
2026年8月23日 説教「だれを重んじますか」 “Whom Will You Honor?”
箇所 Text: サムエル記第一 I Samuel 2章22節~3章1節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア 招詞 Call to Worship:テモテ第一 I Timothy 6章15~16節 讃美歌 Hymns:66、85、162、541番 交読文 Responsive reading:21番 詩91篇(Psalm 91)
English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)
※原稿と実際の語られる説教が異なることがあります。ご理解ください。
あなたはだれを特に大切にして、生きているでしょうか。「自己中心だから私です」と言えば、そうかもしれませんが、命以上に大切にするものがあるかもしれません。絶対に喜ばせたい、気を損ねたくない、よく思われてほしい人かものはいると思います。その人かもの(評判や誇り?)を失いそうなら焦り、怒り、怯えます。それを握っている間は、一時的な安心はできます。
でも、最終的に、あなたを造られ大切に生かしておられる神様を重んじるかどうかが問われます。あなたはだれを重んじますか。今日の箇所から、この問いかけが来ます。
復習ですが、祭司エリは、一方で少年サムエル、他方ですでに礼拝のいけにえなどに関わっている青年祭司の息子たちホフニとピネハスと一緒に働いていました。①サムエルは静かに、コツコツと仕えて育っていき、母ハンナと毎年に会っただけですが、26節のとおりに「【主】にも人にもいつくしまれ、ますます成長した」のです。②もう一方で、12節以降が記録するように、ホフにとピネハスは礼拝しに来た人から、神様のために焼かれるはずの肉や脂を奪い、天幕(神殿)で仕えていた女性たちを強姦していました。17節で著者は「子弟たちの罪は、主の前で非常に大きかった。この人たちは【主】へのささげ物を侮ったのである」とまとめます。
エリ自身は、誠実に礼拝を守ろうとしていたと考えられます。1章では、サムエルを授かる前に祈っていたハンナが酔っ払っていると勘違いした際、諭しました(1章)。また2章20節でハンナの家族の方に祝福を与えました。23節以降で息子たちにも、問題を指摘してみました。まず24節で人前の評判を理由に、説得しようとします。そして25節で神様を直接蔑ろにする罪について助かりにくい、と責めました。
でも、それで終わりです。26節によると、息子たちは「…父の言うことを聞こうとしなかった。…」
本来、申命記21章18〜21節では、親に聞き従わず、頑固で反抗的な子は、親が町の長老たちに訴えて、町全体は処刑する命令がありました。今月初めに見たローマ3章25〜26節のように贖いと宥めによる赦しの道もありました。しかし、指摘すると怒られるのを恐れて、結局人が神様と敵対したままに見送ることは愛でしょうか。人を重んじるゆえにそうするかもしれませんが、本当の愛ではありません。見捨てることです。エリも、衝突を恐れて、そうしてしまいました。
さて、27節から36節まで、ある預言者、「神の人」がエリと衝突に挑みます。27〜28節は、エリの家が受けていた祝福を振り返りました。彼らは神様から特別な恵みを受けて、イスラエル全体と共に奴隷生活から救われた上に、神様の近くに、神様と人の間の仲介者として立つ祭司の職務を受けていました。
でも、29節で訴えられます。礼拝はここで繰り返される主の、「わたしの」ものです。人が罪を犯すと、地位や理解があればあるほど、それは重い、影響の大きな罪です。※⑴ 礼拝の意味を知って、経験できた祭司たちは、礼拝の手段を「足蹴」にしていたのです。息子たちだけでなく、エリも、です。
29節の真ん中は特に厳しいです。「あなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて…」と言われます。私たちは自分の生き方、お金の使い方、時間の使い方、人間関係の持ち方で、だれを、何を重んじるのでしょうか。
最後に、「最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。」エリの息子たちだけは礼拝の乱用で得していませんでした。少しだけ責めて、また黙認したエリも脂肪分の多い、神様より受けていなかった肉を嗜めていました。息子たちと一緒に、罪の美味しいところを取っていました。
30節では、神様が下さっていた祭司職の特権は条件付きでした。エリはその特権を失います。そして主は宣言されます。「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。」私たちは何を、だれを重んじるか、また問われます。
31〜33節でエリは「あなたの父の家」(31節)あるいは自分の「家」(33節)が衰え、滅びにあうと言われます。日本でも「家」は重要です。先祖代々の家のお墓でも、家の継続のための婿入りなどの制度でも、同じ願いは現れます。エリは、29節にあるような特権を受けた家の継続を望んでいたはずです。しかし、長生きする「年長者」のいない「家」になり(32・33節)、早死にするということです。エリとその息子のせいで、その「家」の者は惨めになるということです。
34節でさらに身近に、あの息子たち「ホフニとピネハス」は、「二人とも同じ日に死ぬ」と宣言されます。大事にしていた二人は、自分の罪のために奪われます(4章に成就あり)。エリは、重んじて息子たちを守ろうと思って、罪を黙認した結果、彼らの死を別の形で来してしまいました。重んじたそのものを失いました。
皮肉なことに、35節で預言者は神様から、望みの兆しも届けます。エリの「家」と異なる、「確かな家」が興されます。しかも、ハンナが10節で祈ったように、まだ現れていない、神様の選びの王「油注がれた者」は再び約束されます。36節で、エリの残りわずかの子孫は、何かで雇ってもらえるように懇願する、下の立場に下ろされる、と預言は終わりました。
3章1節は2章の11、18節と同じように、少年サムエルがエリ一家の悪い模範に囲まれても守られていたことを述べます。「さて、少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。…」
聖書が一貫して教えることは、神様が造られた様々な良いものはあり、家族も大事ですが、最高に、遥かに超えて素晴らしいのは神様ご自身だということです。そして他の物をより大切にし重んじるのは、悲惨を招くことです。
イエス・キリストは預言されていた、究極の王です。そのイエス様はご自分をも惜しまずに、他のものを重んじてしまう反抗的な人をも新たにして、自己犠牲的に、そして幸せに生きるために、神様を重んじてくださいました。ヨハネの福音書12章24〜26節(新p209)「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」
イエス様は、私たちが自分のことも、家族でも、また自分の誇りと名声に対して死ぬことがどれほど難しいとご存知でしたが、実際に父なる神を重んじて、教会を愛して、死んでくださいました。私たちが重んじるものをより神様を選ぶためには、聖霊様の奇跡的な働きが与えられています。それで、キリストの愛を信じ、受け入れ、神様を最高に重んじることができます。
説教について
振り返り:あなたが重んじるものよりも神様を重んじるために、キリストの愛を信じ、受け入れますか。
参照箇所:ルカ14:25-27・16:13、ヨハネ12:24-26
注 ※⑴ ウェストミンスター大教理問答問い150〜151。日本基督改革派教会大会出版委員会編(榊原康夫訳)版はhttps://rcj-net.org/library/1064/で参照できます。