
2026年3月22日 説教「本当に神の子」 “Truly the Son of God”
箇所 Text:アモス8章9~10節(旧p1570)、マルコ15章33〜41節(新p103)(新p102)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:89、39(1-3)、121、539番 招詞/Call to Worship:詩篇 Psalm 22篇23~24節 交読文/Line-by-line responsive reading 39番 イザヤ書53章(Isaiah 53)
English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)
箇所 Text:アモス8章9~10節(旧p1570)、マルコ15章33〜41節(新p103)(新p102)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:89、39(1-3)、121、539番 招詞/Call to Worship:詩篇 Psalm 22篇23~24節 交読文/Line-by-line responsive reading 39番 イザヤ書53章(Isaiah 53)
イエス様はだれか?イエスを数節前で「ユダヤ人の王」という名を使って馬鹿にしていた人々からシーンが変わって、違う告白を聞きます。自然界も人々も、イエス様御自身も、十字架の周りで証しをしました。
33節「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。」日食など、何らかの自然現象だったかと議論して、特定できたとしても余り意味はないと思います。これは神様が特別に、罪を犯し続ける人を裁く日の印としてすでに預言されていました。※⑴
旧約聖書アモス書8章9~10節、互いに傷つけあう罪びとに対して、神様が予告されました。「…わたしは真昼に太陽を沈ませ、 白昼に地を暗くする。 あなたがたの祭りを喪に変え、 あなたがたの歌をすべて哀歌に変える。…」人々は不気味な闇の中、してきたことが天地の創造主なる神の怒りを招いたと感じ取るはずでしたが、悔い改めた人は過ぎ越しの祭りで神の昔の贖いを祝うこととイエスを嘲ることに夢中でした。
34節 しかし、最高の不思議です!神の怒りを受けたのは、周りの人でなく、イエス様御自身でした。暗闇が薄れる頃の午後3時に「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という、何よりも深い嘆きを叫ばれました。これは詩篇22篇1節の引用です。詩篇22篇は、見捨てられたと感じつつも、嘆き叫び続けて、最終的に助けられた王の歌です。イエス様も、最大の苦しみを通りつつも、救いを期待して祈り続けていました。
イエス様は完全に義なる方なのに、不義な人のように神の裁きを受けられました。人の敵対と不従順という罪の罪責を転嫁されて背負いました。主イエスの叫びは、神様と持っておられた親しい愛を、最高に苦しい敵対と裁きが一時的に覆ってしまっていたときでした。
- 愛する人と争ったりすると、仲直りできるまでの痛みやモヤモヤとした気分はありますね。自分のせいで怒っている人がいれば、できるだけ早くに仲直りしなさいとイエス様は教えられました(マタイ5章23~25節)。「このように傷付いたよ、理不尽だよ」など、相手の怒りを受け止めた上で、赦しを求めるでしょう。
- でもイエス様は自分のためでなく、罪ある人のために、私たちに代わって、和解・仲直りをするために、神の怒りを受け止められました。昔の戦場で盾や鎧が矢と刀に打たれて、その裏の人を守ったように、イエス様はその身体、そして心に、打たれて、罪びとを守ってくださいました。
36節に、誰かが<海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした>とあります。なぜなら、35節のように、傍観者はイエスが預言者エリヤ求めていると誤解しました。彼らはただ見てみようとして、イエスを特に信じてはませんでした。
37節「イエスは大声をあげて、息を引き取られた。」十字架刑では弱くなり、窒息するのが普通でしたが、イエスは力をもって、自ら死なれたと言えます(ヨハネ10章17~18節)。
38節「すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」神殿の建物には、二つのの分厚いカーテン(幕)がありました。祭司は前方あるいは両方の幕を開けて、内に入り、礼拝の儀式を行って、主なる神が民を裁かないために執り成しを行いました。この日、幕のどれかは「上から下まで」破られました。
その意味合いに二つの大きな可能性があり、二つともだったと思います。①まず、一方で幕の破れは神の裁きが降って、神殿から離れることを示しました(エゼキエル10~11章参照)。神殿はもう、無用でした。なぜなら、②もう一方で幕の破れはイエス・キリストを通して、神殿の外にいる人でも神様に近づけるのです。イエス様は一時的な滅びを通して、完全な道となってくださいました。
39節「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」ローマの兵士を率いてイエスの処刑に当たっていた百人隊長は暗闇を目撃して、イエスの幾つかの発言を聞いたでしょう。そして力強く最後の息を吐いたことをも見て、感心しました。イエスを創造主なる真の神また救い主と認めたかは分かりませんが、その発言は大正解でした。
40~41節はマルコ書の最後の登場人物の紹介です。ペテロのように逃げ出した12人以外の、女性の弟子はいました。「イエスに従って仕えていた人たちであった。」イエスに愛されて、愛をもって応答しました。絶望の淵に沈んでも、イエスを見届けていました。
さて、今日の箇所をまとめると、色々な「声」はイエスについて証ししました。軽んじながら酸いぶどう酒を差し出した人の声もあったが、特に言葉を発しなかった①空の闇(33節)、②神殿で裂かれた幕(38節)、③女性弟子たちの見送り(40~41節)はあの日の恐ろしさとあの方の価値を物語りました。神の裁きがこの「終わりの日」に下りました。
そしてもう二つの証し、言葉を発せられた「声」はイエス様の正体と使命を表しました。
①百人隊長は、イエスを「本当に神の子であった」と認めました。
②そしてイエス様は神の子として、御自身が何をなさっているかを間接的に教えました。父なる神様に見捨てられ、裁かれました。しかも「父よ」でなく「わが神、わが神」と、イエス様は子なる神であっても、人間として、罪びとの代わりに、叫ばれたのです。人間に寄り添って、罪びとを代表して十字架で命を自らささげてくださいました。
だれでも、イエス様について歪んだ見方を持つときはあります。自分を顧みない、遠い神として見がち、あるいは弱いほどに親しみやすい友だちとして見がちかもしれません。イエス・キリストは「いつくしみ深き友なるイエス」でもあり、「活ける神」なのです。
今も、活ける神です。受難の話はマルコ15章で終わりません。イエスの復活をも私たちは、信じる必要があります。そうならば、本当に希望があります。イエス様は十字架で愛を示しただけでなく、復活で愛を届けられました。イエス・キリストに信頼を置いて、神様に罪の赦しを求めて立ち返る人はだれでも、罪を犯したことについて見捨てられないで、少しも神ののろいと裁きを受けないで、寧ろ平和を持ちます。
ローマ人への手紙5章9~10節(新p304)…キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
私たちは神様に見捨てられることがないように、イエス様は罪ある人に代わって、和解・仲直りをするために、見捨てられました。神の裁きの怒りを受け止め、償う盾となられました。自然はもがき、神の家の幕は破れ、異邦人は告白しました。「この方は本当に神の子であった。」だから、人間として死なれたイエスに信頼して、神様に「私をお見捨てになって当然ですが、イエス様は本当に私のためにも死を通りいのちを再び持つ、神の子です。私を赦して、受け入れてください」と祈ることはできます。キリストを信じて神様に平和を持つ者は、苦しみの中でも、神に見捨てられていないと知ることができます。それほど、イエス様は赦しを差し伸べられる方、本当に神の子であられます。信頼しますか?
説教について
振り返り:イエス・キリストゆえ、あなたが神に見捨てられないと信じて、今週どのように祈られますか。
参照箇所:詩篇22:1、ヨハネ10:17-18、第二コリント5:21
注 ※⑴ 日中の闇、エリヤを呼ぶことの意味、イエスの最後の叫びに関するコメントは、James A. Brooks, Mark, New American Commentary 23 (Broadman, 1991) 260, 261, 262, Accordance version 1.6より。