2025年12月7日 説教「淵と暗闇で待つ」 “Waiting in the Depths and the Dark”

箇所  Text:詩篇 Psalm 130篇 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

説教者:百瀬ジョザイア  讃美歌/Hymns:88、94、138、172、542番 招詞/Call to Worship:第一ヨハネ1章5~7節 交読文/Line-by-line responsive reading 36番 イザヤ書11章(Isaiah 11, p. 33)

English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)

(アドベント:待降節。クリスマス前の数週間、イエス・キリストが人間となってくださたことを記念して待ち侘びた人々を覚え、再び地上に来られることを待ち侘びる時期。)

 溺れかけたこと、あるいは夜通しで何か助け(手術の結果など)を待ったことがありますか。助けと安息を喘ぎ求めたことだと思います。特に、自分には何もできないと思うなら、辛いかもしれません。その気持ちを覚えて、この詩を読みましょう。私たちは諦めてはいけないと奮い立てられるためでなく、神様に委ねて、期待するためにこの聖書箇所を頂きました。

◆1~2節では、信徒は絶望しそうな渦中で、真の神様を叫び求めます。

 表題は「都上りの歌」と、15の歌のシリーズの後半にあります。都は礼拝の中心地の神殿のあるエルサレムでした。そこへ向かって登ったイスラエル人信徒たちが歌うためです。そしてついにエルサレムに到着したが、何と激しい当惑で始まるか。

1節  「深い淵」で溺れそうな気持ちです。※⑴ 著者が経験した「淵」の内容は曖昧な分、私たちのそれぞれの「淵」に当てはまります。いじめ。惨めな人間関係、中毒、失敗、病、忙しさ、恥、また、罪悪感…。最後に死も、淵と言えます。

2節 必死に、「私の願いの声に耳を傾けてください」と注意を引こうとするかのように叫びます。

◆3~4節 信徒は視点をガラッと変えて、より深刻な問題に直面します。

 3節 私たちは神様が何でも聞いてくれるはずと、甘く考えてはいけません。3節の問いへの答えはもちろん、「誰も立てません」です。もし聖なる神様が「不義に目を留められるなら」、近づいて「御前に立てる」者は一人もいません。

 私たちの神に対する反抗、つまり、罪が、私たちにある最大の問題です。1、2節の「深い淵」は微々たるものです。だれにとっても最大の必要、また目的は、創造主なる神様と平和を持ち、神の素晴らしさをたたえて喜ぶことです。しかし、その条件は、神様が認める正しさと愛の「義」です。神の言うことに少しも背くなら不義で神の敵であり、最重要の関係を破損しています。

 4節 ところが、4節は稲光のように、暗闇で叫ぶ信者に思い起こされ、届きます。 「しかしあなたが赦してくださる」!神様は、人間が犯した罪に対する代価である「裁き」の代価を代わりに負う、という赦しです。

 4節後半によると、この赦しは甘えた、呑気な態度ではなく、感謝と恐れの思いを起こさせます。赦しがある結果として、人が神を畏敬の念で恐れ、慕うのです。 

◆詩篇の後半は適用です。5、6節は個人的な適用。自分への励まし。

 5節 「私は【主】を待ち望みます。主のみことばを」この人は未だ、状況から助け出されていません。でも、神様の「みことば」、簡単に言うと聖書の教えに信頼が置けます。罪が赦され、神にう近づいても良いという約束に、深みで立つための土台があります。 

 6節 「夜回り」は警備員や兵隊の見張り番のような人です。都上りを経てエルサレムの城壁に来ても、強盗や敵の兵隊が襲うかもしれません。夜回りは一晩中、暗闇の中で目を覚まして、また、耳をすまします。 敵の的になってしまうかもしれません。当然、夜明けを待ち侘びたでしょう。130篇を唄った人は、夜回りの気持ちに勝る程にドキドキしながら、神を待ち望みます。

◆最後に、7~8節は信者の同胞、同じ信仰を持つ者への励ましという適用です。 

 7、8節はまさに、4節の希望の現実はやって来るというのです。「主は すべての不義から イスラエルを贖い出される」(8節)は3節にあった「不義」について、主なる神様はその支配と裁きから贖い出される、つまりその支配から買い出し取り出してくださるのです。だから、「待て」と激励します。

 イスラエルの民は色々な状況の中でこの詩を唄ったでしょう。エルサレムの神殿の栄のとき、滅ぼされたとき、みすぼらしく再建されて、内戦や外圧に国が悩んだとき…。それは贖いを待っていた時代でした。

 実際、詩篇130篇の作者を始め、歌った信徒の多くは、7、8節の贖いの夜明けを見ないで亡くなりました。また、神様はどのようにして、詩篇130篇4節のとおりに罪を赦しても、3節のとおりに正義を行われるのかも、ぼんやりとだけ教えられました。それは、都上りをして、神殿で行った、動物の犠牲に現れました。それを見て、赦して、交わりの関係を下さる神様を待ち望みなさい、とこのみことばは励まし続けました。第一のアドベントでした。

 クリスマスの出来事で神様の贖いの計画は動き出しました。罪や状況で溺れている人の隣へ、淵に飛び込み、決定的に贖うときを。ご誕生前、イエス様の使命は宣言されました。

マタイの福音書1章21節(新p2)「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

 十字架で、動物のいけにえがほのめかした、罪からの救いが現実となりました。私たちが神様に呼び求め、顧みられるために、イエスは顧みを受けませんでした。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と十字架の上で叫ばれるほどでした。人をいろいろな「淵」から救い出すために、人による拒絶や悲しみの淵に沈んでくださいました。

 不義ある人が神の前に義ある者として立つために、イエス様は代わりに人の不義を背負って、倒れてくださいました。神様の恵みの曙をもたらすために、イエス様が裁きと死の暗闇を通ってくださいました。復活を通して、霊的そして身体的な復活と栄の確実な夜明けをもたらしてくださいました。 

 だからこそ、私たちが経験する淵や闇の中でも、希望をもって待つことができます。まず、自分の反抗の罪を神様に認めて嫌って(悔い改めて)、イエス様に自分の救いを委ねて(信じて)いると、罪からの贖いをすでに受けて、神様と親しく歩むことができます。 私たちは今も、身体的、社会的などの救い、贖いを待たないといけません。再臨で主イエス様が再び来られ、新しい天と地で受ける贖いです。でも、その保証は今の、神との和解にあります。

 聖書は正直な本です。これは人の破廉恥や悪意をも、悲しみの現実を真っ直ぐに認めます。しかし、光と希望をも保証します。自分の最大の問題、つまり神様との関係の回復を自分が行えないと認める人にこそ、希望を約束します。過去の罪、今の罪と悩み、未来の喜びに向けて、希望と使命はあります。

 過去の失敗・罪について。赦しと助けのためにイエス・キリストがあなたのために取り扱った、と信じますか。神様に逆らってきたことを謝って、イエス様に自分を委ねて(信頼して)赦しを求めるなら、義ある者として歓迎されます。

 今の悩み、苦しみについて。助けをも求めて良いです。私たちは教会として、違いの悩みを聞き合って祈りあって、具体的に支え合う使命を受けています。神様と愛の関係によって生きることができますように。ですから現在の歩みに対して、神様の愛豊かな教えに耳を傾けてください。

 最後に、イエスがすべてを新たにされる未来の再臨を待ちましょう(黙示録21:2~5)。希望をもって、イエス様による贖いの完成を待ち続けましょう。私たちが生きているこの生涯は、神の素晴らしさの輝きが私たちを完全に照らす明け方を待つ夜番に過ぎません。 

説教について

振り返り:あなたの苦しみ悲しみの暗闇で、神様に助けを期待できる理由は何ですか。信じて、期待していますか。

参照箇所:ローマ3:23-26、マタイ1:21

註 ※⑴ 古代のイスラエル人のほとんどは大陸に慣れていて、日本人のようには海を肯定しませんでした。海や淵は命を奪う無秩序、荒れ狂っている滅びを象徴しました。

鳴門キリスト教会
特別礼拝内容(説教)