2026年6月28日 説教「王がなく…」 “There Was no King . . .” 

箇所 Text: 士師記 Judges 21章25節    聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア  讃美歌/Hymns: 67、162、250、540 番  招詞/Call to Worship: 詩篇 Psalm 47篇6~8節 交読文/Line-by-line responsive reading  9番 詩29篇(Psalm 29)

English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing) 

※原稿と実際の語られる説教が異なることがあります。ご理解ください。

 毎日、私たちは多くのことを決めます。何を食べるか、何を言うか、何を見るか、何に耳を傾けるか、何を学ぼうとするか、誰を喜ばそうとするかなど…私たちは基本的に自由です!でも自由であるなら、何を選んだら良いか言われないことが多いです。

 自分が良いと思うことを決めるとき、それは結局自分を本当に幸せにするかは、

 そして、ヘブライ語の聖書ではルツ記は後に入っているので、来月からじっくりと見ていこうとしているサムエル記の直前の背景は、士師記のこの一言です。

一、申命記と王の予告(申命記17章14〜20節)

1 申命記は第二列王記までの歴史の書の前提・根底です。

2 申命記17章には、別の人の到来が予告されました。王です。17章14節(新p346)以降、主なる神様は王を立たせる日が来れば、それはイスラエル人であること(15節)、また自分のために妻や富や武力を余分に集めてそれらを頼りにしないようにと命じられました(16〜17節)。

3 さらに、モーセの律法の教えを書き写し、読み返し、忠実に神様に仕える中で、謙ってイスラエルの民を治める必要はあると書かれていました(18〜20節)。

二、さばきつかさたちの失敗(士師記2〜21章)

1 1 ヨシュア記の終わりは、一つは、イスラエルの民が何度も何度も、自分を助けてくださった創造主なる神様(ヤハウェ)を見捨てるという予告でした。士師記の2章から16章まではその事実の記録です。

2 2章17〜19節(旧p428)「彼らの先祖が主の命令に聞き従って歩んだ道から早くも外れて、先祖たちのようには行わなかった。主が彼らのためにさばきつかさを起こしたとき、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさが生きている間、彼らを敵の手から救われた。これは、圧迫し、虐げる者を前にして彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らは元に戻って先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝んだ。彼らはその行いや、頑なな生き方から離れなかった。」繰り返し。

3 神様に背き反抗する→主が怒られ、懲らしめるために、敵が勝ち奢るようになさる→イスラエルは悩む(時には助けを求める)→主が憐れまれ、一時的な助けとしてさばきつかさを送られる→さばきつかさが居なくなると、民はまた背く、と繰り返しました。

4 でも、さばきつかさは王にはなれませんでした(9章に失敗した試みはあったが)。一時的な、とても限定された影響を国民に及ぼせました。

5 17〜21章は繰り返しのサイクルと別の観点から、民の堕落を二つのエピソードで示します。

  • 1. 17〜18章は、神様から受けた「割り当て」の土地に不満を覚えて、移動するダン部族の話です。しかも彼らは主の礼拝に従事するはずのレビ人を、偶像の祭司として雇いました。
  • 2. 19〜21章は、イスラエルのベンヤミン部族がおぞましい罪を犯した仲間をかばって、他の部族と戦争して、ついに滅びかける話です。他の部族は彼らの女性を皆殺しにしてしまい、残った男性に妻を与えるために屁理屈な策略を立てる羽目になります。本当に憂鬱な話です。
  • 3. イスラエルははっきりと申命記で命じられた歩みから離れ、ヨシュアによって与えられた割り当ての地を離れ、むしろ先住民の悪の道をまっしぐらに進んでしまった、という二つの話です。

三、王もいなく、神様を無視する民でした。(21章25節)

1 さて、締めです。21章25節前半「そのころ、イスラエルには王がなく…」著者による反省です。王がいなくて、民を正しく治める人はいませんでした。

2 その結果、25節後半があります。すなわち、イスラエルの民は一般的に「自分の目に良いと見えることを行なっていた」、自分勝手に生きていました。ヨシュアの目を気にして、民はかつて主を慕い、仕えると宣言しました(ヨシュア記24章)。しかし、それは建前でした。

3 覚えておきたい事ですが、人間の思いが優先されることは、神様の思いを蔑ろにすることと表裏一体です。士師記にイスラエルが「【主】の目に悪を行った」と8回も書かれています。※⑴ 

4 感謝なことに、ルツ記に出るボアズなどのような例外もいました。(ルツ記はヘブル語聖書では後に入っていて、士師記の直後にはサムエル記がありますが、ルツ記の時代背景は「さばきつかさが治めていたころ」でした。1章1節)

5 しかし、全体として、正しい王がいない中、民は自分を治める人は必要とまだ思わず、自分勝手に生きていました。サムエル記にようやく、王を全国が求めるようになる時、いよいよ、良い王によって国は栄えるだろうか、という期待感に繋がった、残念な背景でした。

四、古代イスラエルのように、私たちにも王が必要です。

1 さて、現代の民主主義国家に住む私たちからすれば、かけ離れた、おかしい世の中に聞こえますか?私たちの日々の問題とよく似ています。

2 人は完全独立していません。必然的に、神様か、神様に背く罪のいずれかに仕えています。(ヨハネ8章33〜34節、ローマ6章15〜22節)。質問①あなたはだれ、何を王として服従して、慕っていますか。人の目、名声や誇り、お金ですか。それはあなたを支配しています。

3 関係する質問ですが、②あなたの目に良いことを優先させていますか。

  • 1. 現代多くの社会では、一人ひとりの価値があまりにも評価されて、創り主の主権を否定して、あなたの目に良いことをやりなさい、思いなさい、と言われています。あるいは「世間様の目」も同じように、優先されやすいです。家庭についても、政治についても、時間の使い方についても、何でも、あなたの目が良いと見るなら、それは良いとされます。
  • 2. しかし、真の神様の思いは無視され、笑われます。あなたの心の中では、だれの目は優先されていますか。

4 答えるために、聖書から、神様の目にどう映るかを知る必要があります。神様の道徳律法の教えは、厳しいと同時に、人間が本当に幸いな歩みをするために与えられた愛の導きです。

5 さらに、これを守らないで自分の目の見方を優先させてしまう、諸々の「罪」の全てを主が見ておられます。その目に隠された者がありません。

6 だからハレルヤ!感謝なことに、主の目に悪であることを、自分の目に良いと思って選んでしまった罪の赦しがあるのは、聖書の不思議な福音です。私たちがさばきつかさの時代に生きた人々のように、神様に憐れみを求めることができます。イエス様にあなたの罪が背負わされた瞬間、十字架の上で神様はそれに目をつけて、裁かれました。悔い改めて、赦しを求めるなら、それはあなたのものです。神様の歓迎があなたのものとなります。真の王なる主の目に、あなたも「高価で尊い」です(イザヤ43章4節)。

7 しかも、心の内側から変えていただけます。心から変えられることにより、自分の目に良いことが神様の目に良いことに似てきます。※⑵ イエス様の目には、悪を行う人をその受けるべき処罰から救い出すことが良かったのは、「驚くばかりの恵み」(聖歌229番)の他なりません。期待に値する私たちの王がおられるから、服従することが喜ばしいです。イエス様を聖書でもっと知ろうと、読んでみてください。分かち合ってください。そして、喜んで服従していきましょう。

説教について

振り返り:神様の目に良いことを行えるように、イエスを自分の王として信頼して、従おうと決心していますか。

参照箇所:申命記17:14-20、士師記2:1-23、ヨハネ8:33-34、ローマ6:15-22 

注 ※⑴ 2章11節、3章7・12節、4章1節、6章1節、10章6節、13章1節。エフデ、バラク、ギデオン、サムソンなど顕著なさばきつかさが登場する前に民がまず主に背いた、おもな節目によく出てきます。対して、人間の「自分の目に良いと見えること」はここと17章6節にあります。

※⑵ ウェストミンスター小教理問答の第26問のまとめが言うように、イエス様は「わたしたちをご自分に従わせること、わたしたちを治め、守ること、また、かれとわたしたちのすべての敵を抑え、征服することによって王の職務を遂行されます」。

鳴門キリスト教会
礼拝内容(説教)