2024年7月14日「聖なる人とは?」

説教の聖書箇所:エペソ人への手紙1章1〜2節 

このことばを聞いて何を思い浮かべますか。「使徒、聖徒、祝福」。どれもキリスト教的用語のような表現です。でも大切です。私たちは神様のことをどうして知り、神様にどう見られて、どのような思いで生きることができるかを意味します。

今日、エペソ人への手紙という書簡の挨拶だけを見ますが、その三つの表現に分けて考えます。「使徒とは?」次に、「聖徒とは?」そして、使徒パウロの手紙の挨拶にいつもあった「祝福とは?」この三つの質問を、今日確認しましょう。特に、聖徒、聖なる人とはどういう人か、またその人は何を神様に期待できるかを確認しましょう。あなたは、自分が聖なる人だと思いますか。そして、なぜそう思いますか。聖なるで祝福された人は一番幸せと言えるでしょうから、私たちの生き方、考え方に関わる大切なことです。

一、使徒とは?(1節前半)

まず1節前半に「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから…」があります。「使徒」は私たちがこれから確認する事柄を書いた人なので、エペソ書が使徒について言う三つのことで簡単に定義したいと思います。

1)この節から分かるのはまず、使徒は「神のみこころによる」任務を受けたので、創造主なる神が選び指定される人だけが、聖書の定義の使徒になりません。

2)使徒は「キリスト・イエスの使徒」です。キリストから送り出されて、キリストを証する人々でした。福音書(ルカ6:13など)によるとイエスがまず弟子達の中から12人を使徒として任命され、遣わされました。さらに、復活されたキリストは、復活の目撃者として使徒達を証しする者として遣わされました。2

3)エペソ書2章20節は教会が「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられてい」ると言います。すなわち、使徒たちは教会が信じ、行うべきことを証しして、イエス・キリストの教会の土台、基盤に特別な貢献をしました。3

まとめると、聖書のほとんどの箇所で言われる「使徒」は神様に選ばれ、イエス様の証をするようにイエスに任命された、教会の土台の働きをした人々でした。私たちは、聖書に書き留めるように導かれた内容の全てを受けて、本当に幸いです。

二、聖徒とは?(1節後半)

今日の話で最も大切な質問に入ります。

「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。 」

「聖徒」、あるいは「聖なる人」とはどういう人なのでしょうか。ただ正しいことをする人だけではありません。大体どの宗教でも、その宗教の基準に従って、「良い人」になることを勧めるでしょう。聖書の基準は「聖なる」ことであり、それは神様ご自身のあり方です。神様は「聖」そのものです。4道徳的な完全さを含めながら、特別にされ、神に取り分けられることをも意味します。

聖書的に言うと、私たちが聖なる者となるには、何の欠けもなく、神様が歓迎される存在にならなければなりません。旧約時代では、主なる神はイスラエルの民にこの条件を伝えられました。

出エジプト19:5-6 「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

要するに、シナイ山で与えられたモーセ契約を守ったら、神に喜ばれる聖なる者となり得た訳でした。ところが、イスラエルはその基準を満たせず、約束後から追い出されました。

しかし、モーセの条件付き約束は、イエス様が条件を満たす働きをなさいました。その一生をかけて神の律法を完全に守られ、人を完全に愛され、十字架でも神を完全に信じ抜かれました。結果、罪人を聖なる者とする道がイエス・キリストを通してできて、イスラエルの特権に与れるようになりました。それでペテロはモーセを引用します。

第一ペテロ2:9前半 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司聖なる国民神のものとされた民です。

生まれつき、神様との契約を自分で一字一句守れる者は一人もいません。しかし、エペソ1章1節に戻ると、聖徒(聖なる人)とは、「キリスト・イエスにある忠実」な人たちです。言い換えると、キリスト・イエスに信頼する人です。「忠実」の訳はおそらく「信じる」としたほうが良いでしょう。なぜならエペソ2章8節では私たちが「信仰によって救われた」とあります。忠実だったから聖徒になったのではありません。むしろ、神の聖なる基準を守られたイエス様を信じてこそ、聖なる者として扱っていただけます。

私たちは自分の行いできよくなることができません。人生において全ての人間関係と営みにおいて、潔白であるように一生懸命励むべきです。しかし、キリスト・イエスに信頼することのみによって、私たちは「聖なる国民、神のものとされた民」になりました。取り分けられた、聖なるものとして立場を変えていただきました。それを踏まえて、聖なる生き方に必要な助けも神様から来ます。

三、祝福とは?(2節)

最後に、2節で「祝福とは?」という質問に答えたいと思います。祝福という用語がでませんが、パウロが告げている内容は祝福です。

2節 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

この文章は祝福の宣言と言えます。民数記6章24〜26節にあるように、神様が昔からご自身の名を人につけて祝福を宣言させました。民数記6章では「【主】(ヤハウェ)があなたを祝福し恵まれますように…平安を与えられますように」と祝福が宣言されました。パウロはイエスが神であることを踏まえて、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように」と言います。では、エペソ1章2節にある祝福の二つの要素は何でしょうか。

1)「恵み」 聖書の「恵み」は、受ける者が受けるに値しない愛情、助け、支えです。人間は生命と全てのことについて依存するのに、神の愛情、助け、支えを拒んでしまいます。頑固で反抗的です。しかし、神様は人間に拒まれても、追いかけてくださいました。それで詩篇23編6節で歌います。

まことに 私のいのちの日の限り
いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。

神様が追って来てくださいました。イエス様が追って来てくださいました。恵みを効果的に届けるために、私達の全ての罪を背負い、私達が持ち合わせるべき全ての義ときよさを持って、十字架まで神に従ってくださいました。だから私たちは1%さえも、神の祝福を獲得することができません。一方的な恵みだけによって、神と平和の関係に入れて頂き、その関係において成長して毎日歩むことができます。

 2)「平安」 神からの一方的な恵みを受ける人には、神と平和も現実となりました。したがって、心のうちの平安もあります。ギリシャ語やヘブライ語では「平和」と「平安」は同じ言葉です。旧約で言うそれは「シャローム」であり、争いがないことだけでなく、関係と人生の全体的な健全さと繁栄をも含みます。

平安は人間の努力や知恵では、断片的にしか生まれません。同調圧力が絞り出す「和」でもありません。イエス様が罪による平和のなさを教えた上で、和解するために十字架で犠牲を払ったからこそ、平和と平安と健全さと繁栄が可能です。新しい天と地が始まるまで、私たちは永続的なシャロームを期待できません。しかし、今すでに天のお父様の神と子なる神イエス・キリストがそれを約束して、祝福してくださいます。

一言で言うと、「恵みと平安」は聖なる人とされた人の特権です。イエス・キリストを信じて、聖なる人に変えられた聖徒の特権です。

私たちは今日、三つの大切な「キリスト教っぽい」用語を見ました。自分で積む業績や熱心さでなく、イエス・キリストに信頼するという意味で忠実かどうかだけで「聖なる人」「聖徒」であると確認しました。イエス・キリストに忠実に信頼していますか。そうであれば、「恵みと平安」の祝福も差し伸べられます。聖書が教えて、聖徒たちが受ける、神からの一方的で確実な愛の現れです。あなたは聖徒ですか。聖徒になって、神の愛の現れを受けたいですか。イエスに信頼するなら、それはすでに、あなたのものです。第一ペテロ2章9節を最後まで読みます。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

私達はこの為に聖なる人と変えられました。聖なる神を信じて、聖なる者として扱っていただくと、神様のきよさと恵みを賛美します。そして「恵みと平安」を受けて、どうしますか。聖なる立場に見合った、聖なる生き方を求めます。罪深い自分を愛されたイエスにそのように感謝で応答して、人々に人に「告げ知らせる」のです。そのように生きられますように。生活で、だれに神のことを告げ知らせたいですか。神の栄誉を、どのようにきよい生き方で表したいですか。王なるイエスに栄光が行きますように。

1 招詞:詩篇34:8-10。賛美:66番「聖なる、聖なる、聖なるかな」164番「こひつじをば」など。

2使徒1:21-25、第一ヨハネ1:1-4。

3マタイ28:20参照。

4イザヤ6:3、黙示録4:8。

鳴門キリスト教会
礼拝内容(説教)

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