
2025年9月21日 説教「聖霊様に満たされた人の共同体」 “The Community of People Filled by the Holy Spirit”
箇所 Text:エペソ人への手紙 Ephesians 5章18~21節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:67、185、506、541番 招詞/Call to Worship:詩篇Psalm 47篇5~8節 交読文/Line-by-line responsive reading 3番 詩8篇(Psalm 8)
初めに
自分にとって楽しくない、辛いことはしたくないはずですね。でも、家族のために骨折って働いて、早起きして、色々な辛い事を耐え忍んでいる方を身て、感銘を受けます。義務感も含まれますが、やはり愛もあって、皆様は家族のために我慢して努力しておられます。
今日は、愛によって、先週と同じ箇所から、聖霊様(御霊)に満たされる話の続きです。前回、18節でぶどう酒などのものに支配される代わりに聖霊様に満たされて、聖霊様に従って歩む命令がありました。自分を捨てて従うそういう覚悟は、神様がまずキリストを捧げて、キリストが命を捨てたことから始まると言いました。
今日、御霊に満たされた歩みをより詳しく見ていくと、その難しさに直面します。しかし、これは愛の関係であることも覚えたいと思います。
一、互いと神に向けての歩み(19~21節)
- 19節に進む前に、18節について少し付け足します。- 聖霊様の先の働きでこそ、私たちは服従して、御霊に満たされる喜びを経験できます。
 - 18節の「満たされ」は一度限りではなく繰り返される可能性を示す動詞です。御霊の潤しの「雨季」と「乾季」があり得ます。霊的な刷新が一生涯、度々、必要です。
 
- さて、19~21節にある、御霊に満たされたクリスチャンの歩みの特徴を見ましょう。神様はこれらの特徴を、私たちにとって最善の道と最高の喜びのために用意してくださいました。
- 19節前半 「詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い…」聖霊様に満たさた人は共に、教会として共同生活を送ります。(ヘブル10章24~25節参照)- 「詩と賛美と霊の歌」は聖書の詩篇を始め、その他の賛美などの祈りです。これらは神への賛美と同時にに信者同士で語り合えるものです。礼拝の中では決まったものを讃美歌や交読文として歌い合い語り合います。
 - ところが、礼拝の外でも私たちは互いの悩みや感謝を聴き、状況に見合った聖書箇所、賛美を分かち合うこともできます。教会という共同体の中で、神様に近づくように勧め合うために非常に有益です。エペソ4章15節の言葉を借りるなら、「愛をもって(賛美にある)真理を語り」合うと、「交わり」が活きます。
 
- 19節後半「…主に向かって心から賛美し、歌いなさい。」二つの動詞「賛美し、歌い」で、主(イエス)に「詩と賛美と霊の歌」の礼拝を捧げます。御霊に満たされた人は共に、子なる神イエス様を賛美します。- 人に語りかける内容のものも可能ですが、教会が用いるべき歌は基本的に神様に向かって、神様のための、神様を喜びとするものです。それが人の為でもあります!
 - 賛美の奉仕は上手なクワイアのみならず、すべてのクリスチャン、会衆全体の特権です。
 
- 20節「いつでも、すべてのことについて…父である神に感謝しなさい。」あらゆる場合に(第一テサロニケ5:18)、すべてのこと、別訳では「すべての人について」です。御霊に満たされた人は共に、感謝できることを多く見出し、神に祈ります。賛美とともに感謝を捧げるのは、旧新両時代の神の民の特権です(エペソ2:12-19参照)。「…私たちの主イエス・キリストの名によって…」おひとりの仲介者によって(第一テモテ2:5)、この様に神にご奉仕します。
- 21節「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。」御霊に満たされた人は共に、キリストに対する恐れ、畏敬の念、尊敬を抱くのです。そうして、キリストへの尊敬を表すように、互いにも尊敬を払って、相互関係にふさわしい形で相手の事を自分より大切にし、優先させるようにパウロは教えます。- ピリピ人への手紙2章3~4節をぜひ、ご参照ください。服従し合う、つまり自分より相手を大切に思って行動することが教会の使命です。※⑴
 - 上下関係ではあるが、クリスチャンは第にキリストを恐れ畏むゆえ、いわゆる下の立場でも上の立場でも、相手を優先させる責任はあります。直後、22節~6章9節で夫婦、親子、奴隷と主人の関係を取り上げるのは、その具体的な事例です。
 
二、御霊に満たされた人の共同生活の理想と課題
- 聖霊様に満たされた人の共同体とは、言い換えると、栄える教会の像です。- 教会に属する一人ひとりは神様との関係を最優先していると、第一に神様への感謝、キリストへの賛美そして恐れが深まります(四つの特徴の特に真ん中の二つ)。そしてイエスの王国としてクリスチャンが共に神を喜ぶ中、互いの喜びのために言葉と行いを用いて、成長します。
 - エペソ4章15節の目的に近づいて、「愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。」(新p389)
 
- これは「理想」ですが、現実の課題の難しさに圧倒されやすいです。御霊に満たされる歩みは一見楽しいと思うかもしれないが実際、大変です。むしろ、自分勝手に歩みたいという思いとこの命令はぶつかり合います。- 聖書と賛美で相手を善へと励ます代わり、陰口やくだらない話で過ごしてしまったとき。
 - 日曜礼拝で主を賛美しても、神様以外の何かに魅了されて自由時間を神様抜きに使ってしまったとき。
 - 感謝の代わり、神様に批判を投げかけたり、祈りを諦めたりしてしまったとき。
 - 相手を優先させるより自分の心地よさを優先させてしまったとき。
 
- 私たちは神より自分、周りの人より自分を優先させると、教会全体が成長しにくくなります。御霊に満たされると自分勝手に生きる代わりに、自分の欲に背を向けないといけません。これは不自然なこと、心地悪いことです。(私にとっても、そうです…。)
三、御霊に満たされにくい人の、福音による希望
- それは不自然と言うより、超自然です!イエス・キリストがしてくださるのは超自然だから、御霊に満たされにくい(満たされたくない?)人にも、福音による希望はあります。- 今日の箇所のとおりに「賛美…感謝…恐れ」に値する神様の愛を思い出しましょう。私たちを愛して捕らえた神は、私たちを愛して手放されません。御霊はエペソ1章14節また4章30節のとおり、その保証の「証印」です。クリスチャンは一度赦されてから、その後の成長過程次第で神様の愛と恵みを受けるか損なうかのように思うことはあります。(私も…)エペソ2章8~9節(新p386)が「この恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。…行いによるのではありません。…」と言いますが、これはクリスチャンになる瞬間のことだけでなく、毎日、本当です。どの日も、私たちはただ神の恵みによって聖なる、義なる者として扱われます。イエス・キリストに信頼を置いて、父なる神に罪を告白し赦しを求めると、イエス様の義ときよさが私たちのものとして転嫁されています。私たちが何度失敗しても、イエス様の故にその恵みはまだ私たちのものです。神は愛を示し続けて、聖霊様にまた満たされるように招かれます。
 - 私たちは祈りましょう。(クリスチャンとして百回目、あるいは初めてかもしれません。)「神様、私は自分を人や神様より大切にして、神様に従うことを拒んでしまいました。愛のない者です。私を愛してくださってありがとうございます。イエス様ゆえに赦し、さらに、私をイエスの義を持つ子供として歓迎してください。従えない、従いたくない気持ちはまだありますが、聖霊様に従おうと願います。満たして、導いてください。」
 
- この様に祈って、愛されているから心地悪くても聖霊様について行けるように、祈ります。
礼拝の後
振り返り:聖霊様に満たされる必要を認めて、イエス様に拠り頼みますか。
参照聖句:ヘブル10:24-25、第一テサロニケ5:16-18、ピリピ2:3-9、イザヤ11:2-4
註
※⑴ ウェストミンスター大教理問答第124~132問はとても有益にこの責任を説明します。