2025年11月23日 説教「願うこと」 “My Plea”

箇所     Text:詩篇6篇(表題~8節) 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

讃美歌 Hymns: 10、309、352、340番 招詞 詩篇1:1~3

本日は、池戸キリスト教会の桑原教師試補による説教です。

English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)

「願うこと」

はじめに

今日はともに詩篇6篇を読んでいきましょう。詩篇は信仰の大先輩が神さまに向かって語った賛美、訴え、感謝でありながら、その信仰者の人格全体を通して聖霊が語ってくださった神の「ことば」です。招詞では詩篇1篇1〜3節を読みました。そこでは「主のおしえを喜びとし/昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。」こそ幸いな人であると語られ「その人は/流れのほとりに植えられた木。」と続きます。神さまが与えてくださる流れのほとりにいる人、神さまからのいのちで生きる人こそ幸いな人であることが宣言されていました。

しかし、そのような人であっても、さまざまな苦難に出会います。信仰者であっても、苦難の中で叫ばざるを得ない時があります。神さまは、信仰者の真実な叫びを用いて、私たちが現実の歩みの中で向き合わざるを得ないことへの導きや慰めを得ることができる恵みを与えてくださいます。

今日取り上げる詩篇6篇の表題には「ダビデの賛歌。」とあります。イスラエルの王として神さまに召され、多くの苦難を経ながら、王座についたダビデ。そのダビデの賛歌です。神さまへの賛美や感謝のことばが綴られていることが期待されます。しかし、1節冒頭から、賛美とは程遠い、苦しさの只中からの祈りのことばが綴られています。この6篇だけでなく、表題には賛歌とありながら、本文は神さまに訴えかける祈りのことばで始められてる詩篇があります。それぞれに状況は違っても、追い詰められた中での祈りのことばが続きます。

私たちも、神さまを信じていても、さまざまな苦しい状況にぶつかります。時には、理由が分からない苦しさに直面することさえあります。そのような時、詩篇は大きな助けを与えてくれるのです。詩篇6篇のダビデは、極限状態とも言えるような苦しさの中に置かれています。耐えがたい苦難の中に置かれたダビデ。しかし、ダビデはこの6篇を残すことで、神さまが与えてくださった恵みを告白し、私たちに分かち合ってくれているのです。その恵みは私たちにとって欠くことのできないものです。ダビデの声を聞きましょう。

本論

a 主よ あなたはいつまで──。 6:1-3

1節には「主よ 御怒りで私を責めないでください。/あなたの憤りで私を懲らしめないでください。」とあります。主によって選ばれ、神の民イスラエルの王とされたダビデ。主の救いの恵みのご計画が進められるために用いられているダビデ。主の前に罪を犯すことの重大であることを誰よりも知るダビデ。旧約聖書のサムエル記にはそのようなダビデの姿が記されています。王となってからも、赦されないような大きな罪もありましたが、それも悔い改めに導かれ、主の救いの恵みを身をもって知ったダビデです。そのようなダビデが、1節に記された祈りをもって主の前に出ているのです。神の怒りを取り除いてくださるようにとの祈りです。いったい何があったのかと読む者を驚かせる言葉です。

ダビデは何か罪を犯したのでしょうか。少なくとも、ダビデは自分が主の責めや怒りを受けざるを得ない立場にいることを認めて主の前に出ています。6篇と同じようなことばで始められる38篇では、その後、罪の告白へと続いていきます。しかし、6篇にはそのような記述はありません。

もし、なんらかの罪が指摘されていたとしても、それに関する悔い改めは既になされているのではないでしょうか。それでも主の怒りや責めを受けていると認めざるを得ない状況に、ダビデは追い込まれているのです。救いの恵みを知る者にとって、これほど苦しい状況はないのではないでしょうか。

ダビデは、自分が不当な扱いを受けているとは言っていません。悔い改めているからこそ、自分の罪を主に告白しているからこそ、主からの扱いが不当なものだと不満をぶつけるようなことをしないのです。自分が主の赦しの恵みの中で生かされていることを知っているダビデです。たとえ理由が分からない状況にあったとしても、一人の罪人として、主の前に責めや怒りを受けても不満を言える立場にないことを知っています。さらにダビデは、ここで主の怒りや責めを示す具体的な状況をも記しません。この詩篇のテーマが罪と悔い改めにないことを暗示するかのような始まり方をしています。それでは、何がテーマなのでしょうか。

2節には「主よ 私をあわれんでください。/私は衰えています。/主よ 私を癒やしてください。/私の骨は恐れおののいています。」とあります。ダビデは主に自分の状況を訴えます。衰弱しきって神の怒りの前に慄くダビデがいます。その慄きのゆえに、骨までもが揺らぐのです。身も心も、すべてが弱りきったダビデの姿です。主の前に、このままでは生きていくことができないほどに追い込まれた自分であることを告白しています。

3節には「私のたましいは ひどく恐れおののいています。/主よ あなたはいつまで──。」とあります。ダビデの全存在が恐れ慄いているのです。主に向かって「取り扱いがおかしい」というような不平や不満は一言も発していません。この状況の打開策は、自分と主との関係の中にしかないことをダビデは知っているのです。主が責めと怒りをもって自分に対している以上、主がそれを止めてくださらない限り、解決はないのです。主のみこころの正しさを知っているダビデです。ただ主があわれみによって取り扱ってくださる以外に、解決はありません。

そのことを認めるダビデは、祈りながらもあまりの苦しさのゆえに、言葉をつまらせています。3節後半には「主よ あなたはいつまで──。」とあります新改訳2017では棒線でことばが閉じられています。原文でも、祈りの言葉が途中で途切れた形で記されています。ダビデは、主が救いの恵みの中で取り扱ってくださることを知っています。それでも、あまりにも厳しい状況に直面して、苦しさの極限に置かれたダビデは、祈りの言葉さえも失う中で、それでも主のあわれみを求めて「いつまで」とかろうじて絞り出しているのです。「主よ あなたはいつまで──。」と。

b 祈りの中で 6:4-7

祈りが途切れるほどの、ことばにならなくなるほどの苦しみの中、それでもダビデは祈りのことばを絞り出しました。3節から4節の間にどれほどの時間、葛藤があったでしょうか。ダビデは何も記していません。しかし、4節からの祈りのことばも容易くダビデの口から発せられたものではないでしょう。

4節には「主よ 帰って来て/私のたましいを助け出してください。/私を救ってください。あなたの恵みのゆえに。」とあります。今、ダビデは主を遠くに感じています。主の救いの恵みの中で生かされ、主との親しい交わりの中に置かれていることを自覚していたダビデ。ダビデにとって、主は近くにおられるお方でした。しかし今は、主が自分から遠く離れてしまっておられるように、自分と主との間に大きな隔たりがあるように、感じているのです。それゆえに「帰ってきてください」と言うのです。主が帰ってきてくださることがダビデにとって救いを意味しているのです。

ダビデは知っています。主が帰ってきてくださるのは、ただただ主の恵みによることであることを。だからこそ「私を救ってください。あなたの恵みのゆえに。」とダビデは祈るのです。自らの力や功績で、今の状況を打開することはできないことを知るダビデの祈りです。

ダビデは更に続けます。5節です。そこには「死においては/あなたを覚えることはありません。/よみにおいては/だれが あなたをほめたたえるでしょう。」とあります。「死において」とも「よみにおいて」ともあります。死後の世界に触れているように思えるかもしれません。しかし、ここでダビデは死後のことを言っているのではないのです。聖書は「よみ」がどのようなところか、具体的に語ることをしません。「よみにくだる」という表現も「死ぬ」ことを示す慣用句として使われるものです。ダビデは、「もし、このまま死んでしまったら主を覚えることもほめたたえることもできなくなってしまう」ことを嘆いているのです。5節は主の救いを求めるダビデの根拠であり、切なる思いを示したことばとして記されています。

このことばはとても重い言葉なのですが、どのような重みを持つものか、後ほど改めてかんがえることにします。ここでは続く6,7節に進みましょう。そこには「私は嘆きで疲れ果て/夜ごとに 涙で寝床を漂わせ/ふしどを大水で押し流します。私の目は苦悶で衰え/私のすべての敵のゆえに弱まりました。」とあります。改めて、自分の苦悩がどれほどのものかを訴えるダビデです。夜ごとダビデは苦しみのゆえに眠ることもできず、涙を流し続けるのです。

「涙で寝床を漂わせ/ふしどを大水で押し流します。」という言葉が、その苦悩の深さ、強さを示しています。そして、その最後でダビデの置かれた状況が「敵」によってもたらされたものであることが示されます。しかも、「夜ごとに」とあるように一晩だけのことではありません。死を意識するほどの苦しさが続いているのです。それであっても、その「敵」がどのような存在であり、どのような方法でダビデに敵対しているかをダビデは記していません。

主は「敵」の存在を通して、ダビデを窮地に追い込んでいることが明かされます。しかし、ダビデにとって、敵がどのような存在であるかは問題の解決には本質的なことではありません。ダビデの祈りはあくまでも主が恵みによって救ってくださることを求めているのです。それは、結果として「敵」が退くことを意味するでしょう。しかし、それは自分と主との関係が回復された結果なのです。主との関係の回復なくして、「敵」からの解放もないのです。

c 急転直下? 6:8-10

主への切なる願いが綴られてきた詩篇6篇は、8節で大きな転換を迎えます。そこには「不法を行う者たち みな私から離れて行け。/主が私の泣く声を聞かれたからだ。」とあります。急転直下の勝利の宣言です。

自分を苦しめている敵への宣言という形をとっています。その宣言の根拠として「主が私の泣く声を聞かれたからだ。」と語るダビデです。それにしても7節と8節の間に何があったのでしょうか。ただ「主が私の泣く声を聞かれたからだ。」とだけ記されています。それ以外のことをダビデは語りません。私たちに分かることは、主がダビデの祈りに答えてくださったという事実だけです。そこには、主からダビデへの答えは記されていないように見えます。じつは既に答えは記されているのですが、そのことはこの後でお話しします。まずは8〜10節を見ましょう。

ここではっきりしているのは、ダビデが主の救いの恵みの中に自分がいることを確信していることです。ダビデは、主が帰ってきてくださり、近くにおられることを確信しています。それゆえの敵への宣言であり、続く9節では「主は私の切なる願いを聞き/主は私の祈りを受け入れられる。」と主が祈りに答えてくださったことを高らかに歌い上げるのです。だからこそ、10節では「私の敵が みな恥を見/ひどく恐れおののきますように。/彼らが退き 恥を見ますように。瞬く間に。」と敵について主に祈ることができるのです。

8節以降のダビデの姿と7節以前のダビデの姿にはあまりにも大きな落差があります。大きすぎて、同じ人物なのかと言わざるを得ないほどです。ダビデと主との間にどんなやりとりがあったのでしょうか。9節の「主は私の切なる願いを聞き/主は私の祈りを受け入れられる。」ということばに、主がダビデをどのように扱っておられたかを理解する鍵があるのではないでしょうか。主はダビデを滅ぼすために、ダビデを責めたり、懲らしめたりしたのではないのです。主は、ダビデが責められ懲らしめられていると認めざるを得ない状況に彼を置いた中で、ダビデ自身の祈りの言葉を通して、ダビデを導いておられたのです。

確認しておきたいことがあります。主は時に、私たちを責め、懲らしめることをもって、私たちを導くことがあるということです。それは親が子を、ときには厳しさの中で導くことに似ているでしょう。人間の親であれば、過度の厳しさや、誤りもあります。しかし、主の訓練には、誤りがなく、厳しさに終わることもありません。救いの恵みの中での取り扱いなのです。私が自分を知る以上に、私を知ってくださっている主の恵みの中での取り扱いです。

その取り扱いは私たちにとって望ましいものと思えない時もあります。しかし新約聖書ヘブル人への手紙12章10,11節には「肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」ともあります。

主の懲らしめが自分を滅ぼすためのものではないことをダビデも理解していたでしょう。しかし、その期間があまりにも長く過酷であったため、このまま死んでしまうのではないかという恐れさえ抱いたダビデだったのです。今、その恐れは解消されています。主からの答えとはどのようなものだったのでしょうか。それを見ていきます。

d 願ったことは 

5節に戻ります。「死においては/あなたを覚えることはありません。/よみにおいては/だれが あなたをほめたたえるでしょう。」という5節は、そのダビデが発したことばであることを思う時、その意味の大きさが見えてくるのです。じつはこの5節のダビデの願いこそが、この詩篇6篇の中心なのです。4節の救いを求める祈りと6,7節のダビデの苦境を訴えることばの間に挟まれた5節こそが、ダビデが主に願ったことの中心であり、祈りの土台となっているのです。

ダビデは、先ほども申し上げましたように「もし、このまま死んでしまったら主を覚えることもほめたたえることもできなくなってしまう」ことを嘆いているのです。ここでダビデが願っていることは、主を覚え、主をほめたたえる日々を失わせないでくださいということなのです。この地上で、主の栄光を示し、主を賛美する日々を失わせないでくださいということです。そのような歩みこそが主にある者の歩みであることを深く認めればこその願いなのです。主の恵みによって救われた、「主にある者」に相応しい歩みを続けさせてくださいという願いなのです。一人の信仰者として真に必要なことを願うまでにダビデは導かれたのです。

主は、ダビデにとってあまりにも厳しい懲らしめと思える状況を与えることで、ダビデにこの祈りを祈るようにと導いてくださっていたのです。人は、極限の苦しさの中で、ほんとうに必要なものを求めるのではないでしょうか。ダビデが置かれた苦境も、主にあって歩んできたダビデに、改めてこの言葉を言わせるためのものであった言って良いでしょう。祈りの中で導かれたダビデ。5節の祈りに示された歩みの大切さをダビデは知っていたでしょう。この祈りのことばを語ったことで、ダビデの目が改めてその重要さに開かれ、深められたと考えられるのです。自分にとって、もっとも必要な歩みが何かを祈りの中で確認させられたのです。

先ほど、主からの答えが記されていないように見えるとお話ししました。しかし、これこそが主の答えだったのです。ダビデの目は苦境から主にある者の歩みへと向きを変えられました。その祈りに導かれることで、そこへと導いてくださる主の恵みへと目が開かれ、深められたのです。だからこそ、ダビデは主の救いの中に自分が置かれていることを確信して、敵に対して宣言できたのです。そして、10節の祈りを祈るのです。この祈りがあるということは、具体的状況、敵の存在がまだ退けられていない中にダビデがいることを示しています。それでも、ダビデは主が祈りに答えてくださったと宣言できるのです。

結び

極限とも言える苦境での叫びから勝利へと導かれたダビデ。その勝利は5節のことばへと導かれたことにあるのです。この5節のダビデの祈りは主の恵みによって救われた者の歩みにとって必要不可欠なものなのです。ダビデは自分が主の懲らしめを受ける中、導かれたことを、祈りの形でそのことを証しているのです。自分が実際に体験したことを振り返り、詩篇に形作ったのです。詩篇は信仰者の人格全体を通して聖霊が語ってくださった神の「ことば」です。この詩篇6篇もダビデの訴えを通して、主が私たちの歩みにとって欠くことができないものは何かを語ってくださっているのです。それこそが、詩篇6篇のテーマと言えるのです。主は、そのためにダビデを導いてこの詩篇を残してくださったと言えるのです。5節に残されたダビデの願いを、主から私たちへの恵みとして心から受け取りたいのです。

この祈りを祈れる者は、主との関係が回復されない限り、自分の生きる道がないことを知る者です。それこそが信仰者の姿です。様々な状況の中で常にこの祈りの心で歩んでいるかが問われるのです。苦難の中で何を求めるべきかを知らされたダビデ。その告白を私たちも受け継げる幸いをともに深く覚えたいと思います。

鳴門キリスト教会
礼拝内容(説教)