2026年9月6日 説教原稿「不可能の中で命を生み出される神」

聖書箇所:エゼキエル書37章1~10節  説教者:井戸田恵介牧師

今日は預言者エゼキエルの書からお話ししたいと思います。2月に10日ほどアメリカに行く機会があり、日本の宣教について分かち合う時間がありました。日本の教会の現状や、日本での働き、これからの宣教について、いろいろな方と話すことができました。

その中で改めて感じたことがあります。それは――本当に多くの人たちが、日本のために祈ってくださっているということです。日本の地で福音が広がるようにと、祈り続けている人たちがいます。日本で仕えている宣教師や働き人もたくさんいます。

そういうことを考えているときに、「今、私たちが置かれているこの場所で、福音を伝えることをもう一度励ましたい」そんな思いが与えられて、今日のエゼキエル書37章を選びました。

この箇所はよく「干からびた骨の谷の幻」と呼ばれるところです。

今日はこの箇所を、四つの言葉で見ていきたいと思います。

場所  力   語る    祈る

この四つの流れで、この箇所を一緒に見ていきたいと思います。

では一言お祈りします。

1.場所

1主の御手が私の上にあった。私は主の霊によって連れ出され、平地へいちの真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。2主は私にその周囲をくまなく行(ゆ)き巡(めぐ)らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。

エゼキエルは神さまから遣わされた預言者でした。でも、彼が語るように遣わされた場所は、希望に満ちた場所ではありませんでした。当時イスラエルの民は、バビロンによって国を滅ぼされ、捕囚として連れて行かれていました。それまで彼らにとって 「神さまが共におられる」ということを思い出させてくれていたものが、すべて失われたように見えたのです。

神殿もない. 国もない。 未来も見えない。人々の心には、こんな問いがありました。

「もし神さまが本当に力ある方なら、どうして私たちを守ってくださらなかったのか。」

落胆と絶望の中にあったのです。そしてその状況を、神さまはエゼキエルに一つの幻で見せられました。

ですから、エゼキエルが幻の中で連れて行かれた干からびた骨の谷は、まさにこの捕囚の現実を表しています。そして、そこに散らばっているは、イスラエルの民を表しています。

神の言葉を語るために遣わされる場所としては、 とても難しい場所に彼は置かれていました。

今、日本にはおよそ1億2400万人の人がいると言われています。その中で、クリスチャンは1%にも満たないと言われています。

多くの人が、福音をはっきり聞いたことがない。一度も聖書を開いたことがない。クリスチャンに出会ったことすらない。それが、日本の現実です。

数か月前、神戸で引っ越しのために不動産屋さんと一緒に物件を見て回っていたときのことです。担当の方から、「お仕事は何をされているんですか?」と聞かれました。私は、「牧師をしています」と答えました。すると、その方は少し不思議そうな顔をして、「牧師って、どういう仕事なんですか?」と聞かれたんですね。それで、キリスト教や教会について少し説明していました。すると会話の途中で、その方が急にこう言われたのです。「すみません、クリスチャンって何ですか?」私は一瞬、「え?」と思いました。その方は鳥取県の出身で、神戸に引っ越して働いておられる方でした。けれども、「クリスチャン」という言葉自体を、ほとんど聞いたことがなかったというのです。そのとき私は、改めて思わされました。これが、日本の現実なんだ、と。

だからこそ、私たちがエゼキエル37章を読むとき、それは遠い昔の物語ではありません。むしろ、この日本の中で、私たち自身に問いかけているのです。霊的な関心がほとんどないように見える場所で、神は命を与えることができるのか。キリスト教が遠いものに感じられる文化の中で、神は本当に働いておられるのか。

この箇所が語る答えは、とてもはっきりしています。「できる」と。それは、エゼキエルが特別すごい人物だったからではありません。神ご自身に、人を生かす力があるからです。では、神さまがエゼキエルをそのような厳しい場所へ遣わされたとき、彼はどのように応えたのでしょうか。

2力

3節:3主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」

正直に言えば、この神さまの問いは、少し不思議にも感じます。だって、そこにあるのは骨です。しかも、干からびた骨です。普通に考えれば、答えは明らかです。生き返るはずがありません。

けれども、エゼキエルはこう答えました。「神、主よ、あなたがよくご存じです。」これは、「私には分かりません」というだけの言葉ではありません。むしろ、こういう信仰の告白です。「私にはできません。でも主よ、あなたはご存じです。力を持っておられるのは、あなたです。」神さまの問いは、「エゼキエル、あなたにできるか?」ではありません。本当の問いは、「わたしにできると信じるか?」という問いなのです。

実は、この流れは聖書の中で何度も繰り返されています。たとえば、モーセです。神さまは彼を呼び、ファラオの前に立たせ、イスラエルの民をエジプトから導き出すよう命じられまた。けれどもモーセは、何度もためらいました。「私は口が重いのです。」「私はふさわしい者ではありません。」「どうか、ほかの人を遣わしてください。」

彼は、自分の弱さを理由に、神さまの召しに応えられないと思っていました。しかし神さまは言われます。「わたしがあなたと共にいる。」「あなたが語るべきことは、わたしが教える。」さらに神さまは、兄アロンを与えて、モーセを助けられました。また、イエスさまと弟子たちのことを考えてみても同じです。

彼らは、当時の宗教エリートではありませんでした。有名な教師でもありません。漁師もいましたし、マタイのような取税人もいました。普通に考えれば、教会の土台となるリーダーとして、もっとふさわしい人がいたように思えます。けれども神さまは、何度も何度も、普通の人を、弱い人を、ときには意外な人を選ばれるのです。なぜでしょうか。それは、人の力ではなく、神の力が現されるためです。エゼキエル37章でも、まさに同じことが起きています。神さまの問いは、「エゼキエル、あなたにできるか?」ではありません。本当の問いは、「わたしにできると信じるか?」なのです。そしてそれは、私たちにも向けられている問いです。

難しい場所に置かれるとき。なかなか変化が見えないとき。自分には足りないと感じるとき。疑いや不安を覚えるとき。その中で、私たちはエゼキエルのように言うことができるでしょうか。「主よ、あなたがご存じです。あなたなら、おできになります。」私たちの信仰の中心には、イエス・キリストの復活があります。キリスト教は、この真理の上に立っています。神は、死の中から命を生み出されたお方です。だからこそ、閉ざされているように見える心にも、神さまは働くことがおできになります。弱ってしまった信仰を、新しくすることもできます。そして、普通の人を用いて、特別な働きをなさることもできるのです。

ですから、問題は「神にできるかどうか」ではありません。「神は、どのように働かれるのか。」そのことが大切なのです。そして、この続きを読んでいくと、その答えが見えてきます。神さまは、どのようにして命を与えられるのでしょうか。それは、まず神のことばを語ることを通してです。

3 語る

4節4主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。「干からびた骨よ、主のことばを聞け。5神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。6わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。」7私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。8私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。

神さまがエゼキエルに命じられたのは、「これらの骨に預言せよ」ということでした。そして、こう語れと言われます。「干からびた骨よ、主のことばを聞け。」考えてみれば、本当に不思議な命令です。骨に向かって語れ、と言われるのです。けれども、エゼキエルが神さまのことばを語り始めたとき、何かが起こりました。音がしたのです。ガラガラ、ガラガラ、と。散らばっていた骨が動き出し、骨と骨がつながり始めます。そこに筋がつき、肉が形作られ、皮膚が覆っていきました。

けれども、8節の最後には、こう書かれています。「しかし、その中に息はなかった。」体はできています。形も整っています。けれども、まだ命がないのです。ここで使われている「息」という言葉は、実は「霊」あるいは「御霊」とも訳される言葉です。同じ言葉が、前の36章でも使われています。神さまはそこで、こう約束されました。「あなたがたに新しい心を与え、
新しい霊を与える。」ここは、とても大切なところです。エゼキエルは、神のことばを語らなければなりません。しかし、命を与えることができるのは、神の御霊だけなのです。

私たちは、人の心を変えることはできません。議論によって信仰を生み出すこともできません。努力だけで、人を救いへ導くこともできません。私たちにできるのは、神さまのことばを語ることです。そして、命を吹き込まれるのは、神さまご自身なのです。

けれども、8節にはまだこう書かれていました。「その中に息はなかった。」つまり、まだ終わっていないのです。実は、ここでもう一つ、私たちに必要なことが示されています。続く9節を見てみましょう。

4祈る

9そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。「神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」10私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。

エゼキエルが最初に骨に向かって預言したとき、何が起こったでしょうか。動きが起こりました。骨が骨につながり、筋ができ、肉がつき、皮膚が覆いました。外から見ると、かなり「それらしく」見えます。形ができている。体もできている。けれども、聖書ははっきりこう語ります。「しかし、その中に息はなかった。」つまり、どういうことでしょうか。体はある。でも、まだ死んだままなのです。回復しているように見える。でも、まだ命がない。まだ完成していないのです。そこで神さまは、次にエゼキエルへ命じられます。「息に預言せよ。」先ほども触れましたが、ここで使われている「息」という言葉は、ヘブル語では「霊」あるいは「御霊」とも訳される言葉です。言い換えれば、神さまはこう言われているのです。「御霊に呼びかけなさい。」「祈りなさい。」これは、とても大切な場面です。かつて創世記2章で、神さまはアダムの鼻に命の息を吹き込まれました。それによって、人は生きる者となりました。

同じように、新しく生きるためにも、神の息、神の御霊が必要なのです。エゼキエルは、神のことばを語りました。しかし、それだけでは回復は完成しませんでした。そこに祈りが伴ったとき、御霊が働かれたとき、初めて彼らは生き返り、立ち上がったのです。

ある注解者は、この箇所についてこう語っています。

「神のことばを伝えるだけでは成し得なかったことを、祈りが現実にした。」

これは、私たちにとっても、とても大切なことです。私たちは、福音を語ることの大切さを強調します。それ自体は、本当に大切なことです。けれども、気づかないうちに、私たちはこう考えてしまうことがあります。「もっと分かりやすく説明できれば…」「もっと説得力があれば…」「もっと知識があれば…」「もっと上手に話せれば…」

そして、いつの間にか、自分の力に頼り始めてしまうのです。一方で、反対の方向へ行ってしまう人もいます。「自分には賜物がない。」「話すのが得意ではない。」「それは牧師や宣教師の仕事だ。」そう思って、動けなくなってしまう。けれども実は、どちらにも同じ問題があります。焦点が、自分に向いているのです。エゼキエル37章は、私たちに思い出させます。命を与えるのは、神の御霊だということを。私たちは、神のことばを語ります。そして同時に、祈ります。自分にはできないことを、御霊がしてくださるように祈るのです。私たちは、教会を建てることができます。イベントを開くこともできます。プログラムを計画することもできます。説教を準備することもできます。それらは、すべて大切です。でも――御霊が働かれなければ、それはただ「形」を整えているだけです。命を与えることができるのは、神の御霊だけなのです。だから祈りは、「あったら良いもの」ではありません。奉仕に付け加える補助的なものでもありません。祈りは、不可欠なのです。あの谷にあった干からびた骨が、大きな軍勢として立ち上がったのは、エゼキエルが特別だったからではありません。神さまご自身が、命を吹き込まれたからです。そして神さまは、今も同じように働いておられるのです。

高校を卒業したあとの夏、私はHIBAキャンプに誘われました。でも、その頃の私は、正直に言うと、クリスチャンをやめようと思っていました。「親がクリスチャンだから、自分もクリスチャン。」そんな信仰に、どこか違和感を感じていたのです。そして、自分の信仰はいつの間にか、「行い中心」になっていました。「もっと聖く生きなければいけない。」「聖書の言うことを、ちゃんと守らなければいけない。」「もし十分にできていなかったら、自分は本当に救われていないのではないか。」そんな不安が、ずっと心の中にありました。さらに、周りのクリスチャンを見ながら、「みんな、ただ演じているだけなんじゃないか。」そんなふうに思ってしまうこともありました。だから、キャンプへ行く前に、私は正直に神さまへ祈ったのです。「神さま。もし本当にあなたがおられるなら、このキャンプで、ご自身を私に示してください。でも、もし何も起こらないなら、私はもうクリスチャンと名乗るのをやめます。」

キャンプへ行ってから、私はカウンセラーにそのことを話しました。そのカウンセラーは、その週の奉仕のために来ていた宣教師でした。けれども、キャンプが始まって最初の数日間は、特に何も変わりませんでした。私は相変わらず頑なでしたし、疑いも残っていました。そして、キャンプ最後から二番目の夜。礼拝の時間に、私はもう一度祈りました。「神さま。もし本当にあなたがおられるなら、どうか私に示してください。」言葉で完全に説明するのは難しいのですが、そのとき私は、それまで経験したことのない平安を感じました。感情的に盛り上がったわけではありません。誰かにプレッシャーをかけられたわけでもありません。まるで神さまが、静かに、やさしく、「わたしはここにいる。」そう心に語りかけてくださったような経験でした。礼拝が終わったあと、私はカウンセラーにそのことを話しました。その人は、身長190センチくらいあって、体も本当に大きな方でした。でも、私の話を聞いた瞬間、急に泣き始めたのです。私は一瞬、「大丈夫かな…」と思いました。すると彼は、こう言いました。「礼拝の間、ずっと恵介のために祈っていたんだ。神さまが、ご自身を示してくださるようにって。」自分が祈っていたその時、同時に、誰かが自分のために祈っていたのです。そして、自分を変えたのは、説得力のある議論ではありませんでした。プレッシャーでもありませんでした。祈りを通して働かれる、神の御霊でした。その出来事を通して、私は確信するようになりました。祈りを聞いてくださる神がおられる。人を追い求めてくださる神がおられる。私たちは、誰かの心の中で、神さまが何をしておられるのかを見ることはできません。でも――私たちが語るときも、祈るときも、祈りの答えを待っているときも、葛藤の中にいるときも、私たちが知らないところで、神さまは確かに働いておられるのです。

私たちは、福音を伝えるように召されています。自分の信仰について語るように召されています。けれども、それと同じくらい、いや、それ以上に大切なのが、祈ることです。なぜなら、人を救うのは、私たちの力ではなく、神さまの働きだからです。そして、私たちが当たり前のように祈れること自体が、実は大きな恵みなのです。神さまは、祈りというかたちで、私たちが直接ご自分のもとへ来る道を、すでに開いてくださいました。私たちはもう、動物のいけにえをささげる必要はありません。人間の仲介者を通さなければ、神さまに近づけないわけでもありません。神さまの注意を引くために、宗教的な儀式を積み重ねる必要もありません。イエス・キリストによって、私たちは自由に神さまへ祈ることができるのです。それは、イエスさまが十字架で成し遂げてくださった御業によって。そして、神さまがイエスさまを死からよみがえらせてくださったことによってです。だから私たちは、今この場所でも、学校へ向かう途中でも、仕事へ向かう電車の中でも、夜、眠れずに横になっているときでも、神さまに祈ることができます。そして――神さまは、聞いておられます。イエスさまは、こう言われました。「あなたがたの中で、子どもがパンを求めたときに、石を与える父親がいるでしょうか。」

この地上の父親でさえ、完全ではなくても、子どもに良いものを与えることを知っています。だとすれば――天の父は、求める者に、どれほど良いものを与えてくださることでしょうか。

だから、祈り続けてください。まだキリストを知らない家族のために。友人のために。職場の同僚のために。落ち込んでいるときも、祈ってください。神さまが本当に良いお方なのか分からなくなるときも、祈ってください。もちろん、祈りは、「自分の願いをかなえるための手段」ではありません。魔法の呪文でもありません。祈れば、自分の望んだ通りに、すぐ物事が動くわけではありません。神さまは、私たちの願いに従って動かされるお方ではないからです。けれども、神さまの御心は、まだ神を知らない人々が、キリストを知り、救われることです。たとえ私たちには、神さまの計画をすべて理解できなくても、神さまは、ご自分を愛する者のために、すべてのことを益として働かせてくださるお方なのです。

最後に、今日の箇所をもう一度思い出したいと思います。

エゼキエルが立っていた場所は、干からびた骨でいっぱいの谷でした。人間の目で見れば、そこには希望はありません。命が戻るとは、とても思えない場所でした。けれども神さまは、その場所でエゼキエルに問いかけられました。「これらの骨は、生き返ることができるだろうか。」そして神さまは、エゼキエルに二つのことを命じられました。神のことばを語ること。そして、御霊の働きを祈ることです。すると、どうなったでしょうか。骨はつながり、体が形づくられ、そして神の息が吹き込まれたとき、彼らは生き返り、立ち上がりました。非常に大きな軍勢として。

この物語は、「エゼキエルがすごかった」という話ではありません。神さまこそが、命を与えるお方だという物語です。そしてこれは、遠い昔の話ではありません。私たちの信仰の中心にも、同じことが起こりました。イエス・キリストは十字架で死なれ、墓に葬られました。人間の目で見れば、それは終わりでした。けれども神さまは、死の中から命を生み出されました。イエス・キリストを、よみがえらせたのです。そして、その復活の命が、今も人の心に新しい命を与えています。ですから私たちは、希望を失う必要はありません。日本がどれほど難しい場所に見えても。福音に関心がないように見えても。人の心が閉ざされているように見えても。神さまは、命を与えることができるお方です。だから私たちは、神の力を信頼します。そして、神のことばを語ります。さらに、神の御霊が働いてくださるように祈ります。なぜなら、人を救うのは神さまだからです。そして、皆さんが今ここにいるのも、誰かが福音を語り、誰かが祈ってくれたからではないでしょうか。神さまは、普通の人の小さな忠実さを用いて、人の心に命を与えてくださるのです。ですから、どうか覚えていてください。神さまは、今も働いておられます。そして神さまは、私たちを用いて働かれるのです。たとえ、干からびた骨の谷のように見える場所であっても、神さまは命を生み出すことがおできになります。その希望を信じながら、神のことばを語り、そして祈り続けていきたいと思います。

鳴門キリスト教会
礼拝内容(説教)