2025年1月26日 説教「内なる人が強められるように」 “Strengthened in Your Inner Being”

 箇所Text:エペソ人への手紙 Ephesians 3章14~16節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア  讃美歌/Hymns:73、354、293、539番 招詞/Call to Worship:イザヤIsaiah 41章8~10節 交読文/Line-by-line:24番 詩100篇(Psalm 100)

 

弱さ… 

新年でも、この箇所を読みました。(イザヤ40:30-31)あなたは力尽き、つまずき倒れる経験をしますか。 私たちは色々な弱さを経験します。やることが多過ぎて慌てふためいて、パニックになったりするかもしれません。人間関係に悩んで、にっちもさっちも行かなくて無力を感じるかもしれません。肉体の力が単純に衰えて、しようと思うことができないどはあるかもしれません。そのどれも重大でとても気になることです。

 でもそれより重大な弱さと強さがあるのをご存知でしたか。私たちの内側です。心がどうなっているかを使徒パウロが祈ります。すなわち、変えられつつあるクリスチャンたちが内側から、強められるように。私たちのための祈りになります。

  • 御父への祈り(14~15節)
  • 姿勢と言葉から、パウロが「天にまします我らの父よ」という態度を持つことがよく分かります。
  • パウロは14節で、1節で言おうとしたことに戻ります。つまり、祈ると言います。
    • 「こういうわけで」(14節)3章1節と同じ表現ですが、2章にあったように、神様があらゆる背景の人を一つの家族にしてくださったことを踏まえての祈りをする訳です。神様の恵みの故に、祈ります。
    • 「私は膝をかがめて」(14節)と、身体をもって敬意を表します。立って賛美することなど、表し方は多様ですが、心から神様に畏れ多さの念を抱くなら私たちは何かの方法で示すでしょう。実は「祈り始める」と原文にないが、膝をかがめるということから当然意図が祈ることだと分かります。
  • パウロは15節で、「家族」を意識した祈りをする。
    • 「天と地にあるすべての家族の」は、各々の家族を指すように訳されていますが、もしかしたらより正しいのは、「天と地にある家族全体の」であるかもしれません。すなわち、パウロは教会が神の家族であることを2章19節で踏まえて、天にいる教会の人々も地上でまだ生活している教会の人々が一つであるのを言っているかもしれません。でもどちらにしても、パウロは、教会にとって神様が天のお父様だと示しています。
    • 「『家族』という呼び名の元である御父の前に」ですが、原文ではちょっとした言葉遊びです。「家族」は「パトリア」、つまり「父」の「パテール」から派生します。家族(すべての家族であっても、教会の家族でもなおさら)の上に神様が父なる神様として憐みをもって導いておられます。その神様に祈ることをパウロが思い起こさせてから、祈りの内容を16節で初めて、19節まで続けます。
  • 弱き内なる人(16節)
  • 16節を見ましょう。まず途中に出る「内なる人」を考えましょう。それは最後にある「あなたがた」と関連します。
    • 「内なる人」は身体から離れた、汚れていない霊を指すものではありません。
      • 「人」はアダムの創造にまで遡る大切なテーマです。聖書は、神様が人を創造したときに、良い身体と良い霊とを特別に与えたと教えます(創世記2:7)。神に似て、神と交わりを持てる特別な存在でした。
      • 罪を犯した人は霊的に死に(エペソ2:1)、本来の関係を捨てていました(エペソ2:1-3, 12)。皆は、神との関係において新たにされれる必要があります。
    • 一緒に第二コリント4、5章を開きましょう。(新p360, 361)
      • 5章17節では、「キリストのうちにある」人を、「新しく造られた者」と呼びます。
      • 4章16節は、「内なる人は日々新たにされています」とクリスチャンは継続的に新たにされることを言います。(ローマ7:22参照)
    • 以上を念頭に置くと、要するに、パウロが言う「内なる人」は、新たに神様と生きた関係を持つ、永遠に神様を楽しめる人に造り変えられています。永遠の命を持つ、いわゆる「本当の、新しい自分」です。
  • ですから、エペソのクリスチャンたちは「内なる人」としていのちを持っていますが、罪深さは残っています。そして弱さも残っていて、祈られます。私たちは同じです。パウロは弱い人により頼みません。力強い神様の前で跪いて、呼び求めます。

三、力強い神様のお返事(16節)

  • 16節に神様の力は圧倒的に、恵みをもたらして、与えられる希望を述べます。少しずつ言葉を考えましょう。
    • 「御父が、その栄光の豊かさにしたがって…」。エペソ書は1章で、神の「栄光」の現れを贅沢に讃えました。つまり、教会に加えられる者が天の祝福として、神様の子どもとされること、約束された恵みを受けること、聖霊様によって新しい天と地の相続を約束されることが栄光を表します(1:6, 12, 14)。それを踏まえて、神様が豊かに答えてくださると信じて、大胆に祈ることができました。
    • 「働く御霊により…」神様が働いてくださいますが、具体的に父なる神様と子なる神様は聖霊様を通して、個人に働きかけてくださいます。聖霊様が来なければ、私たちは強められることができません。でも、聖霊様は神様の相続を受けるように確約する「証印」「保証」だと1章13、14節も言いました。御霊によってなら、期待できます。
      • ぜひ、これを覚えてください。独りぼっちに感じるときも、聖霊なる神様は神の子の内におられることを覚えてください。あの方の助けで、祈りましょう。
    • 「力をもってあなたがたを強めてくださいますように 」パウロはわざわざ、「力をもって」と加えます。
      • パウロ自身は同じエペソ3章でイエス様に反対する者から、後悔なく、苦難の中でもイエス様を宣べ伝える使徒に変えたのは「神の力の働きによって」でした(7節。参照:エペ1:19。)
      • 何のための強めかは、17節以降にある祈祷課題のため(信仰、愛を知るためなど)。
  • つまり、すでに神様が罪びとを救い永遠のいのちを与えるためにしてくださったことの栄光がしめされました。そして聖霊様によって、神は力を発揮し始めておられ、祈るときにまた発揮できます。さらに、徹底的に安心させる様に、神様が働かせる力は絶大だともう一度念押しで宣べて、パウロは祈ります。

結び

 クリスチャンでなければ、まず新しくされて「内なる人」に神様と生きた関係が必要です。クリスチャンは弱い、「内なる人」で葛藤します。私たちは衰え、神様に背いてしまう、鈍くて弱い者です。しかしお相手は、無限の「知恵とちからのもとなる神」です(讃美歌293)。

 イエス様に天国か再臨で会うまで、私たちは霊的に鈍く、進歩しないように感じるかもしれません。罪深さが強く感じます。より聖なる生き方をしたい、より深い喜びを抱きたい、などと私たちは思うでしょう。けれども、できない私たちです。だから、誘惑に負けて神様の教えに背くと、確信の土台に戻りましょう。イエス・キリストです。

 内なる人で正しいことがしたくてもできない自分を嘆くパウロ(ローマ7:20-23)は最後に、キリストに自分を委ねて、希望の心に戻りました。私たちもそうできますように、「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。」最後にパウロの到達点を読みます。

ローマ7:24-8:1(新p308-309)私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。…こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 

振り返り:神様に、助けを求めたい葛藤がありますか。自分を新たにして助けてくださるように期待できる根拠は何ですか。

鳴門キリスト教会
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