2026年1月11日 説教 「イエス・キリストの真価」 “The True Worth of Jesus Christ”

箇所     Text:マルコの福音書 Mark 14章1~11節  聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

説教者:百瀬ジョザイア  讃美歌/Hymns:87A、166、358、544番 招詞/Call to Worship:詩篇98章1~2節 交読文/Line-by-line responsive reading 9番 詩29篇(Psalm 29)

English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)

 私たちは皆、毎日、色々な成功や経験という目的を評価して、その価値に見合うと思う犠牲を払っています。大きな例は、子供の教育のため、裕福な暮らしのため、家族に喜ばれるために、残業など大変なことを選ぶかもしれません。でも時には、目的の価値を正しく意識しないで生て、お金で買えないものを見過ごしてしまい、結局どうでも良いものを手に入れてはまた失います。聖書の価値観、創造主なる神様の評価に注意する必要があります(マタイ6章19~21節)。

 今日の話でイエス様の敵、友人、そしてご自身が、イエス・キリストとその命を評価しました。

一、敵と友による「イエス評価」 (1~5、10~11節)

 イエス様は多くの霊的指導者たちに憎まれました。自己中心と偽善を指摘するイエスはあまりにも邪魔者となっていたので、14章の1節は「祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた」と教えます。2節によるとイスラエル全国民が神様の昔の救いを記念する「過越の祭り、すなわち種なしパンの祭り」の少し前でした。人気な教師イエスに手をかけて騒動が起きた場合、ローマ帝国の干渉が怖かったから、祭司長たちと律法学者たちは「祭りの間はやめておこう」と思っていました(2節)。ところが、キリストの処刑が過ぎ越しの祭りと重なるようにと、神様は事を運んでおられました。※⑴

 10節でイスカリオテのユダという弟子がイエスの敵のところに行き、イエスを引き渡す提案を持ちかけます。11節によると「彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスをうまく引き渡せるかと、その機をうかがっていた。」マタイの福音書26章15節によると、ユダがイエスを裏切ると「銀貨三十枚」を受けることとなりました。旧約時代で指定された、奴隷のための賠償額と同じ値打ちでした(出エジプト21:32)。つまり、イエス・キリストは多少のお金で、けっこう安く買われる人物として評価されてしまいました。

 では、イエスの敵による評価を見て、飛ばした3~9節に戻りましょう。3・6節はある女性によるイエスの評価です。3節によると、ユダヤ人の首都エルサレム近くの町での出来事です。ここのシモンは、かつてツァラアトという皮膚病をイエスに癒していただいた人の一人だったかもしれません。

 3節後半に「ある女の人」が登場します。※⑵当時、男性たちだけで食事をする習慣でした。でも女の人は失礼と思われるのを気にせず、イエスへの想いを現すために入りました。「純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。

 「ナルド」はインド辺りからの高級輸入品でした。女の人は使い切るつもりで壺を割って、イエス様の「」に注ぎました。惜しみないおもてなし、まさに王の任職式での「油注ぎ」に似た行為でした。この女性がそこまで意識していたか分かりませんが、イエスを神に選ばれた「油注がれた」という意味のメシア・キリストと認める、心からの贅沢な行為でした。

 部屋に満ちた香ばしさに対して、臭い反応が立ちこもります。4~5節でイエス様の弟子たちによるイエスの評価が間接的に出ます。

4~5節 …「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。

 そこの人たちは「もったいない!」と、上から目線で女の人に無駄使いで咎めます。※⑶もちろん、それなりの理由を付けて責めました。労働者賃金の300日分のデナリ銀貨で多くの貧しい人を助けることができるのに、全部ここで使うとは…理解できると思います。与えられたものを上手に用いなさい、人を助けなさい、と神様は確かに教えられます。

二、イエスによる評価(6〜9節)

しかし、6~9節でイエス様は女性の評価を通して、ご自身に関する評価をなさいます。 

6~7節…「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。

 実に、貧しい人は尊厳と価値あります。でも、普通の人にできる優しさは日々あります。逆に、人でありまた神であられるイエス様と過ごせる時間が限られていました。(同じように、何曜日でも人に良いことはするべきですが、日曜日の公また個人での礼拝は大切な、神に心を向ける時間です。)

 8節「彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。」イエスが数日後に十字架で処刑され、葬られました。その後に香油を塗って丁寧に埋葬しようと思った他の女性たちは、それができませんでした(マルコ16章)。なぜなら、イエス様がもう復活されていたからです!マルコ14章の女の人は意識していたか知りません。しかし、彼女はそこでしかできなかった敬愛と崇拝の表現をして、香油塗りを前もって行いました。

 9節「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます」確かに、世界中の何千もの言語に訳されたマルコの福音書から、人々はイエス・キリストのわざと一緒に、彼女のを知ります。それはそれほど価値あるわざでした。

イエス・キリストの価値による、私たちの贖い

 では、話を振り返りましょう。イエス・キリストとその死の本当の価値、真価はいくらだと、あなたは評価しますか。ただの人だという、敵や他の友達のように、あなたの生き方はイエスの価値を表現していますか。女の人も完全に分かっていませんでしたが、イエス・キリストの真価は無限大です。私たちの全身全霊のに値します。時間も富も、また人との関係にも優って、イエス・キリストは価値ある、優先されるべき方です。

 聖書的に言うと、弟子たちの指摘どおり、どの人にも価値はあり助けるべきです。でもイエス・キリストの価値は遥かに高いです。人を本当に愛そうと思うなら、まず人を造られ愛される神を正確に認めて、拝む必要があります。

 残念なことに、私たちはなかなか、そうはしません。主イエスの麗しさを歌っても(讃美歌166番)、イエスに魅了されることは余りにも少なすぎます。優先順位の問題が私たちの日々の決断から露わにされます。自分を第一にしてしまう罪が心の奥底から出て来ます。仮に頑張って人のために何かをしたとしても、キリストを蔑ろにすれば、それも無駄で勿体無いです(マルコ8章36節参照)。神様に「敵」、「罪あり」という評価を受けて当然の者です。

 でもマルコ10章45節ですでにイエス様が予告されていました。ご自分は「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」ご自身の代価で裁きから買い出し救うために、十字架にかけられると計画なさって、来られていました。

 神様の愛は軽い、甘やかすものではありません。神様が罪まみれの人間をさばくべきと宣言されています。そして罪びとを大切に扱う前提として、罪の代価を人が支払われなければなりませんでした(イザヤ43章4節)。無限の価値ある「人」イエス様が十字架の上で、人の背きの罪の代価を代わりに払わることにより、私たちは神の愛を受けることができます。※⑷

 神様の愛を、イエスの無限大に尊い犠牲によって受けられます。あなたはイエス様に頼って、神様の愛を受け入れますか。聖霊様がそうするように助けてくださいます。さらにイエス様のご栄光を表す行動と言葉の証しをするようにに導いてくださいます。ご家族やご友人にイエス様の真価を示せる行動と言葉をぜひ、考えて、祈ってみてください。

※⑴ 使徒4章25~28節、第一コリント2章8節

※⑵ ヨハネの福音書12章の話が同じ出来事を語っているのであれば、彼女はラザロの姉妹マリアでした。

※⑶ マタイとヨハネの記述によれば、「何人かの者」はイエスの弟子たち、特に裏切り者となったイスカリオテのユダでした。

※⑷ ヘブル人への手紙9章14節。ウェストミンスター大教理問答第38~40問参照。

説教について

振り返り:家族や友人にイエス様の真価を示せる行動と言葉とは、何ですか。

参考箇所:マタイ6:19-21、マルコ8:36、イザヤ43:4

鳴門キリスト教会
礼拝内容(説教)