
2025年6月29日 説教「また、真理と愛を」 “Once Again, Truth and Love”
箇所 Text:エペソ人への手紙 Ephesians 4章25~27節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:67、267、354、544番 招詞/Call to Worship:詩篇 Psalm 4篇3~5節 交読文/Line-by-line responsive reading 13番 詩46篇(交読p11 Psalm 46)
初めに
新しい学校や会社、あるいは家族やスポーツチームへ入ると、初日以前に制服を貰うかもしれませんが、説明会もあり、しばらく指導を受けるでしょう。決まりや暗黙の了解を習わないといけません。同じ訓練を繰り返されるかもしれません。立派な~所属の人として歩むためです。
先週、エペソ書4章22~24節によると教会の一人ひとりは「古い人」(むなしい欲によって歩み、創造主なる神様を敵とする心)を脱ぎ捨てて、「新しい人」(新たに神と活ける関係を受けて歩む心)を着用します(しました)。新しいユニフォーム・制服の心に着替えて、新しい立場と所属(神の家族、キリストのからだ)をもって歩みます。
今回から、パウロはしばらく(6章途中まで)多くの具体的な適用で聞き手に、この新しい歩みの訓練と復習をします。多くの箇所はモーセの十戒の教えの復習です。そしてエペソ4章13~16節の、成熟した教会の目標の繰り返しにもなります。すなわち、神様が望むような、愛と一致ある教会の姿になるためです。ですから、「また、真理と愛を」今日の箇所で学びます。
まず25節で「偽りではなく真理を」、次に26節で「愛ある怒り」、最後に27節にある悪魔の少し不思議な箇所を見ます。そして私たちは皆、この中で心指される指摘はあるかと思いますが、それを踏まえて聖書の良い知らせ、福音を思い出していきたいと思います。
一、偽りではなく真理を(25節)
まず、偽りではなく真理を語ることです。
- 25節は22節と同じ「捨て」という動詞が出ます。「偽り」はモーセの十戒の第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」(出エジプト20:16)に当たります。偽り、嘘つき、騙しをなぜするかと言えば、よく、表向きの関係を守るため、また何かを得るためです。でも信頼を裏切ることです。真実である創造主なる神様に背くことです。
- もう一方で、偽りの代わりに「それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」と言われます。
- パウロは動機づけ、理由を沿えます。教会の中で、「私たちは互いに、からだの一部分なのです。」エペソ4章16節にあったように、教会はイエス・キリストと絆をを持つ共同体です。その内の一人ひとりは、互いとも繋がっています。
- チームでも会社でも家族でも、お互いとのコミュニケーションが薄かったり不正直だったりすれば、共同体としていつも恐れや遠慮が残ります。教会員は共に歩む者ですから、その現実に即した歩みをするように、パウロが勧めます。
二、愛のある怒り(26節)
次に26節は、罪のない怒り、すなわち愛の内に生きることを学びます。
- 「怒っても、罪を犯してはなりません」と語ります。招詞、詩篇4篇4節参照。
- 怒りはいつも悪いと私たちは意識するかもしれませんが、そうとも限りません。ただ、私たちの心に反抗的な罪がありますから、怒りやよく、人に自分の思いを押し付けたり、人に復讐を求める暴力になりやすいです。これは第六戒「殺してはならない」(出エジプト20:13)をほのめかします。主の祈りを逆さまに「私の心がなりますように」という態度はよく、怒りの基にあります。
- もう一方で、神様は聖なる怒り、正しい怒りを抱かれます。悪いことがあるのに怒らないのは、悪を容認する無頓着であり愛ではありません。キリストも怒られました。ただ、罪を犯さなかったのです。
- 「憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」怒るのは時に正当な反応ですが、怒りを抱き続けると恨みになり罪になります。怒りと悩みを主に委ねて、和解を求めますように。言い換えると、真理を語っても愛をもって語る(エペソ4章15節の原則)の繰り返しです。
三、悪魔の敵対(27節)
27節は先に来た1、2節の展開です。「悪魔に機会を与えないようにしなさい。」主の祈りの「悪よりお救いください」、の実践です。
- 悪魔は実在する霊的な存在です。悪魔は人と神様に敵対します。人が神様、また他の人と敵対し、滅びることを喜びます。イエス様は悪魔を「人殺し」また「偽り者」と呼ばれました(ヨハネ8:44)。そして、神様から目を背けるように色々な偽りで人を操ろうとします。
- エペソ人への手紙1章と3章では、神様は教会の愛と一致を通して、ご自分の知恵と恵みの輝き、栄光を、悪魔を含む天上の権威に現わそうとしておられることが書かれていました。
- エペソ3章6、10節(新p387) 福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。 …これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、…(1章10節、3章21節参照)
- 表だけでなく心から愛し合える共同体ほど美しい造られたものはなく、神様の麗しさを反映します。
- これに対して悪魔は教会に混乱と敵対をもたらせようとします。教会が4章25節に反して真理を離れて偽り合ったり、26節に反して互いとの違いの中で怒って互いを傷つけ合ったりすれば、悪魔は大喜びです。その機会を活用して、教会を引き裂くことができれば、神の恵みも知恵の栄光が見えにくくなってしまいます。
結び
何ができるでしょうか。私たちクリスチャン同士は当然、励まし合う必要はあります(ヘブル3章12~13節参照)。私また教会の他の長老は牧会者として、教会が真理と愛をもって成長するように促す使命を受けています。お手伝いします。けれども、私たちの力は限られています。そして私たちも罪びとです。悪魔は私たちの足を引っ張ろうと狡賢く機会を狙います。私たち皆を効果的に導けるのは最終的にイエス・キリストのみです。イエス・キリストが心の拠り所でなければいけません。エペソ4章の25節と26節を振り返り、それらに指摘される弱さ罪があれば、主イエスを仰ぎ思い出していきましょう。
25節から、私たちは互いに自分の弱さを隠し合って、偽善的な歩みをしているでしょうか。何かを得るために嘘をつくのでしょうか。自分で自分を守ろうとすると、そのように互いに見えないところで傷つけ合います。
→イエス・キリストによって、弱さを恥じる必要はありません。イエス様は自分を守らないで、反抗して嘘をつく、私たちのような人のために十字架の苦しみと恥を受けてくださいました。完全に真実を語り歩まれ、身代わりとなって、罪びとの偽りの罰を受けてくださいました。だからイエスに拠り頼むなら、私たちは罪を赦され、偽りを脱ぎ捨てて真理を語るように助けられます。罪や弱さが知られるのを恐れなくても良いです。神様に赦されているから、むしろクリスチャン同士で打ち明けて、祈り合うようになれます。
26節から、誰かに対して怒りを抱いているでしょうか。相手を邪魔者と思ったり、いなくなれば良いのにと思ったりする(クリスチャン)相手はいますか。。
→イエス・キリストによって、怒りを委ねることは可能です。イエス様は罪に対して正しい怒りのみを抱かれました。しかし愛をもって、怒りの理由を語られました。十字架上で神様の聖なる怒りを受けることにより、神の憐れみと歓迎のみが教会に向けられるようにしてくださいました。だからイエス様に拠り頼むなら、私たちは愛に生き、怒りを手放し、和解を求めることができます。
この様に歩むには、聖霊様の助けはどうしても必要です。しかし、教会はイエス様の導きと守りを受けています。どんなに素晴らしいチームキャプテン、飼い主がいるかを思い起こしましょう。イエス様に信頼して、共に真理と愛をもって歩むことができますように。
礼拝の後
振り返り:イエス・キリストの真理と愛によって、どのように嘘から真理、憤りから愛へ近づけると思いますか。
参照聖句:エペソ1:9-10、3:6-10・21。