
2026年2月1日 説教「肉は弱いのです」 “The Flesh Is Weak”
箇所 Text:マルコの福音書 Mark 14章26~38節 聖書 新改訳2017©2017新日{聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:457、133、514、280、541番 招詞/Call to Worship:イザヤ Isaiah 40章30~31節 交読文/Line-by-line responsive reading 34番 出エジプト20章(Exodus 20, the “Ten Commandments”)
English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)
弱さを認めたくないのは、私たちの本性です。だから建前のことを使ったり、威張ったりします。認められたいのですが、「十戒」のように神様が求められるきよい心と歩みを、先週のたった7日の間でも完全にできたという人はおられるでしょうか。私たちは、イエスの言葉を借りて言うなら、弱い肉を持っています。
イエス・キリストの弟子たちも弱さを認めたくなかったが、弱さが暴かれました。マルコの福音書が教えるその弱さの一部を、見ましょう。
【イエス様の主張と弟子たちの主張】
- 26節は過ぎ越しの祭りの食事会で、イエス様と弟子たちが賛美を歌ってから出たと言います。この時点で、弟子たちは自分が神とイエス様への愛を確かに持っている、と自負していたでしょう。18と19節で「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります」と言われて「まさか私ではないでしょう」と確かめたばかりでした。
- しかし、27節でイエスは弟子たちの信仰と愛があまりにも弱くて、頼りにしないと言われます。「あなたがたはみな、つまずきます。」
- 「『わたしは羊飼いを打つ。 すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。」それからの出来事は旧約聖書の預言書ゼカリヤ書13章7節の預言の成就となります。神様が指導者として置いた「羊飼い」が打たれると、弟子たちという「羊」は力を貸さずに散り散りになるということでした。
- 28節「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」弟子たちはしっかりと強く立つことができません。しかし、イエス様は見捨てません。弟子たちがイエス様に初めて会った「ガリラヤ」の地で会いましょう、と招いてくださいます。しかも、イエス様はご自身が死を前提に「よみがえった後」と、死と復活を預言されます。
- 29~31節で弟子たちは皆、自分は散らされない、逃げないとえ言い張ります。その先頭に主張するペテロは、「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」(29節)と、覚悟を威張って「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても」(31節)と忠誠を主張します。
- イエス様は30節で厳かに予告なさいます。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」人間の力、信仰は何とあやふやで弱いものかとでもいうイエス様のことばは私たちの心にも刺さるでしょうか。
【弟子たちの「試験」】
- 32節「さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。…」忠誠を誓われた君主イエス様は、いよいよ試練を通るので、弟子たちに小さな試験を与えられます。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」それだけです。守られるでしょうか。
- さらに33節で、特にイエスが念入りに教え、親しくされた3人の弟子「ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。」
- 33節後半から34節まで『イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」』
- 悲しみが込み上げて来る際、私たちは仲間を求めます。暗闇の中を一緒に歩む人が欲しいです。イエス様は助けとして、ただ、一緒にいて「目を覚ましていなさい」と言います。38節でより具体的に、「目を覚まして祈っていなさい」と言われるように、門番が目的ではなく、創造主なる神様と話して、助けを求めるとりなしを求められました。
- 35,36節は次回イエス様の経験に集中する際に見ますが、そこでの悲しみ苦しみ悶えた祈りの後に37、38節が来ます。弟子たちはイエス様からの単純な試験、苦しみの中から出た必死なお願いにどう応えたでしょうか。
- 37節『イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。」』ペテロがハッとして、目をこすって、心が沈みます。イエスに必ず付いて行くと言ったところ、居眠りしてしまいました。
- 38節「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」イエス様の激励は、孤立して孤独な王のお願いです。イスカリオテのユダほどの裏切りはしていないが、一番親しいと主張したいペテロたちも、小さな形でイエスを裏切っていました。 寝るという誘惑、あるいは
- 「霊は燃えていても肉は弱いのです。」「肉」は「霊」と対照的で身体を指します。ペテロは熱心な霊を抱いるつもりでも、心の奥底にある弱さがありました。やっぱり、寝るのが楽と気を緩めてしまいました。私たちでも、聖書からイエス様の求められる事が分かっても、ペトロのように居眠りして、神様をないがしろにするしやすい、肉の弱さと罪を持っています(ローマ7章18節参照)。
- 40節では、弟子たちは再び寝てしまい、イエスに起こされては「彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。」呆然として、自分の意志と身体ののろさについて何も言えず、41節で実に「三度目」イエスが祈られても、弟子たちはまどろんでしまいました。本当に、「肉は弱いのです。」
【適用】
こうして、忠誠を主張した弟子たちは、神に信頼し人を愛する心の乏しさ弱さが少し暴かれ(ばれ)てしまいました。その続きは14章にまだまだあります。十戒を真剣に思い返せば、それを守ることによって神によって正しい人と認められる希望は自分にもないと気づかされます。弱さ、つまり神様から心が離れがちであり罪深いと認める必要があります。そして霊的に「目を覚まして祈って」、神様と親しく歩もうとする必要があります(マルコ14章38節)。
自分の力でそれが全くできないという心の弱さが残っています。しかし、そしてだからこそ、イエス様のみを通して、望みはあります。
ローマ8章3~4節(新p309)肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
罪深い、弱い肉の人、神様の完全な愛の律法に達しえないからこそ、神の御子イエス様に信頼しましょう。マルコ14章27節のとおり、イエス様はご自分に信頼する人を「群れ」と呼び、彼らを守り導く「羊飼い」として、弱い羊を守るために本当に打たれました。なぜか…羊の私たちの罪の処罰を代わりに受けて、完全な愛の「律法の要求」を代わりに満たすためでした。代わりに、あなたを義人といて扱い認められるように、イエスがすべてを成し遂げてくださいました。
今日の聖餐式も、弱く、罪深い者と認め、イエス様を通して神様に立ち返った人が初心に戻るための食事です。私たちにとったら、これが私たちの「ガリラヤ」です。イエス様は信じて従う、弱い羊の人を見捨てず、マルコ14章28節のように今日も、会おうと言ってくださいます。
説教について
振り返り:イエス様が十字架で犠牲を払って、あなたが葛藤する罪の弱さを覆ってくださる、と信じますか。
参考箇所:ローマ5:6、7:16-8:4