと宣言することで冒涜者とされました(ルカ22:66-71)。ローマ帝国の支配を脅かす反乱者、自称の王とされました(ルカ23:2)。そして残虐な十字架刑の処刑を言い渡されて、その朝の内に十字架にかけられました。

 ルカ書23章35節にユダヤ人の「議員たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。』」ローマの「兵士たち」は「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と軽蔑しました(37節)。皆は、皮肉を使ってイエス様は王ではないと考えました。本当の王はそんな苦しみを通るはずがないと思いました。

 けれどもイエス様は神の国を確立させるために犠牲を払う、唯一の王としてそうされていました。神の国に罪ある人が入るために通る道でした。イザヤ書53章6節の言うように、

私たちはみな、羊のようにさまよい、  それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
しかし、主は私たちすべての者の咎を  彼〈選ばれた王、メシア〉に負わせた。

二、反逆者の理解と信仰(39~42節) 

イエス様と同じ日に天国に入った人は、無名の「犯罪人」でした。イエスのことをそれまでに聞いていたかは分かりません。聖書に詳しかったか、かつては優しい人だったかなど、知りません。しかし、彼は罪びとでした。マタイとマルコは彼を「強盗」と呼びます。少なくとも地域の治安と貿易を脅かして、人を殺してきたかもしれません。ローマ帝国からしても犯罪人ですが、創造主にも敵対する反逆者、罪びとでした。マタイの福音書27章44節によると、途中までこの犯罪人がもう一人の犯罪人と一緒に、議員たちや祭司長たちと「同じようにイエスをののしった」のです。

でも、彼は人生の最期の数時間に変えられました。イエス様が「父よ、彼らをお赦しください」と言われ、隣の十字架で苦しく息するのを聞いたでしょう(34節)。イエス様が特別だと感じ取れたでしょう。赦しの必要をひしひしと痛感して、気づきました。

 「ナザレのイエスの態度も祈りも説明できない。神様と親しい、聖い人、罪がないのに十字架にかかっている。神様が認められる方だ!果して、預言者たちが予告した、神に選ばれた王、メシアではないかな。」

苦痛のさ中、三つの事を語りました。

 第一に、罪を認めました。41節で共にののしっていた犯罪人を諭して、罪を告白します。「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。」自分は肉体の裁きを受けて、死後の世界と世の終わりに裁かれて当然だと受け入れました。神様に背いてきたと意識したでしょう。

第二に、イエスを神様の子、自分の王と信じ、認めました。42節でイエスについて信仰を告白します。「だがこの方は、悪いことを何もしていない。…イエス様。あなたが御国に入られるとき」三つのことを信じました。①イエスが正しい方だと告白しました。②イエスを主、つまり神様の王国をもたらす王だと認めました。③隣の十字架で死んでいくイエスは復活するという希望もあったようです。

犯罪人は第三に、自分をイエス様に委ねました。42節「私を思い出してください。」犯罪人はただ記憶してくださいという思い出しではなく、助けてください、受け入れてくださいと願いました。イエス様が神の御国を勝利者として入られるときに、王として憐みをかけてください、と信頼して願いました。死んでもまたよみがえらされる希望を表します。

以上、自分の罪について、イエス様の正しさと権威について、そしてイエス様と自分の関係について犯罪人は語りました。「イエス様、これから頑張りますので、勘弁してください、刑罰を軽くしてください」と言いませんでした。数時間後で窒息死するので、良い行動はできませんでした。神に立ち返るべき罪びとだと認めて、イエスを復活する王と信じて、自分をそのイエスに委ねただけです。

三、王の御返事(43節)

 そしてイエス様は43節で答えてくださいました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。

 犯罪人は、イエスが世の終わりに神の御国を治め始めたら、自分をも復活させて憐れんでくださるかなと期待していました。それは確かに、クリスチャンでも持つ希望です。でもイエス様はその日の内に関する慰めを下さいました。御自身が苦しむ中で、十字架上で犯罪人の罪を償い、赦しを得ていました。そして天の楽園に歓迎する、と安心させてくださいました。イエスは御自分が死んでもパラダイスに行くことをご存知でした。そして自分に信頼する者をそこへ召す権威もあるとご存知でした。

終わりに あなたは赦される必要がないと感じる限り、この話は無意味に感じるでしょう。でも神に対して人に対して罪を犯す者だと自覚があれば、誰でも、救いを頂くことができます。

①あなたは神様に対する反抗の罪が自分に根付いていると認めますか。自分には望みがないことを認めますか。②イエス・キリストが復活された王、神なる主であると信じますか。③神様に愛され歓迎される方法として自分の努力や行いを捨てて、イエス・キリストだけにより頼みますか。

 はいと答えられるなら、あなたはあの犯罪人のように天国での慰めを受けることができます。⑴ なぜなら、自分の罪がイエスに転嫁され十字架上で背負われ償われ、あなたに対する神の怒りが宥められました。

 私たちは神の律法を学び、従う責任はあります。なおさら、イエス様を信じたクリスチャンにその義務はあります。けれども、いつになっても私たちは犯罪人と同じ根拠のみで救われます。イエスの義、正しさ、権威です。私たちは彼と同じように告白して、救われます。①自分の罪深さを認めて、②イエス様を復活された王と信じて、③イエス様に自分を委ねて、神様の御許に行くだけです。私たちも、私たちが愛する人々も慰めを受けて、天国に行くことができますように。

ハイデルベルク信仰問答の第一問はこうあります。犯罪人とイエスの会話を覚えながら、聞きましょう。

「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、 わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。 この方は御自分の尊い血をもって わたしの全ての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。 また、天にいますわたしの父の御旨でなければ 髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。 そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、 今から後この方のために生きることを心から喜び またそれにふさわしくなるように、 整えてもくださるのです。」⑵

説教の後

振り返り:天国に行くために認めて、信じなければいけないことは何ですか。

参照箇所:イザヤ53:1-6、ローマ10:9。

⑴ 袴田康裕訳『ウェストミンスター小教理問答』、日本キリスト改革派教会公認訳(教文館)、2023年、19-20ページの問37参照。「信仰者の霊魂は、彼らの死のとき、完全に聖くされ、直ちに栄光に入り、信仰者の体は、なおキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。」

⑵ 吉田隆訳、新教出版社、第2版(2018年)、9-10ページ。

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