
2026年1月18日 説教「キリストの用意と預言」 “Christ’s Preparation and Prophecy”
箇所 Text:マルコの福音書 Mark 14章12~21節 聖書 新改訳2017©2017新日{聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:62、140、242、539番 招詞/Call to Worship:イザヤ55章1~3節(旧p1261) 交読文/Line-by-line responsive reading 6番 詩23篇(交読p5)
English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)
あなたは最近、何かの準備が足りなくて気が捕らわれ、悩まれますか。今日の話の時点で、イエス・キリストが処刑されるとは、十二弟子たちのだれも(裏切り者ユダを含め…マタイ27章3~10節)想っていませんでした。彼らは目の前の食事会を気にしていました。しかし、キリストはご自分の死だけでなく、その前の出来事をも予見されて、自ら、全てを神として計画され人として受け入れておられました。そして必要な用意をされ、大切なこと預言されました。
【話の展開】12~16節「用意」、17~21節「預言」(予告)
一、12~16節は食事の用意の話ですが、色々な人が用意するが、キリスト御自身が用意されました。
- 傾 12節「種なしパンの祭りの最初の日」種無しパンの祭りはつまり、過ぎ越しの祭りに始まった一週間の祭りでした。※⑴
- 嘆 出エジプト記に記録されているとおりに主なる神様がイスラエルの民を奴隷生活から救い出すために、エジプト住民全員に裁きを下されました。子羊を屠りその血の代償でイスラエルの人は裁きを免れ、自由になりました。
- 嘇 出エジプトの記念と祝いの一週間、「種なしパンの祭り」に差し掛かって、弟子たちはどこで祝えるかイエスに尋ねました。祝うためにユダヤの首都エルサレムに集まる人で非常に混んでいました。「過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」下手すると、その食事する場所が取れないかもしれません。でもイエス様はご用意くださっていました。
- 僀 13~15節でイエス様は具体的な指示を出します。
- 嘆 「都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。そして、彼が入って行く家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。すると、その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
- 嘇 何万人もで賑わう街の中で弟子たちがたまたま水がめを運ぶ特定の人に遭遇するのは不思議。その人が入る家がイエス様の意図される家だったというのも、偶然ではありません。
- 嘊 家の主人はしもべに「二階の大広間」を用意させたかもしれませんが、イエス様の前からの依頼、あるいはただ神様の不思議な導きで、用意していました。
- 僂 16節で弟子たちはイエス様の言われたとおりにして、言われたとおりの部屋を見つけました。最後に、「それで、彼らは過越の用意をした。」17節で、イエス様は弟子たちと祝うために、到着しました。
- 僄 この箇所に「用意」は12節、15節に2回、16節にと4回も出ます。気にした弟子たちは確かに用意しましたた。あの家の主人は彼らより先に用意をしてくれました。しかし、イエス様は主として、全てを整えて用意してくださいました。
二、イエス様はその食事で、悲しい預言をもなさいました。
- 傾 18~19節 …「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります。」弟子たちは悲しくなり、次々にイエスに言い始めた。「まさか私ではないでしょう。」自分だけは大丈夫と思っていたでしょうか。14章10~11節でイスカリオテのユダがすでにイエスを敵に引き渡す約束をしていたと書かれています。彼も、建前として同じ問いをイエスにしたでしょう。
- 僀 20節「「十二人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している者です。」」
- 嘆 過ぎ越しの祭りの食事では、お酢かぶどう酒また色々なスパイスや果物のソースが鉢に入り、食事をする人はそこにパンや野菜を浸して食べました。皆はそこに浸していたはずですから、曖昧な返事でした。※⑵
- 嘇 詩篇41篇9節はここで、詩篇41を書いたダビデの経験の繰り返しだがさらに深い意味の、成就でした。「私が信頼した親しい友が 私のパンを食べている者までが 私に向かってかかとを上げます。」
- 僂 21節で、イエス様の預言の背景と厳かさを感じます。
- 嘆 前半「人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます。」神様は確かに預言されました。イザヤ53章8節「虐げとさばきによって、彼は取り去られた。」神様のご計画はありました。キリスト御自身が十二人の弟子たちを選んで(3章13~14節)、数年を共に過ごしてきたのに…と驚きますが、不思議に、永遠の昔から神に計画され、何百年も前から預言されていました。
- 嘇 しかしそれは人間の責任と自由意志をつぶすのではなく、むしろそれの背後にありそれを用います。※⑶「しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」人が生まれて来なければよかったという非常に重い宣言は、生まれたことは神様の定められたご計画が間違ったという意味ではありません。しかし、ユダにとって、神の子を裏切る罪の深さ、そして悔い改めないで死ぬとイエス様はご存知でした。イエス様は厳かに、悲しみをもって宣告したでしょう。ユダへの忠告とも言えます。
【適用】
今日の話しから二つのことを思います。
1)12~16節のシーンは私たちにも適用されます。イエス・キリストが信じる者皆の必要を満たす用意をしてくださいました。弟子たちにとってその時の悩みは、毎年の特別なお祝いができるかでした。私たちは他の色々な意味で(後で歌うように)「悩む者」です…。
イエス様が私たちのことを思って、必要な「めぐみ」と「ひかり」と「すくい」を用意されています(讃美歌242番)。イエス様は毎週、集う者を集めて会衆との時間を用意されています。司会者や説教者は用意しますが、背後に働いてこれを可能にするのは主イエス様です。詩篇23篇6節のように、「私の前に食卓を整え」、私たちに宴会、霊的な食事を毎回用意してくださっています。
2)17~21節より、キリストは全ての人はご自分に背くとご存知でした。ユダほどの罪でないと思うかもしれませんが、神様に対するどの反抗も無限の方に対する大罪です。残りの十一人も、私たちも神様からのさばきに値します。しかし、問題は、神様の教えで指摘された後にどうするか、です。他の弟子たちはイエスを見捨てた後、赦しと救いを受けました。なぜかと言うと、イエス様は救いのために御自身をささげげてくださったからです。
罪があると認めるだれでも、神様に告白してイエス様への信頼によって赦しを求めるなら、赦しを受け、神様の愛する、清い子として扱われます。ここにいる皆が一人も漏れず、そうなることを祈ります。「つみを悔いて なげく友よ、 主のゆるしの みこえきけや」(讃美歌242番)
註
※⑴ ヨハネの福音書と比較すると、過ぎ越しの祭りの前日なのか初日かなど、一見食い違いあるように見え、学者でも頭をかしげるのですが、ここでその問題を取り扱いません。
※⑵ Craig Blomberg, Matthew, NAC Vol. 22 (Broadman: 1992) 389 (Accordance version). ちなみに、ヨハネ12章は他の詳細を含め、イエス様はユダだという意味で鉢に浸したものを渡した、と書いていますが、それでも弟子たちは理解できなかったそうです。マルコは同様に、弟子たちは分からなかったという事を示します。
※⑶ ウェストミンスター信仰告白3章1項参考。
説教について
振り返り:イエス様が聖書で罪を指摘されても、あなたに今必要な赦しと助けをも用意されたと信じることができますか。
参考箇所:詩篇41:9、イザヤ53:8