2024年8月4日「ナオミの嘆きと恵みの兆し」

説教の聖書箇所:ルツ記1章1〜22節

(修正あり)

 時々、クリスチャンでない方は「クリスチャンはいつも明るい」という印象を受けるそうですが、クリスチャンの皆様がご承知のとおり、そうとも限りません。私たちは悲しみ、苦しみを味わったことがあるし、味わっている最中かもしれないし、また味わうでしょう。聖書の神様に対する人類の反抗の罪の結果として、この世界に悲惨がたくさんあります。しかし、望みもあります。詩篇34篇18節にこう書いてあります。

【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ
霊の砕かれた者を救われる。

 これを、今日、ルツ記1章の人物の経験から学びたいと思います。

 「ルツ記」は「ナオミ記」とも言えます。ナオミが先に(1:2)登場して、ルツより後まで(4:17)出てきます。1章にある話を確認して、ナオミまたルツを通して学ぶことを見たいと思います。

一、悲しみへの道(1〜6節)

 前回も少し触れましたが、この本のイスラエル人が皆、模範的という訳ではありません。ルツ記の時代背景は不気味なものでした。1章1節では、飢饉以上に、「さばきつかさが治めていたころ」は、聖書の「士師記」の時代を指します。士師記はイスラエルの民が主なる神に背いた結果の悲惨を記録して、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」というコメントで締めます(21:25)。

 ナオミの夫エリメレクも「自分の目に良いと見えること」を選び、神に従わず自分の知恵に従って、神から受けていたベツレヘムの土地を離れてモアブに住みました。目の前の辛い飢饉から逃れよう、とナオミも家族は考えていました。しかし、3・5節でナオミは家族の男性全員を失いました。当時の考えからすると、ナオミは経済的な支えだけでなく、生き甲斐を失ってしまいました。

二、ナオミの希望と嘆き(6〜15節)

 6・7節によるとある日、ベツレヘムの町に作物がまた取れたとナオミは聞いて、嫁達のオルパとルツと帰ることにしました。ところが、嫁達の将来を考えて、不安になりました。異国での生活の辛さを彼らにも味わせたくありませんでした。

8・9節 「あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、【主】が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」

 ナオミはオルパとルツに、それまでの愛に感謝して、祝福を願って、帰そうとしました。さらに12・13節で彼女達に再婚相手を提供できないと言って、指示を繰り返します。自分の励ましと支えを捨てても、彼のためだと思って、愛しました。

 ついにナオミは13節で、「【主】の御手が私に下ったのですから」と吐き出します。神様が自分を打ち苦しめている感じがして、哀れを表現します。胸が裂ける思いでした。一方でベツレヘムへ戻っても支える人がいないという絶望、もう一方で嫁達の将来のために彼らを追い払わなければならない切なさに震えて、神様のご計画は何と痛いことかと嘆きました。

 その叫びを聞いて、どう感じますか。不信仰ですか。そうとも限りません。実は、これは詩篇など聖書によく書かれている「嘆き」です。有名な事例は詩篇22篇1節「わが神 わが神 / どうして私をお見捨てになったのですか」です。綺麗事で収められない苦しみを正直に、神様にぶつけて、嘆くことができます。ナオミは神様が喜ぶ正直さを現していたでしょう。

 私たちにも、苦しみに遭う時、二つの罠にかかりやすいです。

①一方で神の善意を疑って、神に慰めを求めない。あるいは神様を責める。
②他方で苦しみを余り認めないで、「大丈夫」と言って我慢する。

このいずれでも、私たちは神様を、自分の現実と無縁の存在とし見てしまいます。しかし、苦しみは私たちが神に近づくための機会です。1

 ちなみに、15節ではナオミはさらに、ルツの物質的な将来を第一に考え、霊的な行方をあまり考えていなかったようですが、確かにルツのためだと思って愛している積もりでした。切ない別れのシーン…と思ったら、恵みの兆しが現れます。

三、恵みの兆し(16〜22節)

 先月、ルツの信仰告白を16〜17節で読みました。ルツはナオミの愛に対して、同等以上の愛で自分の将来のリスクを冒して、一緒に帰ると誓います。18節でナオミはルツの言葉を受け入れます。

 19節には、ベツレヘム到着の様子があります。「町中が二人のことで騒ぎ出し、女たちは『まあ、ナオミではありませんか』と言った」のです。ナオミは自分の名の意味を勿論、知っていました。ナオミは「良い」「芳しい」でした。しかしナオミは、また嘆きます。

20-21節 「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。
 全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。
    私は出て行くときは満ち足りていましたが、
   【主】は私を素手で帰されました。
    どうして私をナオミと呼ぶのですか。
  【主】が私を卑しくし、
 全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」

 ナオミは「よし子」に替わって「苦い」、「マラ」だと名乗ります。人生の辛さが自分を定義し直したと思いました。

 ここでは、嘆きの中に不信仰、自己憐憫も混じっているように聞こえます。ナオミは神の憐れみを見失ったかもしれません。良いことを神様にはもう期待しないと言ったような口調です。嘆きに、神を責める思いもある場合もあります。私たちは複雑な思いを抱いて神と関わります。

 私たちは「いや、ナオミ、神様はね…」と議論したがるかもしれません。しかし、私たちが重い悩みに溺れそうな時、それは助けになるでしょうか。こういう場面でナオミが必要としたのは神学の講義ではありませんでした。まず、(1)寄り添って静かにいる人が必要でした。そして、(2)誠実さと恵みをもって接する神様がなおも必要でした。

 なんと、ナオミの嘆きにそういう恵見の兆しがにありました。1章に最後の22節はこれをそっと伝えます。

22節 こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。

 1)一人の信仰者、ルツが静かに、共に立っていました。誠実を尽くし続ける信仰の姉妹。

 2)そして6節がすでに言った「【主】がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった」ことは22節の「大麦の刈り入れが始まったころであった」でも現れます。主なる神は、助けを下さいます。見捨てておられなかったのです。寄り添うルツを下さり、さらに導いておられました。恵みの兆しでした。

意味、キリスト、適用

 さて、苦しみの時に神とどう向き合うかを考えていただきたいです。

 まず、1)あなたが苦しみに直面する場合、悲しみを神様にぶつけても良いことを覚えていただきたいです。未信者も、祈ってみて良いです。神様は本音を聞くのが好きです。神を呪って責めるのは良くありませんが、嘆いて、神に「誠実さを示してください。なぜ約束の恵みを見せませんか」と求めても良いです。ナオミは途中まで、それができました。

 また、2)近くの人が苦しみに直面した場合、寄り添って、静かに支えることも覚えていただきたいです。神学的な「答え」をする適切な時もありますが、まず聞いて支えることが大切です。ルツは力強く、しかし優しく、そうしてあげました。2

 3)これら二通りの反応を可能にするのは、福音だと覚えていただきたいです。嘆くことも寄り添うことも、神の憐れみを信じていないと続けられません。主の憐れみを確信させるのは、ナオミのように上手に嘆き、ルツのように誠実に寄り添う、神なるイエス・キリストこそです。

 イエス・キリストは深い感情をもって嘆かれました。イスラエル民の不信仰、特に敵であった指導者達の頑固な態度に落胆して嘆きました。3十字架で身代わりの刑罰を受けると思って、悶えながら避けられないかと嘆き、祈られました。4イザヤ53章3節で

彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で、病を知っていた

と預言されたとおりでした。

 しかし、イエスは揺るがない信仰で天のお父様に祈り、従い通されました。ナオミの心に信仰と不信仰、自己憐憫は混じったが、イエスの信仰は完全でした。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれる時も、神を見上げておられました(マタイ27:46)。

 そしてイエス様は今も生きておられ、信じる者を「友と呼びました」。5 神が沈黙されたのではありません。見捨てておられません。あなたはイエス・キリストに信頼しているなら、あなたの苦しみの中で、神様は共におられます。

 だからこそ、クリスチャンは苦しむ際に正直に嘆き、苦しむ人に寄り添うことができます。私たちの力と信仰も尽きてしまいます。けれども、イエス・キリストの力強い助けにより、私たちはこのように歩めます。6

祈り:第二コリント1:4-5より。

1詩篇73篇全体参照。結論は73:25-28。

2マタイ5:3-7の「幸い」は見事に、ナオミ(3-4節)、そしてルツ(5-7節)に当てはまります。

3ルカ19:41-46、マタイ23:13-29・37。

4マタイ26:36-46。

5ヨハネ15:15。

6 招詞:第二コリント1:3-5。交読:16(詩57篇)。賛美:301番、312番、121番、298番。

鳴門キリスト教会
礼拝内容(説教)