
2026年2月8日 説教「イエス様の『杯』」 “Jesus’ Cup”
箇所 Text:イザヤ Isaiah 51章22節、マルコの福音書 Mark 14章32~42節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:56、261、89、542番 招詞/Call to Worship:詩篇 Psalm 116篇12~13節 交読文/Line-by-line responsive reading 31番 詩130篇 (Psalm 130)
English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)
先週、弟子たちの弱さを見ました。彼らはイエス様にどこまでも付いて行くと言い張ってから、まず小さな形でイエスを蔑ろにする誘惑に負けて、寝てしまいました。でもイエスの姿もこの箇所では、強くないようなものです。嵐を沈め、人から悪霊を追い出し、病人を癒し、大勢の宗教指導者の敵意に憚らずに語られたイエス様がなぜ、ここで弱いのでしょうか。
イエス様の言葉を借りると、受けるように計画されていた「杯」が余りにも恐ろしかったからです。この大事な、しかし一見分かりにくい表現を見て、イエス様の心の豊かさを見たいと思います。(先週見た関係で飛ばすところもあります。)
【イエス様の苦しみ悶え】
- 32節後半イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」 弟子たちのために祈り続けてこられたイエスは今度、座って待つように願います。
- しかし、33節・34節で特に親しかった「ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。…」とあります。独りでいたくない、信頼できる人を近くに置こうとして、ゲツセマネの園でさらに進まれました。
- それまで、創造主なる神、父なる神との無限の交わりがあったのに、今は、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい」と願い出るほどに寂しく孤独に感じました。
- 35節は、後に来る「杯」の意味を分かるヒントを与えます。「イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。」「この杯」は「この時」と平行です。父なる神様に、これから起こるように定められていた出来事をどうしても避けたいと祈る訳です。今日の箇所の最も大切と言える36節はその具体的な祈りを教えます。
- 36節前半「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。…」
- 神様を親しく、アバ(パパ)と呼ばわりました。父なる神は何でもおできになるので、いちおう、永遠のご計画を変えることもできるでしょう、と主イエスが言われました。
- 「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」旧約聖書を見渡すと、杯は単純にコップとしてだけでなく、人に良い事か悪い事を届ける容器として、比喩的によく用いられました。特に、酒のように人を酔わせ、打ちのめす悪い事の象徴でした。より具体的に言うと、神様に反抗する人々を罰するさばきの「杯」は登場します。例えばエルサレムという都は、「あなたは主の手から憤りの杯を飲み、 よろめかす大杯を飲み干した」と言われました(イザヤ51章17節)。
- イエス様はゲツセマネの園で、その翌日に自分が十字架にかけられるとご存知でした。それは身体的な痛みだけの処刑ではありませんでした。永遠で無限の愛で愛する父なる神様から、数えきれないほど多くの人の分のさばきとのろいを身代わりとして受けられのです。
- その杯の中身は私たち罪びとの罪の味と臭みです。私たちは神様を拒んで、背いて、罪を犯す際、その楽しさと甘さを求めます。でも、飲み込むと苦いだけです。恥と虚しさと後悔の後味です。しかし私たちの霊的感覚が鈍い分、罪の臭みに気が付きません。潔癖、完全で聖なるイエス様はその恐ろしさをだれよりも深く知っておられました。その裁きは、永遠の完全な交わりと愛の内に存在してこられた、父なる神との関係に敵意が注がれ、一時的に見捨てられ、怒りを向けられるという「地獄」です。イエス様は、それを受けるように定められていました。
- イエス様のように不正に、惨く殺された人は何人もいます。でもイエス様だけは神からの刑罰を何千万、何億人分も身代わりとして受けられました。人なる神イエス様でなければ、それに耐えられませんでした。イエス様さえ、避けたいと願いました!
【イエス様の決意】
- ところが、祈りの結論は、父なる神への服従の決意でした。36節後半「…しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」神様の裁きを受ける計画が変わらなければ、それを受けます!
- 37、38節は先週確認したように、イエス様が弟子たちを諭す場面です。38節でイエス様は「霊は燃えていても肉は弱いのです」と認めますが、ご自分の疲れ、悲しみ、恐れに負けないで、39節と41節で再度、再三の祈りをささげて、弟子たちを起こしました(マタイ26章44節参照)。
- 41、42節でイエス様は最後に、別のことを語られます。
- 41節後半「もう十分です。時が来ました。」永遠の昔から計画されていたことが起ころうとしている、と仰せになります。「見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。」人の子、つまりイエス様は、裏切り者ユダが到着することを予告されます。
- 42節「立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」イエス様は神の計画をご存知だけでなく、その始まりである裏切り、そしてそれに続く「杯」を受け入れてくださいました。
【イエス様の決意の結果】
- イエス・キリスト恐ろしい「杯」の中身を見つめて、なおも服従したは、神様をどんなに深く愛されているか。そして、人をどんなに深く愛されていることか…。でもゲツセマネの園で悩み、もがいたイエス様の決心は私たちにどういう影響を及ぼされるのでしょうか。私たちがこれを信じて、応答するとどうなるでしょうか。
- 旧約聖書から新約聖書に入ると、旧約聖書で即座に、身体的また政治的に行われたさばきは余り出て来ません。そして旧約聖書の神は怒りっぽく、刑罰が厳しく、新約聖書の神は別の神かのように優しく何でも赦される、という印象を受けてはいけません。今日の箇所は、さばきが実に、もろに十字架で下されたことを意味します。イエス様に私たちのような罪びとの罪責が転嫁され背負われました。十字架で、イエス様が神の憤りのさばきの杯を、代わりにお受けになろうとしました。
- 神様から来るさばき、刑罰、のろいをが、イエス・キリストに向けられて、私たちから取り除かれたと信じて、神様に立ち返る必要はあります。イザヤ51章22節はイエス様の故に言われました。「あなたの主、 ご自分の民を弁護するあなたの神、【主】は こう言われる。 「見よ。わたしはあなたの手から、 よろめかす杯を取り上げた。 あなたはわたしの憤りの大杯を もう二度と飲むことはない。」(旧p1257)
- イエス・キリストに自分を委ねるなら、あなたのところに神様の「憤りの大杯」は来ません。イエス様が代表して、代わりに憤りを受けられたからです。神様が差し出してくださるこの「代わり」の方を拒む者は自分でさばきを受けなければいけない、と聖書は教えます。しかし、イエス様を自分の「代わり」として信頼して、神様に赦しを求め、神様を喜び喜ばせる人生を歩める助けを求めるなら、そのさばきを恐れる必要は一切ありません。
- イエス様は父なる神様へ、そしてあなたへの愛のゆえに、杯を飲み干すほどの従順を選ばれました。ですから、お尋ねします。あなたが従えないときについてもイエス様の従順による犠牲がその罪を覆うなら、あなたはどんな気持ちで神様の教えに応答しようと思いますか。喜びある感謝で従おうとする挑戦ではないでしょうか。
- クリスチャンでなければ、イエス様に応答しませんか。
- クリスチャンなら、神様がいつかあなたをさばくと恐れる必要はありません。十字架であなたの罪に向けられた「杯」は、飲み干されました。神の憤りの杯を一度も飲まなくても良いのです。神の憤りの杯から救われたなら、人の目、人の反対を恐れる必要はありません。神の恵みを信じて、安心して歩んでください。
説教について
振り返り:あなたが従わないときでもイエス様の従順による犠牲がその罪を覆えるので、どんな気持ちで神様の教えに応答しようと思いますか。
参考箇所:イザヤ50:6-7・51:17-22、テトス2:11-14