
2025年4月27日 説教「キリストが教会に賜わった人々」 “The Men Christ Has Given to the Church”
箇所 Text:エペソ人への手紙 Ephesians 4章11~13節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:4、284、211、541番 招詞/Call to Worship:イザヤ Isaiah 40章9~11節 交読文/Line-by-line responsive reading:5番 詩19篇 (Psalm 19)
初めに
何だろうと思った何かを受けたことがありますか。新しいおもちゃを貰って、何か分からない…新しい家電製品を勝手、新しい機能に戸惑う…。私たちは、それが何のためにあるか分かると、適切に活用できるようになるかもしれません。教会のいわゆる教職者、宣教者も似ているところがあるかもしれません。特別な存在らしいけど、本当に必要か…なぜ洗礼とか説教とか任されるのか。ただ知識や特別な経験があったり、特別にきよい感じがするからですか。違います。主イエス様が教会に賜わった人々だから、役目も目的も意味みあるからです。使徒パウロは今回の箇所で、教会の宣教者をプレゼントのように掲げて、「イエス様からが届いたよ」と教えてくれます。
一、与えられた人々(7~11節)
4章7節からの流れを振り返ると良いです。地上の堕落した世界にまで降ってくださり、十字架で人を神の国に入れる条件を満たし、天に揚げられたイエス・キリストは人に贈りものを下さると8~10節にありました。直前の7節では、個人への贈り物に焦点がありました。「私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。」ところが、パウロは個人的な賜物以上に、教会の共同体への賜物に目を向けます。
- 11節の翻訳文で大切な事が隠されています。「お立てになりました」の原文は、「与えた」「賜わった」です。7節にある「与えられた」と同じ言葉で、パウロはより具体的な賜物の話を指します。主イエスが教会に賜わった贈り物の一つは、これらの人々です。
- 11から12節にかけて分かりますが、特定の任務を与えられました。神様の御言葉を取り扱う、いわゆる「宣教者」(別の呼び方は「教職者」、「働き人」)です。聖書から、「見よ、あなたがたの神を」(イザヤ40:9)と宣言して教会に仕える職を受けた人です。
- 具体的に、①今の教会の始まりに必要だった「使徒…預言者」と、②今も与えられ続ける役職の宣教者もいます。
- エペソ2章20節にも出ましたが、特別に土台作りの「使徒たち…預言者たち」は与えられました。土台作りなので、教会が据えられて、神の御言葉の書き留めが新約聖書が完成されると、キリストがもう賜わなくなった職務の人です。
- 続いて、イエス様が「賜物の量りにしたがって」今も賜う職の人、三つがあります。⑴
- 「伝道者」は恐らく、主に教会に入っていない人に語って聖書を伝えイエス・キリストを伝える責務を負っています。言い換えると「宣教師」かもしれません。「牧師」は牧会する、羊の群れを世話するように、特定の教会の会衆の「群れ」を知り、養い、守り、導くという責任を負っている宣教者です。
- 「教師」は牧師より広い意味で人々に神の御言葉を教えるかもしれませんが、飽くまでも教会の人のための宣教者です。
二、与えられた人々の役目と目的(12~13節)
でもその存在意義は?12節は彼らの役目を、13節以降はその目的を教えます。
- 12節は三つの表現で関連した、大体同じ役目を強調します。
- 「聖徒たちを整えて…」
- 「聖徒たち」はエペソ1章2~5節では、神に特別に取り分けられ、イエス・キリストに信頼して、きよい人とされた者たちだと分かりました。罪がありながらも、信仰によって聖なる立場を受け、さらに聖なる者として成長しつつある者たちです。全てのクリスチャンの事です。
- 「整えて」は広い意味を持ちます。修理、組み立て、修復などに用いられます。ここでは、聖徒たちが13節のとおりに成長するための働きです。そして14節以降で、より具体的な結果が書かれています。
- 「奉仕の働きを…」新改訳は良い訳ですが、ここでは11節の人々が「働きをさせ」るではなく、「働きをする…ため」に与えられた、のが正確な動詞だと考えています。
- 言うまでもなく、全てのクリスチャンが神に仕え教会に仕える意味で「奉仕」はできますが、この箇所の文脈では、ここの奉仕は第一に宣教者たちの責任でしょう。聖徒たちに奉仕ことにより、神様に奉仕します。
- たとえ、仮に新改訳のとおりにここがクリスチャンたちの奉仕の働きを指している場合でも、宣教者がまず教える奉仕をするために与えられたとパウロが教えています。
- 「…キリストのからだを建て上げるため…」教会は人の身体のように、密接な関節や臓器から出来ています。きりすとのからだである教会にとって、成長は必須です。
- 「聖徒たちを整えて…」
- 13節 エペソ書の次の説教でより詳しく見ていきますが、イエス様を信じて、イエス様のように完全なものへと向かう希望です。この成長の意味合いはさらに14から16節にかけてより詳しく説明されています。(次回、13節をより詳しく見ます。)
三、キリストからの贈り物の受け止め方
- さて、今日の箇所から来る質問は、教職者・宣教者をどう受け止めるかです。その賜物は教会を整えて、教会に奉仕して、教会を建て上げるためにあり、教会全体が共に成長するために主イエスが教会に賜わった人々です。主からの贈り物として、主御自身ではありません。
- 適用として、私たちは過剰評価しないように、そして過少評価もしないように。
- 過剰な評価に陥りえます。もし個人として「一般信徒からかけ離れた、聖なるまたほぼ完璧な人」や「神様と繋がるために必要な人」(カトリック的)という気持ちで使われているとすれば、それは逆に賜わったイエス様から栄光を盗んで人に与えていることになります。
- 重要なのは宣教者個人ではありません。個人の話しの能力また性格も重要ではありません。その人を遣わした主イエスが重要です。宣教者が語る教えより、その基であるはずの聖書が重要です(第一コリント3:6-7)。私たちはそれぞれ違う人に導かれたかもしれませんが、彼らにではなく彼らの主イエスにすがる必要があります。
- そして宣教者は皆さんと同じ様に罪びとです。宣教者の祝福を祈られるなら、彼らが益々謙遜になり、イエスの福音によって罪を認めて、悔い改めて、信じる様にという意味で、祝福をどうぞお祈りください。
- ※嘆かわしいことですが、人を利用し、虐待したり、イエス様から受けた使命を果たさなかったりする宣教者もいます。もしそのような人から受けた傷を負っているなら、どうか、信頼できる長老、執事などに伝えてください。
- もう一方で、過少な評価も避ける必要はあります。不要な、教会の歴史の産物ではありません。現代の社会では立場より能力を重視する傾向があります。ところが主イエスが教会全体の成熟のために、教会に宣教者を賜わったのです。彼らは自分の権限でなく、主から与えられた権限で、しかも聖書に従順に、聖書を神の言葉として代弁するのです。主イエスの代わりにではなく、主イエスのしもべ・使節として、聖書から主イエスを宣言し、洗礼と主の聖晩餐で主イエスの良い知らせを体験できる形で行うように派遣されています。ですから、軽んじてはいけません。
- 過剰な評価に陥りえます。もし個人として「一般信徒からかけ離れた、聖なるまたほぼ完璧な人」や「神様と繋がるために必要な人」(カトリック的)という気持ちで使われているとすれば、それは逆に賜わったイエス様から栄光を盗んで人に与えていることになります。
- 宣教者を適切に評価するなら、パウロのように、私たちはその人より遥かに、イエス御自身を大切にするでしょう。私たちは人間を過剰評価して、宣教者を高く見過ぎるか、宣教者を軽視する中で自分を高く見過ぎる罪びとです。
- 私たちは皆、十字架の前で平等です。主イエスが私たち聖徒の皆のために、死なれ、復活してくださったことにより、永遠に神様に正しい、歓迎される者として、親しい、愛される子どもとして扱っていただけます。宣教者はひたすら、一貫してこのキリストを宣べ伝えるしもべです(コロサイ1:28)。しもべを感謝しつつ、主を見上げましょう。
- 主イエスが究極の伝道者、牧者、教師です。主イエスを信じていない人に紹介できるのは、もちろん宣教者もそうですが、私たち皆ができます。最高の贈り物であるイエス・キリストが誉め讃えられ、信頼され、喜ばれますように。
礼拝の後
振り返り:あなたは御言葉の宣教者たちをどう見ていますか。イエス様を遥かに貴く扱いますか。
参照聖句:エペソ2:20、ローマ10:14-15、第一コリント3:5-9
脚注
⑴ 日本長老教会では、このいずれも「教職長老」また「教師」として任職されます。
⑵ ウェストミンスター信仰告白25章3項(教会の聖徒たちが神様から受ける特権について)参照。