2024年8月18日「神様の目的のとおり」
説教の聖書箇所:エペソ人への手紙1章11〜12節
「神様は本当に約束を守るのだろうか」とか「神様は本当に良い計画があるのだろうか」と思うことがありますか。私たちの人生に不確かなことがたくさんあります。神様もそうなのでしょうか。
讃美歌94番は普段、アドベントに歌う曲ですが、古代イスラエルの民が約束された救い主を待ち侘びたことを表します。彼らも、神様の約束を疑うことがありました。神様の愛を疑うこともありました。およそ紀元前5世紀のマラキ書で神様はイスラエルの民にこう訴えました。
マラキ1:2 あなたがたは言う。 /『どのように、あなたは私たちを /愛してくださったのですか』と。
彼らは神の愛が見えないと言って、神の愛の約束を疑いました。それと関連して、マラキ3章14・15節でユダヤ人たちはこう言っていたそうです。「神に仕えるのは無駄だ。…今、私たちは /高ぶる者を幸せ者と言おう。 /悪を行っても栄え、 /神を試みても罰を免れる』と。」要するに、もし私たちが神様の計画や教えが当てにならないと思ったら、神様に従う意味がないと思ってしまい、反抗して罪を犯してしまいやすいです。
しかし、神様は目的とご計画を持っておられます。多くの細かい事を明らかにしておられませんが、明らかにしてくださったことによってクリスチャンまた教会は歩むことができます。1今日の聖書箇所は、創造主なる神様がイスラエルへの約束を、確かな目的にしたがって、成し遂げられたことを述べます。これによって、私たちも励ましを受けて、神を誉め讃えるようになりますように。
- 神様は人に祝福を与えながら、人をご自分のものとされる。(11節前半)
- 11節にある「御国を」は翻訳者による補足・追加です。註にあるように、ここは人が手に入れたのと逆に、「神の資産となりました」という読み方も原文に基づいて十分にあります。多分、それが正しいでしょう。しかし、いずれにせよ、11〜14節全体からすると、イエスを信じる者たちは祝福を受ける者でもあり、神様が所有とされた者でもあります。神様は人に祝福を与えると同時に、人をご自分の民、家族としてくださいます。
- 聖書は神様が人を選び、特別な所有とされることをよく教えます。シナイ山の麓で、古代イスラエルの民は十戒を受ける前から、神に従えば神の「宝」となる、条件付き約束を受けました(出エジプト19:5)。神様と親しく共に歩める希望がありました。
- ただし、イスラエルは律法を守らず、聖なる神にとって汚れた民として、自分たちの相続・割り当ての地から追放されました。人が神と共にいる祝福を受けて、神が罪人を聖なる人として歓迎して所有することは到底思えなくなりました。それでも、マラキ書3章17節に、神に信頼する人(16節)に対する恵みの約束がありました。
「彼らは、わたしのものとなる。
──万軍の主は言われる──
わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。」
- この約束が成就する方法は、神が計画されて送られる救い主メシア(キリスト)が人に神の国を与え、また人を神の民とすることでした。メシアを通して、神と親しく歩む道でした。12節で「前からキリストに望みを置いていた私たち」つまり、ユダヤ人の中でメシアを受け入れた人々、が受けたことです。「キリストにあって」、「主よ主よ、み民を 救わせたまえや」の嘆きへの答えが来ました。
では、なぜそのようなことが可能だったのでしょうか。人間の力、知恵、義、善意には拠りません。そこで、11節のおもなポイントに進みます。
- 神様のご計画は確か、また良いご計画である。(11節後半)
- 11節は四つの言葉で神の主権を示します。「みこころ」は神のみ旨、求める事と言えます。「計画」は神が考えて決められた事、「目的」は神がしようと決められた事です。神様によって「定められていた」事も言われて、成就の確かさを強調します。要するに、神様は良しと思われた事を計画され、実際にそうなるように全てのことを働かせました。全ての人について、神様は確実なみこころと目的を持っておられます。神様は聖書で「すべてをみこころによる計画のままに行う方」としてご自分を表してこられました。(ダニエル4:34-35参照)2 神様が知らせないことがたくさんありますが、計画はあります。
- さて、大きな疑問があっても不思議ではありません。
- 疑問① 神の定めは仕方ない運命なのか。
- いいえ。パウロの時代のエペソでも、ギリシャの神々は運命にも対抗できないとされていた。今も、運命や「縁」と聞くことはありますが、聖書の神様は人格があり、関わってくださる神です。運命ではありません。神様のみこころとは目的があり、意味があります。
- 疑問② 神様の計画が絶対的なら、人間には責任はないか?
- 疑問③ 神様は罪や裁きをも計画されたなら、愛はどこにあるのか。
- 創造主が人は罪を犯し、裁かれることまで計画に含まれたと言うのは、とても不快かもしれません。私たちは神様にもっと説明を求めたいかもしれませんし、多くのクリスチャンもとても悩むことです。しかし、どうしても、人間の理解を超えたことはたくさんあります。神様は完全で被造物の私たちを遥かに超越した存在です。だから、神様のみこころ、ご計画、目的、定めについては、神様に委ねる謙遜さが必要です。5
- 私たちが神様のみこころの難しさについて、認識するべきことは二つあります。
①神様の力、知恵、義、善意が完全であること。6
②神様は世界の人々を愛して、招きをくださっています。聖書を読まなくても、全人類は神の存在を知っているとローマ書1章19〜20節が伝えます。全人類は神様の自然の憐れみを受けています(使徒14:15-17)。さらに神様と平和を持つようになるためにイエス・キリストが遣わされて、贖いのために赦しの代償を払われたことを伝える福音が世界中に広められています。
- 私たちが神様のみこころの難しさについて、認識するべきことは二つあります。
- 創造主が人は罪を犯し、裁かれることまで計画に含まれたと言うのは、とても不快かもしれません。私たちは神様にもっと説明を求めたいかもしれませんし、多くのクリスチャンもとても悩むことです。しかし、どうしても、人間の理解を超えたことはたくさんあります。神様は完全で被造物の私たちを遥かに超越した存在です。だから、神様のみこころ、ご計画、目的、定めについては、神様に委ねる謙遜さが必要です。5
- 疑問① 神の定めは仕方ない運命なのか。
- 神様の定めとご計画について、理解できない部分があると認めても良いです。教えられないことが多々あります。ただ、神ご自身を疑って責めてしまうことがあっても、完全に善い神様を信頼し続けてください。神様は、目的のとおりに、みこころのままに定めて、成し遂げられます。いつか、その全体の素晴らしさが見えるようになる。
第一ペテロ4:19 ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。
- そこで、「すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい」ユダヤ人の希望が実りました。
- 神様は聖なる定めによって民を贖い、ご自分の栄光のために取り戻された。(12節)
- マラキ書から読んだように、ユダヤ人たちはは神の愛を疑いましたが、イエス様がお生まれになり生涯を送られた際も、彼らのほとんどは受け入れませんでした。イエス様がそれにもかかわらず、メシアとしてその民の身代わりになって神の罰を受けて、復活して、神の王国を確立させました。
- それは、12節に結びます。「前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」14節では似たことが全てのクリスチャンについて言われるので、私たち異邦人についても言えることですが、神様がみこころどおりにユダヤ人と異邦人を神の民として贖ったのは、ご自分の栄光のという目的のためでした。
- イエスに望みを置いてるなら、あなたも神の民となり、神の国を受けて、今その確信のうちに歩めます。この生涯のうちも、神様のご計画は私たちの日々の営みに意味を与えます。私たちは神の素晴らしさを表せます。誠実に作業し正直にコミュニケーションをするのも、友達を大切にするのも、その目的に繋がります。7
適用
- 神様のご計画に期待していますか。知らないことがたくさんありますが、神が聖書でよく教えられたこともあります。エペソ1章7節にあるように、「キリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。」イエス様が民を贖って、買い取って、ご自分の宝としてくださいました。私たちの信仰が弱くて、悔い改めが中途半端でも、神様の確かな定めは成り立ちます。
- もしもあなたが今まで本当にイエス様を自分の救い主また主として信じていなかったら、今日にでも、呼び求めましょう。
- ここに集まっている大多数はすでに信じていると思いますが、神様は必ず良いみ旨を行われると信じるかどうかを試す試練がよくあるでしょう。自分は無視されて、祈りが聞かれないのかと感じるかもしれません。神のご計画は良くないと思いやすいかもしれません。でも、神様が古代のイスラエルを完全に捨てて置かれなかったように、今の神の民をも見捨てておられません。「目的にしたがい」、イエス様が身代わりに見捨てられたから、あなたと私は見捨てられずに、神の素晴らしさを味わって賛美するように生かされています。日々の生活を通して、主イエスの力と恵みを讃えましょう。
1申命記29:29参照。
2ウェストミンスター小教理問答第7・8問参照。
3詩篇135:5-6参照。
4第一ヨハネ1:5、ヤコブ1:13-14。ウェストミンスター信仰告白3:1・2参照。
5アダムがエデンの園で神の愛を疑い、神の御言葉を疑った上で善悪の知識の木から果実を食べたこともその逆の典型的な事例です。
6ウェストミンスター小教理問答第4問参照。
7ウェストミンスター小教理問答第1問参照。
※ 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会