
2025年3月30日 説教「Jターンなさった主」 “The J-Turn Lord”
箇所 Text:エペソ人への手紙 Ephesians 4章7~10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:73、138、158、539番 招詞/Call to Worship:詩篇Psalm 68篇17∼19節 交読文/Line-by-line responsive reading:11番 詩40篇(Psalm 40)
初めに
日本の人口が大都会に集中するという社会問題はありますが、大都会から地方へ移住する人の話も時々出ます。育った地方から出て、都会で勉強や仕事をしてからまた地方に帰って活躍する人は文字Uにちなんで「Uターン」移住者と呼ばれます。都会で育って、地方へ移住する方は一直線の「Iターン」移住者。そして一つの地方から、都会を経て別の地方へ移住するのは「Jターン」だそうです。私自身は関西の郊外→首都圏の都市→四国の地方都市へとJターン型で移住したと考えています。
イエス・キリストは、別の意味でJターンなさった主です。永遠の住まい天国を出て、地に来られて使命を果たしてから、天にまた、しかし新しい栄光を帯びて、上られました。使徒パウロが今日の箇所でその目的を教えます。私たちに恵みを与えるためでした。
一、贈り物(7節)
7節は、贈り物のテーマを持ち出します。
- 「しかし、私たちは一人ひとり…」教会の皆に、という事です。
- 「キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。」贈り物の内容は、11節以降に具体的に出て来ます。創造主なる神様が教会の多様な共同体に色々な贈り物を、分配してくださいます。これは私たちが獲得できるものではなく、恵みです(第一ペテロ4:10-11参照)。
- イエス・キリストは一人ひとりに見合った(量りにしたがって)贈り物を下さいます。
- 他の箇所で学ぶように、誰一人にも全ては集中して与えられていません。全体が神の家族として協力して支え合って、成長を目指します。だから一人ひとりが大切です。
二、主イエスの勝利と賜り物(8節)
8節はやや難しいです。旧約聖書の引用ですが、大切な言葉が変わっているからです。
- 「そのため、こう言われています」は、キリストが贈り物を下さるから、旧約聖書の御言葉が言う、とパウロは言います。不思議かもしれませんが、神様は旧約聖書の箇所をも、前もってイエス・キリストのことを念頭に、著者にそう書くように導いてくださった訳です。
- 「彼はいと高き所に上ったとき、 捕虜を連れて行き、 人々に贈り物を与えられた。」
- この引用は今朝の招詞詩篇68篇18節(旧p1000)です。私たちは引用を全く同じ言葉にするべきなど、学術的な決まりを持っていますが、パウロは聖書を扱いながら、神様に導かれつつ、変えることもありました。
- 詩篇で2人称としてある「あなた」を3人称の「彼」に変更したこと以外、特に、新改訳2017版で詩篇は「与えられた」ですが、註や新共同訳はヘブライ語の原文の詩篇と同じく「取られた」と書いています。パウロは「与えられた」と逆に変えているようです。
- 色々な反応はありますが、簡単に結論を言うと、パウロは詩篇68篇全体の文脈を理解して、そこの「あなた」はキリストの予兆であり、さらにキリストは贈り物を受けるだけでなく与えもなさったと指摘していると考えます。
- 詩篇68篇の主題は、主がシナイ山とシオン山で民イスラエルを導き、守り、必要を満たしてくださったことです。そしてその贈りものからイスラエルは18節で、「【主】が そこに住まわれるために」天幕あるいは神殿のために献げたと書かれています。
- つまり、詩篇68篇で神様は与えて、受けられました。パウロはこの文脈を念頭に、「取られた」という動詞を「与えられた」に変えたのでしょう。そして今日の箇所で、イエス様こそ、贈り物を与えられる方だとパウロは言う訳です。
三、主の勝利が意味するJターン(9~10節)
そろそろどんな贈り物かと聞きたいところですが、パウロはそれを11節まで待たせます。まず9・10節で大切なコメントを添えます。
- 「『上った』ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。」パウロは、詩篇68篇は昔の出来事のみならずイエス様のへりくだりと高く挙げられたことをも指すと主張します。
- 聖書は、子なる神がイエスとなり、低くなってくださった(くだられた)と教えます。無限の創造主なのに人間となられ、貧しく生きて、律法に従われ、十字架で人間と神様による刑罰を受けられ、葬られました。(ウェストミンスター小教理問答第27問にまとめてあります)。パウロはイエスの贈り物の先に、想像の絶するイエスのへりくだりを強調します。
- 「Jターンの主」と言ったのは、そのへりくだりから始まりました。イエス様は天から始めて、下へとJ字の底辺まで降られました。私たちは高ぶっていつも上へ上へとI字方に這い上がりたいが、弱い者です。しかし、イエス様は私たちに贈り物を与えるために弱さを帯びて、どん底へと降ってくださいました。
- 「この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。」そして次は上へと!
- Jターンは、始めた地点と回って戻った着地点が異なるはずです。同じ天国にイエスは帰還されましたから、Uターンとも言えます。でも、イエス様は神として永遠に元々あった御栄光に加え、低くなられた故に贖い主として新たな御栄光を得ました。そういう意味で前よりもっと偉大な地位ある、「高く上られた方」なのです。
- だからこそ、主イエスは贈り物を賜う権威があります。それぞれのクリスチャンに見合った贈り物を下さいます。「賜物の量りにしたがって」(7節)は、膨大な量りです。イエス様は10節で「すべてのものを満たす」、特に教会を満たすことを、意図されていました。教会はイエス様の霊に満たされてその贈り物によって、元気に歩みます。
- ですからイエス様は、教会を満たし、教会に祝福の贈り物をお与えになるために、死にまで下り、他にないJターンを果たされた主です。
結び
でもこの箇所は私たちをどう諭し、励ますのでしょうか。今週、直面する現実と関係あるのでしょうか。
7節「私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。」信じますか。からだや心の痛みと弱さ、人との葛藤や心に秘めた不安を感じるときも、「イエス様は私に、恵みを与えている」と信じられますか。満足していますか。あるいは、悲観的になりやすいですか。神様を諦めて、娯楽や人間関係、現実逃避、あるいは仕事やゴール達成への努力で不満と不足感を取り払いたいですか。クリスチャンだろうがなかろうが、私たちは与えられている人生に不満を抱くことがあると思います。
でもイエス様の「賜物の量り」は間違っていないと信じます。教会の私たちに与えられた賜物は私たちのためです。イエス様が恵みを賜わったということはまず、イエス御自身にとって最高の苦痛と弱さを意味しました。父なる神様の裁きの怒りを受けて、見捨てられるどん底まで低くなってくださいました。誰よりもあなたの苦しみと不足をよくお分かりです。でも次に天に上り、朽ちない栄光の中から賜物を下さいました。
第二コリント12章9節「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。…」私たちはイエスに信頼して悔い改めるなら、Iターンの下の部分を歩んでいます。不足や苦しみ、弱さを経て、人生を終えます。でも天国で待ってから、復活の際に上まで飛躍して、神の国を相続します。イエス様がまず下って、祝福を与える権利を獲得して、上ってくださったJターンのゆえに。目の前の苦しみを認めて、教会の仲間とともに神に嘆きましょう。でもこの中でもキリストの恵みを受けていると信じて、感謝して進みたいと思いませんか。
礼拝の後
振り返り:キリストのへりくだりはあなたの不足や苦しみと、どう似ていますか。どう違いますか。
参照聖句:第二ペテロ1:20-21、エペソ3:17-19、第二コリント12:9。