
2025年10月5日 説教「幸いを求める人の祈り」 “A Prayer of One Seeking Blessing”
箇所 Text:詩篇 Psalm 119篇11〜8節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns (Romaji link here):66、187、260B、461、544番 招詞/Call to Worship:ヘブルHebrews 10章19〜22節 交読文/Line-by-line responsive reading 34番 出エジプト20章より十戒(Exodus 20, the Ten Commandments)
1 幸いなことよ
全き道を行く人々
主のみおしえに歩む人々。
2 幸いなことよ
主のさとしを守り
心を尽くして主を求める人々。
3 まことに 彼らは不正を行わず
主の道を歩みます。
4 あなたは戒めを仰せつけられました。
それらを堅く守るように。
5 どうか 私の道が堅くされますように。
あなたのおきてを守るために。
6 そうすれば あなたのすべての仰せを見て
私は恥じることがありません。
7 あなたの義のさばきを学ぶとき
私は直ぐな心であなたに感謝します。
8 私はあなたのおきてを守ります。
どうか 私を見捨てないでください。詩篇 Psalm 119篇11〜8節
更新:2025年10月4日
初めに
「幸い」とは、あなたにとって何ですか。クリスチャンでない方から、疑問を受けることはありませんか。「信じて何が良いの?」「何の利益があるの?」「それでも幸せじゃないクリスチャンはいるじゃないか」など。「現世利益」を追い求める多くの人にとって、聖書の学びや礼拝、祈りは時間の無駄でしょう。
どの宗教、どの信仰を持っても最後は同じ山にたどり着くから何でもいい、とよく聞きます。ただ、それはすでに悟りを得たと自負する人だけが断言できる発言です。「山」のてっぺんを見て、そこまでの道を見た人の定義また主張です。本当に信頼できる「幸せ」や「益」の定義は、完全に幸せな方から来て当然です。
先月初めのように、詩篇を読んでいます。前回の112篇は、神様を恐れ、その教えを喜ぶ人は幸いという話したが、今日、「幸い」を具体的にに求めた人の祈りを見たいと思います。
一、箇所の意味
- 【前置き】- 詩篇を読むヒントですが、ヘブライ文化の詩はよく、2行ずつ並行に進みます。今回もそうですが、2行目は1行目の言い換え、解説、あるいは逆説であることがよくあります。ですから無関係の発言の連続ではなく、色濃くして数行ずつに展開しています。
 - 119篇1~8節は節毎、ヘブライ語のアルファベットの最初の字「アレフ」から始まります。「幸い」「祝された」という言葉の頭文字はアレフであり、1と2節の冒頭に出ます。
 - 詩篇119篇の特徴は、これがとても長い祈りとして、神様を求める人の気持ちの浮き沈みを鮮やかに描くことと、ほぼ全ての節にも、聖書、神の「み言葉」に触れるということが挙げられます。それは、聖書にあります。「みおしえ」「さとし」「道」「戒め」「おきて」「仰せ」「みことば」と多様な表現ですが、常に聖書を通して神様の喜ばれることを知り、もっと大切なことに神様ご自身を知るようになることを告白する詩です。
 
- 【幸いな人の歩み】1〜3節 1、2節はどれも「幸い」と始まります。- 1節「全き道を行く人々」は2行目「【主】のみおしえに歩む人々」で言い換えられます。私たちは歩みたい「道」がありますが、神からすれば本当に良い、全き道があります。- 小畑進牧師はこの箇所について、全てがうまく行くと限らないとコメントします。信者の生涯の内、「得」していないように感じられるかもしれません。※⑴でも聖書は現実を伝えます。神様と平和を持つ者なら、世で何があっても、幸いです。
 
 - 2節は同じように並行で「主のさとしを守り」は「心を尽くして主を求める人々」と並行です。神様を「心を尽くして…求める」ことは、主の「さとしを守り」から見えます。
 - 3節「不正」を行わないことと「主の道」も並行です。神様の「全き道を行く」(1節)と、不正に迷い込まなくても良いです。
 
- 1節「全き道を行く人々」は2行目「【主】のみおしえに歩む人々」で言い換えられます。私たちは歩みたい「道」がありますが、神からすれば本当に良い、全き道があります。
- 【祈り】作者は幸いな人を描くのを終えて、自身が幸いな歩みをするように祈り出します。- 4〜6節神《律法に従えるためのお願い》- 4節で神様が「戒めを仰せつけられました」理由は、それが人の益のための、神の言葉だからです。歩まれ、実践されるために与えられました(申命記29:29)。それで作者は5節で自分の「道」が十分に整えらることにより、戒めを守らせてくださいと願います。
 - 6節で作者は、期待します。神様の助けによって、神の律法について「私は恥じることがありません」と、神の戒めを守られると期待します。
 
 - 7節 《感謝》作者は、神様の「義のさばき」学ばせていただくと期待します。「さばき」を聞くと、怖い印象を受けるかもしれませんが、「私は直ぐな心であなたに感謝します」続くので、ここから喜びの印象を受けます。- 神様の正しいさばきでこそ、悩む者は希望を持ちます。もし本当に幸せに歩みたいなら、聖書そして聖書の著者神様に親しむ道しかありません。様々な悪がはびこる世の中ですが、所々で人が悪を抑えて、正義を行うように助けるのは神様です(一般恩恵の一部)。神様が今すぐに行われないが、約束される決定的な裁きもやって来ます。2ケ月前の詩篇111をぜひ読み直して、神の義を信じる信仰をまた受け取ってください。
 
 - 8節《律法を守る決意と恵みの願い》5節で神様の「おきて」を守られるように求めました。今度、「私はあなたのおきてを守ります」と宣言します。
- 同時に、2行目で神様の助けがまだまだ必要だと告白します。「どうか 私を見捨てないでください。」聖書を真摯に受け止める信者の思いはまさにこれです。熱心な決意と同時に、「かよわき我は 律法にたえず」(讃美歌260番2節)という霊的弱さと罪深さの意識を持ちます。
 
 
- 4〜6節神《律法に従えるためのお願い》
二、箇所の現実と課題
- 現実- 神の教え、道が必要です。路線の無い所を走ろうとする汽車、自動車…星や羅針盤や他の道具を見ないで航海しようとする船…私たちは「道」(1・3・5節)を必要とします。それは「みおしえ」「さとし」「戒め」「おきて」「仰せ」「みことば」、聖書です。
 
- 課題 聖書は知られ、さらに守られるために神様より与えられました。私たちが自ら守れません。守るために、神様が私たちを堅く据えて(5・6節)、みおしえを学ばせて(7節)、共にいて助ける(8節)必要があります。この詩の続きでも、そのような謙遜な懇願は続きます。
三、箇所の成就と実践
感謝なことに神様が「道」を昔から示してくださいましたし、「新しい契約」の新約聖書も書かれて、完成されました。書き記されたみおしえを学ばせる聖霊様がいてくださいます。さらに、聖書も聖霊様も証言するイエス・キリストが幸いと祝福を贈ってくださいます。
イエス・キリストは神様の「みおしえ」を完全に守ったゆえ、十字架にかかられました。誰も幸いと思わない姿でした。しかし、旧約聖書の「仰せ」と「おきて」が予告していた、罪びとの身代わりとして罪の刑罰を受けて苦しむ方でした。旧約聖書の「義のさばき」と「さとし」が求めていた、聖書を完全に守り義ある者として、他の人にも義の祝福をもたらす方です。
イザヤ書53章11節(旧p1259)「彼は自分のたましいの 激しい苦しみのあとを見て、満足する。 わたしの正しいしもべは、 その知識によって多くの人を義とし、 彼らの咎を負う。」
神様の言葉を完全に守られたイエス様の働きによって、それは詩篇119篇1・2節のように、単数系の「ひとり」のもので終わりません。複数の「人々」と「彼ら」、私たちにも、神のみ言葉を知り、信じ、生きる幸いを及ぼされました。なぜなら、キリストに信頼を置く人は、「義とし」て扱っていただいて、神様に歓迎されます。
だからこそ、共に信じて、祈りましょう。私たちは完全に神のみおしえを行えませんが、行うように成長することが幸いだと言われた神様の約束があります。この現実を信じて、イエスによって、義の道を歩む者とさせていただきたいと思いませんか。
119篇2・7〜8節
説教について
振り返り:キリストを拠り処としつつ神様を慕い、神様の言葉を慕っていますか。それが幸いだと心から信じますか。
参照聖句:詩篇1、イザヤ53:10-12、第一コリント1:30
註
※⑴ 小畑進『詩篇講録 下巻三〜五』(いのちのことば社、2007年)、791頁。