2025年9月28日 説教「わたしとともに天の御座へと」 “To Sit with Me on My Throne”

箇所     Text:黙示録 Revelation 3章14~22節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

説教者:百瀬ジョザイア  讃美歌/Hymns:62、322、355、542番 招詞/Call to Worship:マタイの福音書 Matthew 6:21 交読文/Line-by-line responsive reading 12番 詩42篇(Psalm 42)

本日は、大阪キリスト教会の久野牧師による説教「わたしとともに天の御座へと」です。

(原稿は更新済みです。)

招詞        マタイ6:21 (新約 p. 10)

6:21    あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

聖書朗読          黙示録3:14~22 (新約 p. 495)

3:14    また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。

3:15    わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。3:16    そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。3:17  あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。

3:18    わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。3:19    わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。

3:20    見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。3:21    勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。3:22    耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」

はじめに

大阪キリスト教会では、毎週の礼拝式の中で、旧約聖書も読みながら、新約聖書の“マタイ福音書”と“使徒の働き”とのふたつを読み終えました。それら、ふたつの書物が述べていますとおり、“主イエス・キリストの十字架による罪の赦し”は御霊により、実際に、エルサレムから、ユダヤ全土、異邦人との混血の人たちが住むサマリアへ、そして、ローマ帝国の各地に住む異邦人たちへと述べ伝えられていきました。その結果、ローマ帝国の各地に“キリストの教会”が建て上げられることとなりました。さて、その後、それらの教会は、いったい、どのような歩みをしたのでしょうか・・・?そこで、大阪キリスト教会では、新約聖書、”ヨハネによる黙示録”の中で、”七つの教会への語りかけ”と呼ばれている箇所を読むことにしました。きょうは、その中のひとつを、ここ、鳴門キリスト教会のみなさんとともに読んでみたいと思います。きょう読むのは、ヨハネの黙示録3:14~22。この箇所から、今朝は、「わたしとともに天の御座へと」との題で、みことばをとりつぐようにと導かれました。

ラオディキア

少々気が引けますが、まずは、私ごとからお分かちさせてください。きょう、私たちが読む聖書箇所は、その内容もさることながら、私に非常に大切なことを教えてくれました。それは、「聖書の教えを心から信じる聖書信仰とは、少なくとも、このような姿勢にあるのだ・・・」ということでした。お気づきのことと思いますが、きょうの聖書箇所の中で非常に重要な役割を演じているのは黙示録3:20。それは、「天の神さまは、『見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする・・・』とおっしゃられた・・・」と書き記されているみことばです。このみことばを私は何度も読んできました。ところが、あるとき、私は、『あっ、もしかすると、私は、このみことばを正しく読んでこなかったのかもしれない・・・』と気づいたのです。

恥ずかしながら、それまでの私は黙示録3:20のみことばを、「さあ、まだ、心を開いておらず、“主イエス・キリストの十字架”の意味を正しく理解できていない未信者の方々。神さまは、あなたたちの心の外に立ち、あなたたちの心の扉を開けて欲しいと叩き続けていらっしゃいます・・・。そして、そのようなあなたたちに神さまは、『だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする・・・』とお語りになっています・・・」との意味だと解釈していました。ところが、この聖書箇所をじっくり読んでみれば、いかがでしょうか・・・。その解釈では成り立ちません。私はそのことに気づきました。それを機に私は、『聖書の教えを心から信じる聖書信仰とは、少なくとも、そのように勝手気ままな捉え方をしないことなのだ・・・』と気づいたのです。

それならば、みなさん、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」とのみことばを、神さまは、いったい、誰に向けて語りかけられたのでしょうか?言うまでもありません。黙示録3:14で語られているとおり、天の神さまはライディキアの教会員たちに、このおことばを語りかけられました。すなわち、このみことばは決して、まだ心を開いておらず、“主イエス・キリストの十字架による罪の赦し”を受け入れていない未信者の方々への語りかけではありません。言い換えますと、このみことばは、私たちキリスト者にとってこそ、非常に大切なもの。私たちキリスト者は、その意味を、殊の外、正しく理解しなければならない・・・。私は、そのように気づいたのです。

さて、改めまして、きょうの聖書箇所はラオディキアの教会員たちへの神さまからの語りかけです。ラオディキアとは、エペソから東に150kmほど内陸部へと入ったところに位置している町だそうです。”七つの教会への語りかけ”のうちの第三番目は”ペルガモンの教会”へのものでした。その町、ペルガモンからは南東方向に幹線道路が敷かれていて、今のトルコ、アナトリア半島の南岸、地中海の港町、アタリアにまで、その道路は繋がっているそうです。そのように、古くからの幹線道路が通っていましたので、ラオディキアには多くの富が集まっていたようです。きょうの聖書箇所、黙示録3:18には、「目に塗る目薬を買いなさい」とのみことばが出てきますが、ラオディキアとは、“質の良い目薬を生産する町”としても有名で、その目薬はローマ帝国の各地にまで持ち運ばれ、販売されていたらしいのです。

このとおり、ラオディキアを通る幹線道路は、その沿道の町々を大いに栄えさせていました。なんでも、この幹線道路が敷かれた背後には、次のような理由があったからのようです。ペルガモンからフィラデルフィアやラオディキアを通過し、南の港町、アタリアへと続く一帯には二本の活断層が走っていて、断層と断層との間にできた平地が北西から南東へと、まるで、帯のように続いています。ですから、その地形は幹線道路建設の上で非常に好都合でした。ところが、活断層が走っていることで、その一帯では今も地震が頻発しています。ただ今、私たちが読んでいる“ヨハネの黙示録”は、どうも、西暦90年頃に、天の神さまから使徒ヨハネに届けられてきたみことばのようですが、この書物が完成するよりも30年ほど前、西暦60年頃にも、大きな地震がその一帯を襲ったそうです。そこで、ローマ帝国は、その地域を地震被害から復興させるため多額の支援金を送りました。ところが、「ラオディキアはその支援金を受け取らず、自分たちの力で、その町を復興させた・・・」との文献が残っています。ラオディキアとは、それほどに力ある町でした。ところが、主イエス・キリストの父なる神さまは黙示録3:17のとおり、「ラオディキアの教会員たちよ。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない・・・」と語りかけてこられたのです。

わたしはあなたの行いを知っている

さて、黙示録3:14をご覧ください。そのように驕り高ぶっているラオディキアのキリスト教会員たちに神さまは、「わたしはアーメンであり、確かで真実な証人、神であり、しかも、すべてのものを創造した源である・・・」と語り始められました。繰り返しますが、これは、まだ、心を開いておらず、“主イエス・キリストの十字架による罪の赦し”を受け入れていない未信者の方々への語りかけではありません。これは、ラオディキアの教会員たちのためのおことばでした。ならば、みなさん、このみことばを読んで、「おやっ?」と首を傾げてしまうのではないでしょうか?たとえば、みなさん、なぜ、神さまは、このように、「わたしはアーメンであり、確かで真実な証人、神であり、しかも、すべてのものを創造した源である・・・」と、ラオディキアの教会員たちにお語りになられたのでしょうか?キリスト者ならば誰もが、そのようなことを知っているはずです。しかも、神さまは彼らラオディキアの教会員たちに、「このわたしこそ、すべてのものを創造した源である」と語りかけてこられました。それは、言うまでもなく、「ラオディキアのキリスト者たちよ。あなたたちは、あなたたちの神となった、わたしのことを正しく理解できていない・・・」と、神さまが語りかけてこられたということです。ご存じのとおり、旧約聖書、箴言9:10には、「【主】を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである」とのみことばが書き記されています。ところが、そのようではなかったラオディキアの教会員たち。いかがでしょうか、みなさん、この最初のおことばから、すでに、ラオディキアのキリスト教会の実に悲しく、残念な様子が私たち読者の目に届けられてくるのではないでしょうか?

先にも申しました。神さまのあわれみにより、“主イエス・キリストの十字架による罪の赦し”はエルサレムからユダヤ全土、異邦人との混血の人たちが住むサマリアへ、そして、ローマ帝国の各地に住む異邦人たちへと宣べ伝えられていきました。そして、それは、ラオディキアにまでも届けられました。それなのに、それから50~60年ほど時が流れた頃、ラオディキアの教会員たちは、確かに、自分たちの町のキリスト教会に集っていたものの、聖書から離れ、神さまがどのようなお方であるのかさえも正しく理解できていない人たちとなっていたようです。その様子を黙示録3:15は、「ラオディキアの教会員たちよ。『わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない』と、神さまがお語りになっている・・・」とも述べています。このみことばから窺えるのは、「ラオディキアのキリスト教会では、確かに、礼拝式は捧げられていた・・・。しかし、その場所には、主イエス・キリストの栄光は輝いておらず、ご臨在もなかった・・・」との様子なのです。

まずは、このとおり、ラオディキアの教会員たちの様子に、天の神さまが深く失望しておられたとの光景が見えてきました。しかし、みなさん、ご覧ください。それでも、神さまは、まだ、ここで、「彼らを吐き出した」とはおっしゃっていません。ここに書かれているのは、むしろ、「神さまはラオディキアのキリスト者たちを今にも吐き出したいところであったが、とどめられた・・・。我慢なさった・・・」との様子です。要するに、神さまはじっと歯を食いしばりながらも、彼らに、「ラオディキアの教会員たちよ。そろそろ気づきなさい。そして、悟りなさい・・・」と語り続けておられました。ところが、彼らラオディキアの教会員たちは、それでもなお、頑なさを続けました。そのことを物語っているのが、先にも触れましたように、彼らラオディキアのキリスト者たちは心の中で、『我々は富んでいて、豊かなのだ・・・。足りないものは何ひとつもない・・・』(黙示録3:17)とのうぬぼれです。それは、申すまでもなく、“傲慢”という名の罪が彼らの心の中に居座っていた様子なのです。

次のように申し上げると、さらに理解しやすくなるのでしょうか?“地の塩”となるために、神さまは、私たちキリスト者たちに、殊の外、多くの恵みとあわれみを注いでくださっています。それなのに、まるで、塩気を失ってしまった群れのようになっているラオディキアの教会員たち。「あなたたちは、わたしのことを“神さま”と呼んではいるが、わたしのことを正しく理解していない・・・。そのようなあなたたちは、自分たちが、いかに病んで惨めな状態になっているのかも気づいていない・・・」との意味で、神さまは語りかけてこられました。そして、神さまは黙示録3:18~19のとおり、「ラオディキアの教会員たちよ。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい」との御声を届けてこられました。おそらく、神さまは、このあと、何かの試練を彼らラオディキアの教会員たちに与えられたのでしょう。しかしながら、ご愛が込められていた神さまからの試練をも、ラオディキアの教会員たちは正しく理解できなかったようです。そこで、神さまはラオディイアのキリスト者たちに、黙示録3:20~22のみことばを送り届けるしかありませんでした。それが、先ほどから何度も読んでいる、黙示録3:20~22のみことばであったのです。

黙示録3:20~22

3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」

改めまして、みなさん、このみことばは、まだ、キリスト者となっていない未信者の方々に語りかけられたものではありません。これは、“主イエス・キリストの十字架による罪の赦し”をすでに心から信じ、信仰告白し終えていたラオディキアのキリスト者たちへの語りかけでした。このとき、神さまは、彼らラオディキアの教会員たちの心の扉を外から叩いておられたのですから、すでに、ラオディキアのキリスト者たちの心の王座には神さまの居場所はなかったということです。そこで、神さまは、「ラオディキアの教会員たちよ。あなたたちは天のわたしからのあわれみを受け、キリスト信仰という尊い贈り物を受け取ったのに、今や、そのわたしに対して熱くもなく、冷たくもない思いしか持っていない・・・。それは、わたしのことを神とも見ていないからではないのか・・・?」と語りかけてこられたのです。

ところが、みなさん、黙示録3:20をご覧ください。それでも、神さまは、「ラオディキアの教会員たちよ。あなたたちが心から罪を悔い改めるならば、わたしはあなたたちの神として再び栄光を現す・・・」との御声を届けられました。このおことばには、実は、「ラオディキアの教会員たちよ、あなたたちは、これでも、わたしからのことばを信じようとしないのか・・・?わたしを神と見ないのか・・・?ラオディキアの教会員たちよ、あなたたちは、もはや、神である、このわたしから捨てられ、火と硫黄のさばきに投げ込まれて当然の人たちとなっていることにも気づいていないのか・・・?しかし、わたしは、もう少しだけ待つ・・・。待ち続ける・・・。ラオディキアの教会員たちよ、あなたたちが心から罪を悔い改めるならば、わたしはあなたたちの神であり続ける・・・。これは、わたしが、あなたたちの神となったからこその約束だ・・・。素直に悔い改めなさい・・・」というように、実に、あわれみ深くお語りくださったのです

みなさん、私たちの心の中には恐ろしい罪が宿っています。たとえば、罪は、神さまから与えていただいたキリスト信仰の尊ささえも忘れさせ、私たちに、『この信仰を保つも捨てるも、私たちの自由だ・・・』と思い込ませてきます。ところが、私たちの神さまとなってくださったお方は、それとは正反対のことを教えてくださっています。それは、「その信仰は、わたしがあなたたちに与えてものだ・・・。その信仰を決して軽んじてはいけない・・・」ということです。いかがでしょうか、みなさん、たとえば、私たちが、今、手にしている信仰とは、私たちが自分の知恵で選び取ったと思っていないでしょうか?ところが、聖書の中の数多くの箇所で、そうではなく、この信仰は神さまがあわれみを込めて与えてくださったものだと語られているようです。たとえば、旧約聖書のイザヤ書46:3~13 (旧約 p. 1246)は、みなさんもよくご存じで、大好きなみことばだと思います。だからこそ、その箇所を改めて読んでみてください。私たちが、今、手にしている信仰とは、私たちが勝ち取ったものとは語っていません。その箇所は、むしろ、それとは正反対に、「神さまはあわれみを込めて、この信仰を私に与えてくださった・・・。そして、与えてくださったからこそ、神さまを汗を流し、堪え忍びながら、こんな私たちをもご自分の御国へ招き入れようとしてくださっている・・・」と語っているのではないでしょうか?

まとめ

さて、神さまからのあわれみをいただき、“主イエス・キリストの十字架による罪の赦し”はエルサレムからユダヤ全土、異邦人との混血の人たちが住むサマリアへ、そして、ローマ帝国の各地に住む異邦人たちへと述べ伝えられていきました。その結果、ローマ帝国の各地には“キリストの教会”が建て上げられていきました。はて、その後、それら各地のキリスト教会は、いったい、どのような歩みをしたのでしょうか・・・?残念ながら、ラオディキアの教会のような群れが姿を現していました。

きょうの聖書箇所には、非常に大切な教訓が語られています。それは、この地上で、”キリストの教会”との看板を掲げることが許されているすべてのキリスト教会が心しておくべき重要な内容です。「わたしの教会に集っているあなたたちよ。あなたたちが、今、手にしている“キリスト信仰”とは、決してあなたたちが自分たちの知恵や力で選び、勝ち取ったものではない。もし、そうであったならば、あなたたちは、キリスト信仰をやすやすと手放したはずだ・・・。だからこそ、今こそ言う、あなたたちが、今、手にしている“キリスト信仰”は、わたしがあわれみを込め、天からあなたたちに与えた尊い贈り物だ・・・。だからこそ、わたしは、あなたたちの神となった者として、わたしの力で、あなたたちに与えた、この大切な“キリスト信仰”を守りとおすのだ・・・」とのお約束です。いかがでしょうか、みなさん、あなたは、今、あなたの心の中に宿っている”キリスト信仰”が、それほどに、”ありがたいもの”として捉え、感謝できているのでしょうか?私たちの心の奥底に隠している思いにまで目を向けられる神さまは、私たちが決して天の御国に入れるにふさわしくないことをご存じながらも、私たちを清め、整えながら、ご自分の御国に入れようと汗を流し、熱心の限りを尽くし続けてくださっています。みなさん、この大切なことも心しながら、聖書のみことばを勝手気ままに解釈しないようにも心がけていこうではありませんか。

きょう、私たちに与えられた招詞は、主イエス・キリストがあの山の上でお語りくださった大切な御教えのひとつ、マタイ6:21のみことばでした。

マタイ6:21 (新約 p. 10)

6:21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

このみことばは、私たち一人ひとりのキリスト者たちへの大切な問いかけにもなっています。「あなたの宝のあるところ、そこに、あなたの心もある・・・」とのこと。こんな私でしかないのに、天の神さまはあわれみを込め、尊いキリスト信仰を与えてくださいました。それは、こんな私をも神さまの御国へと招き入れてくださるためです。それなのに、ラオディキアの教会員たちの心の王座には、残念ながら、主イエス・キリストの居場所はありませんでした。はて、私は、どうなのでしょうか?私たちの神さまとなってくださったお方は、日々、聖書のみことばをとおし、このような問いかけお送りくださっています。その問いかけに、あなたや私は素直に応答しているのでしょうか?ときには、心からの悔い改めをしているでしょうか?きょうの説教には、「わたしとともに天の御座へと」との題をつけさせていただきました。

祈り

聖なるみことばにより、私たち一人ひとりに非常に大切なことを語りかけてくださっている主イエス・キリストの父なる神さま。エルサレムのキリスト教会の執事、ステパノが石打ちになってからキリスト者やキリストの教会への迫害は公然と始まりました。ヨハネの黙示録が完成したのは、その事件が起こってから50年から60年ほどあとの頃。なかには、サルディスのキリスト教会やフィラデルフィアの教会のように、困難を味わいながらも、ごく少数のキリスト者たちが歯を食いしばり聖書のみことばを大切にし、そこに書き記されている神さまからのお約束に望みを置き続けているキリスト者たちもいたようです。ところが、彼ら以外の教会は、その50年から60年ほどのうちに、”塩気”を失ったような状態となっていったようです。たとえば、きょう、私たちが読んだラオディキアの教会員たちもそのひとつでした。はて、私は、どうなのでしょうか?「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです」(マタイ6:21)と、主イエス・キリストがお語りになられたおことばを改めて思い出したいと思います。はて、私は、私の心の王座から神さまを追い出しているよいうようなことをしていないでしょうか?に御霊さま、どうか、私たちを、これからも、あわれみ続け、お助けくださり、正しい道へとお導きください。この祈りを、「主を仰ぎ見れば、古き私は葬り去られ、今や、私ではない、新しい私へと造り変えていただけるのだ・・・」と、感謝を込め、長く歌われ続けてきたお方、主イエス・キリストの尊いお名前によりお祈りいたします。アーメン。

参照箇所     イザヤ書46:3~13 (旧約 p. 1246)

46:3    ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。46:4    あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。46:5    わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。46:6    袋から金を惜しげなく出し、銀を天秤で量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、ひざまずいては、これを拝む。46:7  彼らはこれを肩に担いで運び、それがあったところに安置すると、それはそこに立ったままである。これはその場所から動かない。これに叫んでも答えず、苦しみから救ってもくれない。46:8    このことを思い出し、勇み立て。背く者たちよ、心に思い返せ。46:9    遠い大昔のことを思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。46:10   わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。46:11   わたしは東から猛禽を、遠い地から、わたしの計画を行う者を呼ぶ。わたしは語って、それを来たらせ、計画を立てて、それを実行する。46:12   わたしに聞け、頑なな者たちよ。正義から遠く離れている者たちよ。46:13   わたしは、わたしの義を近づける。それは遠くはない。わたしの救いが遅れることはない。わたしはシオンに救いを、イスラエルにわたしの栄えを与える。」


[1] 新約聖書の中の最後の書物、“ヨハネによる黙示録”は、「イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた」(黙示録1:1)とのことばで始まっています。そして、それは、「アジアにある七つの教会へ」(黙示録1:4)と続いています。黙示録1:11によれば、それら“七つの教会”とは、エペソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの町に建て上げられたキリストの教会とのこと。第二章に入りますと、「それら一つひとつのキリスト教会に、神さまは、このように語りかけてこられた・・・」となっています。これら七つのキリスト教会への語りかけは、どうも、この地上で”キリストの教会”との看板を掲げているすべてのキリスト教会への重要な教えとなっているようです。

[2] 因みに、新約聖書の”コロサイ人への手紙”の中には、「ラオディキアの教会員たちによろしく伝えてください」(コロサイ4:13~16)とのことばが出てきます。コロサイからラオディキアまでは、なんと、たった16kmほど。”フィラデルフィア”の町からは南東に65kmほど離れた場所。ヒエラポリスにいたってはラオディキアから10kmほどしか離れていません(コロサイ4:13)。ですので、ラオディキアとコロサイやヒエラポリスとの間では、人々の往来が活発であったようです

[3] なんでも、その道路はペルガモンから南東へと進むにつれ順に、”七つの教会”のうちのティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、そして、ラオディキアとの町々を結んでいます。これらに入っていない、エペソやスミルナは地中海を西側に臨む沿岸地域にあります(エペソの西には陸地が伸び、今や、地中海から10kmほど東に位置する場所となっています)。

[4] 黙示録が語る”七つの教会”のうちの第三番目は、ペルガモンの町に建つキリスト教会でした。その当時、すでに、ペルガモンから北西から南東へと縦断し、アナトリア半島の南岸、地中海の港町、アタリアへと通じる大幹線道路が敷かれていたそうです。その道路はペルガモンから南へと進むにつれ順に、ティアティラ、サルディス。フィラデルフィア、そして、ラオディキアの近くを通っていました。これらに入っていない、エペソやスミルナは地中海を西側に臨む沿岸の町です(エペソの西には陸地が伸び、今や、地中海から10kmほど東に位置する場所となっています)。

[5] “主イエス・キリストの十字架による罪の赦し”をまだ正しく理解できていない方々に、「あなたは冷たくもなく、熱くもない」との御声が届けられたというのならば理解しやすいのかもしれません。ですが、これはラオディキアのキリスト者たちの前に届けられてきたおことば。このおことばには決して読み流すことなどできない非常に大切な意味が込められていたのです。

[6] それは、まさに、アンデルセンの童話に出てくる“裸の王様”のようです。

[7] これには、「あなたたちの町、ラオディキアでは質の良い目薬が作られ、売られていますが、ラオディキアの教会員たちよ、まずは、あなたたちの目が正しく見えるように、心を素直にしなさい・・・」との皮肉が込められていました。

[8] そのような試練は、ヘブル12:5b~12が述べているとおり、我が子として彼らを扱ってくださっているご愛によるものでした。

[9] このみことば、「いのちに至る悔い改め」との表現は、使徒11:18で、生まれながらの異邦人たちが”主イエス・キリストの十字架による罪の赦し”を受け入れたときに使われています。このとき、神さまはラオディキアの教会員たちに、エペソの教会員たちへと同じように、「最初の愛に戻りなさい」(黙示録2:4)と語りかけられたのです。 

鳴門キリスト教会
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