
2025年11月16日 説教「皆の主」 “The Lord of All”
箇所 Text:エペソ人への手紙 Ephesians 6章5節~9節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:3、162、339、539番 招詞/Call to Worship:詩篇 Psalm 113篇5~8節 交読文/Line-by-line responsive reading 43番 ルカ伝1章(マリヤの歌 Luke 1 Mary’s Magnificat)
エペソ人への手紙 Ephesians 6章5~9節
5 奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。 6 ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、 7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。 8 奴隷であっても自由人であっても、良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受けることを、あなたがたは知っています。 9 主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。
English Aids: Scripture (ESV Bible), Japanese hymn transliterations (some songs may be missing)
初めに
子どもの賛美で人気な曲の歌詞はこうあります。「海と空つくられた主は あなたの主、私の神 罪を赦し、救いたもう みんなの主!」イエス・キリストに関する分かりやすい、信仰のまとめです。でも、自己中心という罪を持つ人はだれでも、イエスを主として認めたくないことがあります。自分が主であるかのように、神のみこころではなく自分のこころのとおりに押し通そうとします。人間同士を自分の手先にしてしまうこともあります。
ところが、使徒パウロは、エペソ人への手紙で教会において、別の道を説明してきました。すなわち、キリストを通して、キリストの主権の下で、教会は平和と愛のある一致を持ちます。具体的な適用として、夫婦・親子の家庭内の関係を取り上げてきました。今日、イエス・キリストが皆の主である観点から、主人と奴隷の関係について原則を教えます。
一、奴隷の主(5~8節)
- まず教会内の「奴隷たち」に、5~8節は直接語ります。パウロが奴隷制度全般、あるいは当時の奴隷制度に賛成した訳ではありませんが、当時のエペソの人口の2か3割が奴隷だったかもしれません。立派と見られる「良い奴隷、良い主人」もいましたし、制度を悪用する「悪い奴隷、悪い主人」もいました。そして奴隷の主人がどんな人でも、キリスト者のための原則はありました。
- 5節の「…地上〈肉における、人間〉の主人に従いなさい」と言う命令は、6節以降の命令にかかっていて、6~8節は補足です。でも、ただの命令ではありません。どの節も、イエス・キリストとの関係を第一として、人間の主人との関係を教えます。
- 5~8節での、クリスチャンの奴隷の行動について。
- 5節「従いなさい」ですが、「キリストに従うように」です。主の教えに従える範囲内で、人間の主人によく従うことでした。
- 6節「キリストのしもべとして心から神のみこころを行い」、主人に仕えます。
- 7節「主に仕えるように、…仕えなさい。」
- 8節「良いことを」行おうとするように励まされます。
- 5~8節での、クリスチャンの奴隷の態度について。 建前を突き破って心の本音を問います。
- 5節「恐れおののいて」、同時に、相手を大切にする態度、「真心」。恐怖心ではありません。しかし、完全に主の支配と導きの下にいるという強い意識を意味します。
- 6節「ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方…人に」とは違って、「心から」従います。特にパワハラや同調圧力ある人間関係ではご機嫌取りでやり取りを済ませる誘惑は大きいですが、本当に相手に良くする気持ちが求められました。
- 7節「…喜んで仕えなさい。」なぜなら、主が私たちに、喜んで仕えてくださるのです。
- 8節は奴隷のクリスチャンたちに、主イエスの公平な支配を思い起こさせた上で、報いを期待する気持ちで善を行うように呼びかけます。
- 主イエスには、立場に関する依怙贔屓がありません。「奴隷であっても自由人であっても」主イエスが公平に報いてくださいます。「良いことを行えば、それぞれ主からその報いを受ける」のです。
- エペソ1章7節にあるように、クリスチャンはイエス・キリストのいのちの犠牲を以て、買い戻され贖われ、神様の民に加えられました。これが第一の所属、立場です。そして奴隷が地上で持つ主人は、一時的な主人に過ぎません。主イエス・キリストこそ、いつまでも皆の主です。
二、主人の主(9節)
9節1文目「主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。」教会の中の人間関係は革命的です。
- 5章21節「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい」の命令の下で、奴隷たちは主人の為だけでなく、主人たちも奴隷の為をも求めるべきです。
主人への適用は2文目「脅すことはやめなさい」です(4節の、親への適用参照)。
3文目「あなたがたは、彼ら〈奴隷たち〉の主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。」
- 主人たちは奴隷たち(8節)同様に、知っている神学がありました。つまり、主イエスは奴隷たちの心と行いをご覧になり、お裁きになり、良い行いに良い報いを与えられます。主人たちの心と行いをご覧になり、お裁きになり、公平に扱われます。
だからこそ、この神学によって歩むなら、奴隷を価値の低い部下やモノとして扱えません。主が不公平な差別をなさいません。どの人間も、神様の似姿として造られ、同じく大切にされています。
三、皆の主の道
- さて、今日の日本に、ローマの奴隷制度はありません。今日の関係性は分かりにくいかもしれません。しかし、どの人間関係について考えても、相手に対して義務を果たし、愛を示すべきと言う原則は、変わっていません。
- ちなみに、キリスト者の多い国で、非常に嘆かわしいことに虐待的な奴隷制度も所々、長く維持されました。しかし同じ国で奴隷制度が廃止された大きな要因は、今日の箇所の様な原則から人間の公平な扱いを求めた人々の信念でした。不正な人間関係があれば、声を上げてそれと闘うのは、神様の公平さと愛を表す行為です。
- それはそれとして、パウロが書いている教えは現代でも、「奴隷であっても自由人であっても」と8節のとおりに、皆を指します。私たちは互いと持つ、上下関係あるいは対等関係で、確かに、するべきこと、してはいけないことはあります。8節のとおり、報いもあります。でも、奴隷も主人も、それに失敗します。「真心」が求められているからです。
- 表立って「善い人」を振る舞うことは可能です。ローマの良い主人像、良い奴隷像もあったように、今でも、日本でも、いわゆる良い子、良妻賢母、立派な人などはそうです。でも神様はうわべのことを評価なさいません。
- 行動以上に、心の態度が神様にとって大切です。なぜ行うかです。素直に従うことでも、部下を優しくすることでも、もし神に愛されるためなら、ただの「演技」です。心から神そして人を愛しているときのみ「真心」からの行いで神様に喜ばれます。
- 相手のためにするべきことをなぜしているかが問われます。私たちも、神様に愛されるために、あるいは恩返しのために義務義理によって良い人を目指しているなら、福音によって歩んでいません。
- イエスが皆の、公正は主だけではありません。イエスに信頼を置いている皆の、「義と聖と贖いになられました」と第一コリント1章30節が教えます。恵みの、救いの主でもあられます。
- エペソ2章9節は人の救い、つまり報いを受けて神様の御前にに歓迎される根拠について述べます。「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 」ただ恵みのゆえです。だからこそ、奴隷も主人も聖霊に頼って、「真心から…キリストのしもべとして心から神のみこころを行い…喜んで」生きることができます(エペソ6章5~7節)。「差別なさらない」主イエスがは心の動機まで見て、公正に裁かれます。同時に、差別せずに愛して、十字架で犠牲を払って買い戻してくださいました!
- 福音を信じるなら、神様や人に気に入れられるために歩む必要はありません。いや、それがそもそもできないのです。でも、主イエスに愛されているゆえ、感謝と喜びで自分を献げることができるようにされます。
説教について
振り返り:キリストが主また救い主であると信じて、感謝と期待の気持ちから人に従ったり優しく扱ったりしようと思いますか。
参照聖句:エペソ2:8-10、使徒10:34-36、第一コリント1:30