2024年7月28日「代償が払われた」

説教の聖書箇所:エペソ人への手紙1章7〜10節 パート1

前回:神様が罪人を聖なる人とするため、ご自分の子とするため、そして賛美されるためという三つのご計画を永遠の昔から持っておられたことを読みました。その結果、イエス・キリストに信頼する者は、神様が必ず自分を聖なる、神の子として扱ってくださると安心できます。

 永遠の昔のご計画だけでなく、歴史の中で神様が成し遂げられた成就もありました。地上でイエス・キリストがなさったことです。8〜10節は代償が払われた後のことを教えていて、次々回、取り扱おうと思います。今日、7節に集中したいです。教会に長く通われていれば、基本の「き」のように聞こえるかもしれませんが、実に深くて、私たちを感心させて、賛美へ導く箇所です。

 四つの質問の答えがあります。①祝福の源(仲介者)とは誰か?②「贖い」という祝福は何か?③贖いの代償とは?④贖いの根源とは?

7節 このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

  1. 祝福の源(届ける仲介者)とは?
  • 「このキリストにあって」私たちが受ける祝福は、イエス・キリストが私たちに近づき、絆を下さった故です。
  • イエスを離れて、イエスの代わりに自分や他の人の何かに頼ると、ここに書かれている祝福を受けられません。私たちは自分の能力、努力、業績で神の祝福を獲得できると思っていないでしょうか。
  • しかし、イエスに信頼するなら、ここにある贖い、赦しを受けて、その結果、神と平和を持つことができます。
  1. 「贖い」という祝福は?
  • 「贖い」という言葉の二つの背景
    • 旧約時代から、出エジプトの出来事がありました。そこでも神はイスラエルを子として認めた上で1、奴隷となっていたイスラエル人を圧政国エジプトから出られるように、頑固なエジプトの王を「災」で服従させました。出エジプト記6章6節で主なる神がこう予告されました。「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。」
    • パウロが書いた当時のローマ帝国では、奴隷を市場などで買うことが「贖い」でした。誘拐された人、奴隷として生まれた人など、そこに至った事情は色々ありましたが、奴隷は自分あるいは他の人が代償を払って、自由になるあるいは別の人の所有となることができました。
  • 神様がご自分で代償を払われ、奴隷を贖ってくださいました。
  • 贖いの意味は7節で、「背きの罪の赦し」という言葉で具体的に書かれています。要するに、イエス様による贖いを受ける者は、「罪の奴隷」として人生を始めて、罪に対する奴隷の生活から贖われないといけません。
    • 「あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。」(ローマ6:20)つまり、神様が愛の関係に求める正しさの「義」、神の律法を気にせずに生きる人は自由だと自負しても、実は罪の奴隷です。
    • そこで、罪を取り扱うために、「赦し」という代償が必要でした。
      • 使徒信条でも「罪の赦し」をクリスチャンは告白します。
      • でも、罪の重さをしっかり理解すると、私たちは贖われ、赦されるはずがないと絶望するはずです。
        • 人間は自分で神に対する罪を償えません。2無限で偉大な神に対する私たちの反抗という罪の全ては、神の呪いと永遠の刑罰に値するものだと聖書は厳かに教えます。3
        • 黙示録21:8 「臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」
      • 赦しがないと、贖いは成り立ちません。
  1. 贖いの代償とは?
  • 赦すということは、傷を負った人が復讐を求めないで、恨みも抱かないで、相手の益を求める、愛することです。要するに、傷を受けて、その傷の結果を自分が背負うのです。赦しの代償を自ら払う訳です。
  • 神様が人間を赦して、贖うとは、神ご自身が代償を払ってくださったことです。その代価とは、命とそれを象徴する「血」です。
    • ローマ6:23「罪の報酬は死です。」
    • エペソ2:1「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた…」
  • 神に対する罪のために、赦しの代償にふさわしい唯一のものは、その罪が受けるべき死です。
  • 子なる神が人間、イエスとなられ、血を流し死ぬことができるようになったのは、血の代価を持って、和解の代償、赦しの痛みを背負うためでした。
    • 第一ペテロ1:18-19 ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
  • 赦しの代償の重さを知れば知るほど、私たちは赦しに驚きます。
  1. 贖いの根源とは?
  • 「これは神の豊かな恵みによることです。」イエスの贖いは恵み以外の何ものでもないのです。贖いの根源は、「恵み」です。
    • このような箇所から、聖書による「恵み」の定義はただのご厚意や憐れみだけではないと分かります。
      • 神の呪いに値する人へ、神が代償をもって、イエス・キリストを通して、賜う祝福が恵みなのです。
    • したがって、誇ることができません。「驚くばかりの 恵みなりき この身の 汚れを しれる我に」。4

適用

  • 神学的に深い7節でしたが、クリスチャンが喜びを持って歩める理由はここにあります。日常生活の理不尽な状況、悲しい状況、絶望的な状況の全てにおいても、まだ神様を誉め讃えようと思わせるのは、神様の恵みから生まれて、イエス・キリストの仲介と犠牲によって成就された、罪の赦しという贖いです。
  • 6節に振り返ると、「神がその愛する方〈イエス・キリスト〉にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」
  • 「我に何の 功しあらん ただ主の血に きよくせらる 
     ※主によりて あがなわる わが身の幸は みな主にあり」5
  • 私たちは神が赦しを与えるためにイエスを十字架へ送られたと知ると、感謝せずにいられないはずです。
    • もし神を賛美する心、感謝する心があまり起こらないのであれば、おそらく、私たちは自分の罪を過小評価してイエスの血の代償をあまり必要と感じていない、また、神様がどこまで聖なる、義の方かを深く受け止めていない可能性が高いです。
    • 私たちは自分を良い人と見たいから、そのように神様の義と栄光を過小評価しがちです。自分の正しさを過大評価して、罪を過小評価しがちです。
      • エペソ1章7節が神の愛を表します。赦し、和解するために、神様がイエスの血の代償を払ってくださいました。私たちの罪はそれほどに思いです。でもその代償は、イエス・キリストによって払われています。
      • 自分が罪人のかしらだと嘆きつつ、罪人のかしらも赦される、贖われて、罪の奴隷でなく神のしもべになったと喜んで、生活を送り対と思いませんか。6

1出エジプト4:22。

2詩篇49:7-8参照。

3ウェストミンスター小教理問答問84参照。

4聖歌229番。

5讃美歌514番。

鳴門キリスト教会
礼拝内容(説教)

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です