2026年2月15日 説教「裏切られ、見捨てられた王」 “The Betrayed and Forsaken King”

箇所 Text:詩篇 Psalm 55篇12~14節、マルコ Mark 14章43~54節   聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

説教者:百瀬ジョザイア  讃美歌/Hymns:5、121、312、544番 招詞/Call to Worship:詩篇 Psalm 150篇1~2節 交読文/Line-by-line responsive reading 41番 マタイ伝5章 (Beatitudes, Matthew 5)

English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)

 裏切り者または臆病で友を見捨てるような人にはなりたくないはずです。でも人として、私たちは欲あるいは恐れに捕らわれて、他の人を犠牲にして生き延びようとすることがあるかもしれません。噂話で、嘘で、沈黙で誰かを仲間外れにするときもそうかもしれません。そしてそうされたことも在るかもしれません。

 でも今日の話では、先生なる、王なるイエス・キリストは周りの人に裏切られ見捨てられても、自分のためでなく神様のご計画の成就のために歩まれました。

【裏切る者、見捨てる者】

  • イエス様は前の話で、神様が罪びとに向けられる怒りの「杯」を身代わりとして飲み干し、神様の御計画が進むと決心していました。その計画とは、ご自分に信頼を置いて神様に立ち返り和解を求める者に、赦しと和解を下さるというものでした。でも、その祈りの直後から、普通の人なら挫折させるような経験をなさいます。
    • すでに37、40、41節で最も親しいはずの弟子三人が自分のために目を覚まして祈ることさえしないと見ておられました。
  • 43節に、裏切り者が来ます。「そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。」間もなく、裏切り者が到着します。
  • 44節「イエスを裏切ろうとしていた者」とはユダです。彼はすでに、当時なら敬愛を示す普通の礼儀だった口づけをもって、イエスを指すと決め合っていました。
    • ユダは連れて来た連中の誰よりもイエスの力を知っていたはずです。イエス様が他の人を助ける奇跡をできるなら、窮地でどんな力を発揮するか分かりません。「しっかりと引いて行くのだ」と注意を掛けました。
  • 45~46節「ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、『先生』〈ラビ〉と言って口づけした。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。」ここまでは、計画どおりです。
  • 47節でイエスを守るつもりでいる弟子(他の書簡でそれがペテロだったと分かる)が、暴力的に反応します。「そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。」殺意なく耳を狙ったより、パニックで下手に剣を振ったのかもしれません。
  • でも50に進むと、彼を含め、「皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった」と一言。
  • 51~52節はマルコの福音書特有の情報です。誰か…この福音書を書いたマルコ自身だったかもしれないと推測されますが、はっきり言えません。最初の人間アダムが神様に背いてしまった結果、裸を恥じ入って園で隠れたアダムのように、哀れで見っともない姿でした。「…人々が彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。
    • 弟子たちが主イエスを見捨ててまで、自分の命を守るために散り散りになった、恥の出来事でした。
  • 53~54節で、一人だけ、大言壮語で忠誠を主張したペテロが、心細くイエスの後を追って、夜中番をしようとする話です。「ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った」その気持ちは知れませんが、イエスを剣で守れなかった悔しさと恐れを抱いたでしょう。成り行きは14章の終わりの方で記録されています。

【王なるイエス様】

  • しかし、この箇所は裏切りと見捨てだけの話ではありません。マルコは多くの箇所で、ある出来事の流れの最中に、別の観点か要素を挟んで、それぞれの部分を際立たせる文章法を用います。ここもそういう「サンドイッチ文書」構成です。
    • 43~47節はイエスの敵とイエスの裏切り者、50~52節(54節)はイエスの敵とイエスを見捨てた者。
    • 真ん中に、王なるイエス様は48と49節でそれらに対して宣言なさいます。イエス様以外の人を見たので、最後に、真ん中に挟まれた、イエス様のお言葉を確認しましょう。
  • マタイとルカと違って、マルコはイエス様がペテロの暴力に何を言ったかを記録しません。イエスを逮捕に来た人々に対することばが中心です。
    • 48後半~49節前半「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。」ユダが恐れたように、イエス様の権威は驚異的でした。その敵は聞く群衆が見ているところで捕らえるのた怖かったです(14章2節参照)。正当な理由なく捕らえようとするので、夜の暗闇を使って来ました。かろうじて、裏切りのユダの助けで奮い立って、逮捕しました。
  • 49節最後「…しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」でもこれもユダと連中のできたことではなく、神が聖書で予め示してこられたことの成就でした。
    • イエス様は裏切られ、見捨てられ、詩篇55篇の成就を経験されました。(12~13節、旧p988)「まことに 私をそしっているのは敵ではない。 それなら私は忍ぶことができる。 私に向かって高ぶっているのは 私を憎む者ではない。 それなら私は身を隠すことができる。 それは おまえ。 私の同輩 私の友 私の親友のおまえなのだ。
    • 聖書の成就の一つとして、イエス様は「親友」と言える弟子たちに裏切られ、見捨てられました。聖書が成就するために、イエスはユダの不安に反して、落ち着いてご自分を敵の手に任せました。聖書が成就するために、十字架へまた一歩一歩を、捕らえられた王として歩かれました。
      • 聖書の預言どおりに十字架で神にも見捨てられて、罪の刑罰を受けるためでした。父なる神様が求められる完全な従順、義の求めに応じるためでした。そうして、ご自分を見捨てる弟子たちのような罪びとを天の慰めへ迎えるという約束の成就でした。

【イエス様が裏切られ見捨てられたことの結果】

  • でも主イエスは、「世の友われらを 棄て去るときも」助ける、「慈しみ深き友なるイエス」(讃美歌312番)です。弟子たちが恥の内に逃げ去っても、聖書どおりに救うおつもりでした。何と言う王でしょうか!世の指導者は自分を裏切るものを容赦なく切り捨てるでしょう。イエス様は人の反抗の罪の裁きはあると言いますが、ご自分を通して神様の赦しを求める者は見捨てられない保証を十字架で得てくださいました。
  • あなたは裏切られた、見捨てられたことがあるだろうし、誰かの信頼を裏切って、いじめや仲間外れされることを黙認(加担)してしまったこともあるかもしれません。罪を犯され、罪を犯した者です。癒しが必要、また赦しが必要かもしれません。
    • イエス様は見捨てられましたが、それは人を見捨てないゆえでした。神に従うためでした。イエス様は罪びとを敵から友へと変え、見捨てないで救うためでした。
      • 詩篇94篇14節「まことには ご自分の民を見放さず  ご自分のゆずりの民を お見捨てになりません。
    • 王なるイエス様の犠牲を無駄にしないで、そこにある赦しと癒しを受けてください。
      • 罪を告白して神様に赦しを求めてください。
      • 痛めつけられたことについて、ご存知のイエス様に委ねてください。

説教について

振り返り:人に見捨てられ、あるいは人を見捨てた時に対して、イエス・キリストの癒しあるいは赦しを受けていますか。

参考箇所:詩篇94:14、イザヤ50:4-6・53:3-6、ヘブル13:5-6。

鳴門キリスト教会
礼拝内容(説教)