
2026年3月15日 説教「ユダヤ人の王に対する罪」 “Sins Against the King of the Jews”
箇所 Text:詩篇22篇6~8節(旧p950)、マルコの福音書15章16~32節(新p102)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:322、261、260B、544番 招詞/Call to Worship:マタイMatthew 11章28節 交読文/Line-by-line responsive reading 7番 詩24篇(交読p5)
English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)
時々、王様や有能な人が変装して、貧しくて弱い姿を取って、国の人の態度を確かめる昔話や逸話を聞きます。よく、多くの人はその人を見た目で判断して、見下して、後から驚かされ、恥をかきます。そして、見た目が悪い中でも良い態度を示した人が褒められます。
今日の話は、本当の話です。創造主なる神という最高の王も「変装」して、自分の正体をことばで明かしても、見下され処刑される話の一部です。登場人物の皆は失格でした。「ユダヤ人の王」を嘘かのように呼んで、けなしました。イエスを蔑み、恥にさらし、傷付けました。イエスの証言に反して、自己中心に罪を犯しました。でも、イエス様は不思議な王です。喜びに満ちた目標があって、そのまま弱さを帯びた姿と持ち続けました。
15~16節【ピラトと兵士】ユダヤ地方の知事・総督、ポンテオ・ピラトはローマ帝国の権限をもって、「…イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した」と15節は言います。
16節 ローマ兵はむち打ちに続いて、「総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。」多分数百の兵士部隊が集まりました。※⑴ ユダヤ人の王を公で馬鹿にするために、でした。
17~19節【兵士の皮肉な蔑み】「イエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ」ました。血まみれの背中に豪華そうな、王が着るような色の布、そして冠として棘々の冠。「ユダヤ人の王様」と叫び、皮肉っぽく挨拶します(18節)。
19節 さらに痛めつけるために「葦の棒でイエスの頭をたたき、唾をかけ、ひざまずいて拝んだ。」王に尊敬を払う際の敬礼や服装の偽物で馬鹿にしました。でも、目の前にユダヤ人の王がいました。詩篇22篇6節「人のそしりの的」、7節「私を見る者はみな 私を嘲ります」のとおり、イエス辱められました。
- あなたが一番恥ずかしいと感じた瞬間を思い出してください。自分か他の人に悪く思われ、扱われたときだったかと思います。イエス様はもっと大きい恥を私たちのために被ってくださった、ということを受け入れられますか。受け入れられるなら、神様の前でも、クリスチャン同士でも、また家族や知り合いの前でも、恥をかく恐れは殆ど消えるでしょう。
20~21節【シモンが背負った十字架】20節でやっと、兵士は横柄にもてあそんだイエスの肩から布を脱ぎ取り、元の服を着せて、「イエスを十字架につけるために連れ出した」。十字架で処刑される者は大抵、その十字架か一部である横の梁を、処刑場まで運ばされました。
21節 イエスは地方から来た大工、長旅に慣れていました。頑丈な男でした。でも徹夜させられ、むちで傷つけられた上に何十キログラムもする梁を運べなくなったでしょう。「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。」
シモンは「田舎から来ていた」巡礼者でした。アフリカ北部のクレネ地方からエルサレムまで長旅をしたのは、過ぎ越しの祭りで子羊の血を流して、罪が取り除かれた古代の出来事を記念するためでした。予期しない行列に遭って、傍観していたところで、王イエスに仕えさせられました。イエスの血で染まっていた処刑の梁を、代わりに担ぎました。その息子がマルコの聞き手に知られていたようで、名が書かれています。※⑵ シモン自身も、後でイエスは自分の罪を代わりに背負い、取り除く「神の子羊」だと信じたかもしれません…。
- 私たちはシモンのように、イエスの話をただ聞く傍観者だけでは足りません。クリスチャンとして仕える人だけでもありえません。王なるイエス様が代わりに苦しんで、生かしてくださった人であると信じていますか?
22~26節【兵士による処刑】兵士たちはイエスを、「どくろの所」と言う処刑場まで連れました。
23節「彼ら」はユダヤ人かもしれませんが、「没薬を混ぜたぶどう酒を与えようとした」。いちおう親切に、痛み止めでした。でも、「イエスはお受けにならなかった。」イエス様は人のために苦しむ預言を成就するつもりで、痛みから逃れようとはされませんした。
- イエス様は私たちの痛みからも、目を逸らさないでおられます。
24節でローマ兵は「イエスを十字架につけた」のです。十字架刑はゆっくりと窒息で死なせるのがポイントで、出血は二次的なものでした。そして裸の姿で恥をもって終わりを迎えさせる処刑でした。イエスの衣服を兵士たちは奪い、好き勝手にしました。
26節 ピラトが指定した罪状書きはまた、「ユダヤ人の王」と記されてありました。正確な記載でしたが、そこにいた人はそれが嘘だ、皮肉だと思っていました。
27~32節【ユダヤ人の皮肉な蔑み】マルコは兵士から、ユダヤ人たち、イエスの民に焦点を移します。彼らのほとんどは、拒絶するために近寄りました。詩篇22篇6~7節のダビデの経験はさらに、預言として成就されました。「…民の蔑みの的です。私を見る者はみな 私を嘲ります。 口をとがらせ 頭を振ります。」
29~30節 近寄った人は「おい、神殿を壊して三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ」と「頭を振りながらイエスをののしって言った」のです。前夜の偽りの証言と同じ噂でした。
31~32節 さらに、指導者たちは「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう」と嘲りました。イスラエルの王ではあり得ないと挑発して、イエスを排除できたと勝ち誇りました。敗北者として見下しながら、上を向いていました。
32節後半 前回のバラバのような犯罪人の、二人の男性も右と左側の十字架にからイエスをののしりました。ユダヤ人の上級の指導者から死にゆく犯罪人まで、イエスを否定しました。こうう暗い話で、王なるイエスに各国の人は自己中心を選び、罪を犯しました。私たちなら、同じことをしたかもしれません。人類史上最悪の日だった、と言えます。
【私たちの王】しかし、それは良い日でもありました。きよさを守るために罪を罰し、恵みを表すように、身代わりとして恥と苦しみとを受けられました!自己中心な人を変えて、新しい歩みをさせて、喜びを得るためでした。
小さな子のヨチヨチ歩きを見たことがあるかと思います。足元を見てしばらく進むかもしれませんが、愛する人を見上げながらその人へ向かって歩き出すと、笑顔でどんどん上手になります。クリスチャンの歩みもそうです。ヘブル人への手紙に、人生の競走というたとえの中で次の励ましがあります。12章2節(新p454)「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」
イエスは恥と苦しみをも気にしないで、喜びを求めて進まれました。かつて自分を認めなかった、頑固で不敬な人を民として迎える喜びのために、そうしてくださいました。感謝して驚き、「イエスから、目を離さないで」歩みましょう。
クリスチャンの歩みは小さなステップから始まります。でも、一つ一つの日常会話、作業、悩みに取り組む際、祈れば、ドンドン成長できるでしょう。「天のお父様、嘘をつかなかったら怒られ、恥をかくのではないかと恐れます。今まで、罪で隠れようとしました。でも、イエス様は私を囲んで包んで、私が受けるべきだった恥など、罪の罰を背負い、きよめてくださったと信じます。喜んで、正直に話せるように助けてください。聖霊様が心を強めてくださいますように」などなど、祈ることができます。どの状況でもイエス様を見上げる歩みが可能です。弱さで変装された全世界の王の本当の栄光はきよさと恵みの両方です。それをを表して、主イエスを喜ぶことができる私たちは本当に幸いです。
説教について
振り返り:きよさと恵みを示された「イエスから、目を離さないで」(ヘブル12:2)日常の歩みについて祈っていますか。
参照箇所:詩篇22:1-19、マルコ10:42-45、ヘブル12:1-3
注
※⑴ James A. Brooks, Mark, New American Commentary 23 (Broadman, 1991) 254; Accordance version 1.6.
※⑵ 他の福音書でもシモンは出ますが、マルコだけはシモンを「アレクサンドロとルフォスの父」として紹介します。(「ルフォス」という人はローマ書16章で、パウロの友として出てきます。)