2024年10月13日「背きと罪の中に死んでいた者」”Dead in Trespasses and Sins”
説教の聖書箇所:エペソ人への手紙2章1〜4節
下記はあらすじです。
「罪」も「死」も、不気味な言葉です。深刻な状態の言葉です。ローマ人への手紙6章23節によると、「罪の報酬は死です」。そして創世記3章に記録されている堕落以降、それが全人類に及ぶ現実です。その深刻さを今日の箇所が教えます。
これは医師あるいは先生の診断・指摘のような箇所です。診断結果があり、診断結果を示す症状があり、最後に治療法への示唆があります。
- 背きと罪の中に死んでいた者(1節)
- まず、「罪」の意味は何でしょうか。世の中のほとんどの方は、自分は良い人、少なくとも良い生き方をしようとしています。…クリスチャンでも、周りのノンクリスチャンをそう見るかもしれません。
- 聖書で「罪」と言うのは、人間の律法でなく創造主なる神様の律法に背くことです。神様は世界を造られ、その中で幸せに・祝福されて生きる道を教えてくださいました。それに背くことが「背きと罪」に当たります。心、行動、言葉で神様に背いたり、神様が造られた人や物を悪用するのは神の律法を犯す「罪」です。
- しかし、パウロはエペソ2章1節で、聖書の一貫した警告をとても明白に繰り返します。「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり…」さらに、「死んでいた」の意味は何でしょうか。霊的な命はヨハネ17章3節で、イエスを通して、神様を親しく知るように定義されていますが、その逆です。
- 世界の始まりから創造主は人間に祝福された人生とそれを守る教えを与えられ、背けば死ぬという警告を与えられました。創世記2章15〜17節
- そして次の創世記3章で人間が神の教えを疑って自分勝手に判断・発言・行動すると、身体的にすぐ倒れなかったにせよ、霊的に死んでいました。つまり、神様の祝福から切り離され、神の愛を拒む惨めさを中心にするようになってしまいました。エゼキエル18章20節前半参照
- エペソ書2章3節の結論も、この恐ろしい状態を描きます。「ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」その最終的な結果、神様を拒み、惨めに存在し続ける経験としての「死」があると神様は教えられます。…黙示録21章8節はそれを「第二の死」と呼びます。
- それは私たち、また私たちの知り合いについて何を意味するのでしょうか。罪は、なめてはいけません。油断できません。そして、ここから救われなければいけません。
- 死んでいた者の歩み方(2〜3節)
- 今日の箇所は「死んだ」状態に限らずその現れ方をも教えます。罪の「王国」の市民はどのような生き方をするかを描いています。三つの大きな動きで、私たち人間は生まれつき、自然と罪の中、罪の支配下にいます。
- 1)世に従う歩み 「それらの罪の中にあってこの世の流れに従い」ました。世間の目、同調圧力、流れは私たちの行いを影響しないいうはずがありません。社会も文化も、私たちが神の教えと警告と招きに背くように働きかけます。…
- 最初の人間に対する誘惑:アダムが妻についていくように(創世記3:6)。
- 心の死んだ状態の人は、それに気づくどころか、これが普通で常識で良いと思います。仲間によって罪の種類は違っても、仲間であることを軽んじて、他の罪を大切にします。ローマ書1章29〜31節参照。
- 2)悪魔に従うように。悪魔は実在の霊的な相手。とにかく神から離れて滅びることを求める存在で、サタン(訴えかける相手、敵)、悪魔と呼ばれます。ヨハネ8章44節参照
- 最初の人間に対する誘惑:蛇の発言受け入れ、神の教えを拒むように(創世記3:4-5)。
- ある人を恐れで神様を避けるように仕向けます。ある人を快楽、無神論で霊的な感覚をさらに鈍らせます。ある人をクリスチャンの罪などで敬遠させます。いずれにしても、神様に立ち返らない人は死んだままです。
- 3)自らの欲に従うように。これは人間が「自由」だと思っています。ところが、イエス様はヨハネ8章34節で「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」と宣言されました。
- 最初の人間に対する誘惑:目の欲、知恵を自ら得ようという欲(創世記3:6)。
- クリスチャンでも、多くの人は刺激的な経験や快適な生活は神様の教えに勝ると考えます。神の教えが人に最善の道を示すのに。また、多くの人は自分が幸せになるためにはいわゆる愛、気持ち良いことが最大の権威だと言うふうに考えたり感じたりします。これはまた社会と悪魔が教え込みます。
- だから、「世の流れ…空中の権威…肉と心の望むこと」で生きる上、真の神様から離れた人は楽しく生きていると思っても、死んだ同然であり、霊的にすでに死んでいて、肉体の死の後、復活を迎えるがそれは第二の死の地獄に繋がります。3節で「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」と呼ばれます。恐ろしい、何よりも深刻な診断です。
- 死に対する唯一の希望(4節)
- 今日、3節で話を終えても完結しますが、4節に大切なことばがあります。「しかし、あわれみ豊かな神は…」。この「しかし」は全てを変えます。文法構造的に、一方で人類の存在とあり方は死んだ状態のに対して、もう一方で真の神の御性質は「あわれみ豊か」です。多くの「私たち」に「大きな愛」を示してくださいます。次回、もっと見ますが、これは今日触れずにいられません。
- 死ぬべき罪人に、大きな愛が示されました。私たちを霊的に生かす力があります。
- 適用:私たちは神の力と愛を信じるのか
- 人の罪は「死」の状態である。人間は世に調子を合わせて罪に歩み、悪魔に従って罪に歩み、自分自身の欲の思い通りに罪に歩む。それに対して、神の偉大な愛しか対抗できない。復活が必要です。それをもたらしたのは、アダムと私たちと違って、神様に対して背きと罪を一切犯されなかったイエス様です。
- イエスが受けられた誘惑:①神殿から実を投げ出して人に自分の力を示す誘惑(マタイ4:5-7)、②全王国を治めるために、悪魔を崇拝するように(マタイ4:8-10)。③自分の身体的な欲に従って、パンを作るように(マタイ4:2-4)。イエス様はその全てを退かれました。父なる神様に対して生きて、喜んで、歩まれました。
- イエス様の通られた道:実際に、十字架の上で呪われ、裁かれ、神に見捨てられたので、で霊的に死を経験されました。「御怒りを受けるべき子ら」(エペソ2:3)のために父なる神の怒りを受けて、父なる神様を宥めてくださいました。実際に身体も死なれました。しかし復活もなさいました。父なる神が最初から最後まで、イエスに怒りを示す間も、喜び愛されていて、その正しさをお認めになったからです。死んだ状態の私たちの多くを、神様はすでに生かしてくださいました。
- クリスチャンでないなら、神の前で死んだ状態のままです。大きな愛で愛する神様がそれを変えて、生きた関係を与えられます。そのように、神との平和と助けを求めてください。神様に自分を委ねて、イエス様に拠り頼んで、いのちを受けてください!
- クリスチャンなら、罪との戦いに気を緩めないように呼びかけます。罪による死から救われたかもしれませんが、世の流れと悪魔の誘惑と自分の内に残る反抗的な罪が攻撃を続けています。でも、本当の祝福と幸せは罪の領域にありえません。いのちを持たせた神様が教えられる道、イエス・キリストにいのちがあります。