2024年12月15日 説教「その子の名は…」”And His Name Shall Be Called . . .”
聖書箇所:イザヤ書9章6節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌:75、94、164、544番 招詞:詩篇98篇4~9節
日本では元号は何年かごとに、近代では天皇が替わる度に改まります。そして「明治」、「大正」、「昭和」、「平成」、「令和」など、日本の元号を決める方々は、始まろうとする時代の治め方や繁栄を願って名を付けるそうです。もう一方で、世界中の多くの人はイエス・キリストの誕生の時期以降をたった一つの「紀元」として数えます。イエスがずっと替わらず、王であるからです。でもイエス・キリストいついても、(元号と違いもあるが)治め方を表す称号や繁栄の表現がたくさん与えられました。例えば、「キリスト」はヘブライ語の「メシア」の訳で、創造主なる神様が選び遣わされる王の予告の名として与えられました。預言書の一つであるイザヤ書の9章6節にある四つの呼び名から、キリストの素晴らしさを味わいたいと思います。
6節後半にこう書いてあります。
…その名は「不思議な助言者、力ある神、 / 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
ここの背景を前回お話ししました。イザヤ書9章2〜6節前半では、神に対する反抗の罪によって苦しみ、憂鬱に生きる人たちに希望の光が差し込む預言がありました。人々の苦しみと罪をその肩に背負い、彼らを支えて守るようになる王が赤ちゃんとしてお生まれになるという約束でした。今日の四つの称号から、イエスとして生まれたその方こそ、私たちに必要な王だと分かることができます。
1)「不思議な助言者」「不思議」は「変な人」ということではありません!「不思議」は旧約聖書の他の箇所では、神様にしかできないほどに困難なこと、或いは奇跡的なことを指します。例えば、
イザヤ25篇1節 主よ、…あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、
まことに、真実に成し遂げられました。
神のご計画も実行も「不思議」なほどに人間の理解と想像できる事を超えているという訳です。奇跡的なことです。約束の子は、神の「不思議」を帯びた方として予告されました。
さらに、この方は「助言者」でもあられます。古代中近東の王はよく、助言者を雇いました。今でもいわゆる有識者は政府に意見を出したり、会議で研究について聞かれたりします。政府の人は賢い決断をするために、知恵を借りたいからでしょう。ところが、イザヤ9章6節で約束される王子は、助言者不要の方です!他の誰の知恵にも頼らなくてもよい、完全な王なのです。神にしかできない不思議をなし得て、人間の知恵に頼らない王です。
2)「力ある神」「力ある〈者〉」は「戦士」とも訳せます。聖書は他の箇所で、神様を同じ「力ある」を「戦いに力ある主」と訳されます。(詩篇24:8 栄光の王とは だれか。 …戦いに力ある主。)約束の子は弱い赤ちゃんとして生まれますが、力があり、戦う方となります。イザヤ9章4節のように、敵の虐げを打ち砕かれる方でないといけません(讃美歌94番第1節参照)。実に、約束の子は人間となっても、まだ真の唯一の、生ける神であられます。神として、無限で変わらない力を秘めておられます(ウェストミンスター小教理問答問4参照)。ですから「力ある神」という呼び名は、約束された子は神様であり、最高に力強い王として確実に助けることを意味します。
3)「永遠の父」 子供は、自然に親が頼りになると本能で分かって産まれて、甘えたがります。大人になっても、私たちはいつでも共にいてくださる方(良い意味で甘えられる方)を慕います。しかし、親はいなくなりますし、信頼を裏切ってしまうこともあります。しかし、イザヤ9章6節で約束された王は「永遠の父」として描かれます。いつまでもいてくださいます。ここの「父」は三位一体の「父なる神」の位格を指すのではありません。父なる神から送られる「子」なる神が人々を養って導いてくださる父のようである、とイザヤは言っています(詩篇103:13参照)。約束された子はどの日でも、愛して守ってくださる神様、変わらず真実なお方であられます(へブル13:8参照)
4)「平和の君」「君」は王子、あるいは司令官です。今回の呼び名でもまた、約束された子には絶対的な主権があると言っています。そしてその方が命じ、もたらすのは「シャローム」(平和)です。ここの「シャローム」は「平和」に限られません。全てについて満たされている状態を意味します。根底には、神と人間の間に平和がある状態を指します。さらに、個人が他の人と、また自分自身の内に心配でなく平安を持つ状態です。安心した状態を表します。
私たちは今年も、戦争と内戦、テロなどの暴力の継続を聞いてきました。身近な所でも、いじめや関係のこじれは絶えません。シャロームは世の中にはほとんどありません。でも約束の子は神と人の、そして人と人の争いを途絶えさせるために約束されていました。イザヤ2章2、4節参照。平和の君の御業です。つまり、神に逆らって生きてきた人間を変えて、和解をもたらす方が約束されていました。
それから、神の民は700年以上も待ちました。そして、私たちが記念しているとおり、約束の子がお生まれになりました。言うまでもなくメシア、キリスト・イエスでした。ただの人間ではなく、神様ご自身のままで人間の性質をも取られました(二性一人格の教理)。「不思議」としか言えない形で、処女マリアより生まれました(ルカ1:26-38)。少年の時から教師たちを驚かせる権威と知恵で語られる「助言者」でした(ルカ2:46-47)。悪霊を追い出し、悪魔そして死とに打ち勝ち、「力ある神」であることを証明されました。人を優しく招き、寄り添われる「永遠の父」として歩まれました。
これらの全ての名はある意味で、イエス様が「平和の君」であることに集約されます。十字架にかかられて死に、力と愛と平和を現すのは不思議どころか人間の知恵では非常識で不可能な「不思議」でしたが、イエス様はそうされました。神を敵としてしまい、弱く、罪にの虜の者のために、「力ある神」イエスは十字架で力を顕にせずに苦しまれました。その中で、ご自分に信頼し従うようになる人々の罪の刑罰を受け尽くしてくださいました。十字架上、父なる神から見捨てられる経験をして、「永遠の父」の慰めを受けられませんでした。しかしそうして、力ある勇士として戦い抜き、神様の聖なる怒りを宥めてくださいました。要するに、平和をもたらしてくださいました。最近エペソ書2章14~18節で「キリストこそ私たちの平和です」とお話ししたように。
教会を通して、確実に天の御国を始めてくださいました。「不思議な助言者、力ある神、 / 永遠の父、平和の君」という称号を持つその子の通常の名はイエス・キリストです。クリスマスの本来の贈り物です。
さて、これはただの知識で終われば講義に過ぎません。でも今日、今週、約束された子イエスの名は私たちを励まし、諭すことができます。この王はあなたにとってどなたですか、最後にお聞きしたいです。その方に拠り頼みますか。従おうと思いますか。
真摯に今日の名を受け止めるなら、この方にへりくだって、拠り頼む必要があります。従って生きて、自分の欲望を捨てるようにも教えられています(テトス2:11-13参照)。自分が救い主を忘れがちな、知恵も力も真実さもない者だと認める必要があります。でもそうして、イエスに信頼を置き、従うように求めるなら、その知恵、力、真実、平和を受けることになります。決断に際しての知恵は聖書を通して、王なるイエスから受けられます。自分の力では不可能なことを選び、神と人を愛する力も、王なるイエスから受けられます。イエスを信頼し続ける真実さと正しいことを語る誠実さも、約束された王なるイエスの恵みによって受けられます。恐れと心配事に対して平安をもたらすのは、イエスが平和をもたらしたと知ることから始まります。
あなたは今週「不思議な助言者、力ある神、 / 永遠の父、平和の君」をどう信じて、どのように助けを求めますか。
振り返りの質問:聖句に出た名の内、特に今心に残り、信じなければいけない名はどれですか。(言い換えると、今の個人的な必要に特に応える名はどれですか。)