2025年4月20日 復活祭 説教 「復活の現実と慰め」”The Reality and Comfort of the Resurrection”

箇所Text:ルカの福音書Luke 24章33〜48節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

説教者:百瀬ジョザイア  讃美歌/Hymns:148、396、158、358、539番 招詞/Call to Worship:ルカ Luke 24章1~8節 交読文/Line-by-line responsive reading:4番 詩Psalm 16篇

初めに

 あなたは今日、何について悩んでいますか、悲しんでいますか、恐れていますか。何も問題はないと言える人はいません。クリスチャンでも、復活祭の喜ばしい朝でも、先ほど歌ったように悩み、涙、憂い、悲しみはあります。私たちは創造主なる神様とその教えに対する反抗、背きと言った罪故、このように生きています。誰でも、状況がいつか良くなると願って、悩みながら生きます。

悩みを認め、受け止めつつも、私たちクリスチャン、教会は慰めと希望を抱きます。イエス・キリストが現実に、完全なからだと霊をもって、復活なさったことが根拠です。復活祭のイースターにて、復活の現実とそこから生まれる慰めを共に覚えましょう。

一、イエスの十字架の預言と意味(ルカ23章まで)

 背景を振り返りましょう。イエス・キリストは「受難日」と呼ばれる金曜日に十字架で死に、墓に葬られました。実は、イエスは前から、予告された出来事でした。

ルカ9章22節 …多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。

 でも、親しい友人の12弟子たちも信じませんでした。そしていざ、イエスがその内の一人に裏切られて、ユダヤ人の指導者たちに逮捕された際、彼らは恐怖で「イエスを見捨てて逃げてしまった」、と別の福音書のマルコ14章50節は告げます。彼らには、生きる希望はもうないと思いました。そしてドアに鍵を閉めて隠れていました(ヨハネ20:19)。

 イエスは確かに十字架で死なれましたが、目的がありました。神様に背いて逆らった罪を犯す人に赦しを与え、天国に入る約束を下さるためでした。神様が罪と罪びとに向けられる怒りの裁きを代わりに受けて、そうしてくださいました。

 イエスが死なれたことを知って、弟子たちは先程の賛美のように、悩み、涙、憂い、悲しみに落ち込みました。イエスは神の王国が近づいていると言われたのに、その王ではなかったし国は建てられない、今までの希望は何だったのか、と絶望しました。

二、復活の現実(33~43節)

 しかし、日曜日の朝から、遺された弟子たちに不思議な報告が入りました。復活の現実の証言でした。ルカの福音書24章10・11節でイエスの女性の弟子数名から。33~35節で、二人の男性弟子から。でも、彼らは信じられませんでした。

 そこでイエス様は三つの方法で弟子たちに復活の現実を証明して、安心させようとしました。①一つ目に、鍵のかかった部屋に入り、彼らに語ってくださいました。36節「これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたにあるように』と言われた。

 平安どころか、37節で「彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。」イエスは死んだままのはずだと決めつけて、イエスの姿は幽霊だと思いつきました。「取り乱して…心に疑いを抱く」心境だとイエスは38節で指摘なさいました。

 ②その頑固な弟子たちにイエスは次に、見て、触れるように招いてくださいました。③39~40節 さらに、41節でまだ「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた」ところ、イエスは彼らの前で「焼いた魚を一切れ」を召しあがりました(41-43節)。生きておられるイエス・キリストでした。聞こえる生の声、見て触れることのできるからだ、食物を食べられるからだを持っておられました。イエス様は御自分の復活は現実であると多くの人々に示してくださいました(第一コリント15:4-6参照)。

三、赦しと平和の知らせ(44~48節) 

 イエスを見捨ててしまった弟子たちの不安は解消されつつありました。でもイエスの死と復活が現実であっても、その意味は何か。44・45節でイエス様は、それが聖書の全体で予告され、ほのめかされていた、最高に大切なことだと宣べました。旧約聖書の一ヶ所の引用ではありませんが、聖書全体から一貫して聞き取られた、神様のメッセージです。46・47節の知らせでした。

ルカ24章46~47節「…『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』」

 罪の赦し。弟子たちが必要としていることでした。慰めの鍵です。神様に、神の子、神の選びの王イエスを見捨てた自分たちの恥と罪悪感、憂いと悩みは彼らに残っていました。でも、イエス・キリストに信頼する者はイエス様の十字架の苦しみによって罪の赦しを受けられます。罪から神様に立ち返る「悔い改め」が可能です。罪はイエス様によってすでに償われたからです。そしてイエスはよみがえったから、その約束は保証されました。どの背景の人でも、イエス様に信頼すれば、罪の赦しを受けられます。神様の愛され、聖なる、正しい子どもとして扱っていただけます。

 だから、恐れる必要はもうありません。イエスはそう言うかのように、続けて、すでに御自分を信じた弟子たちを任命しました。48節「エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」53節では、かつて復活を疑って、恐れていた弟子たちは、イエスを迫害した祭司たちなどの本部に居座って、「神をほめたたえていた」とあります。彼らは復活された主イエスを経験して、臆病者から喜びある証人へと変えられていました。

私たち

 復活が現実だからこそ、私たちは弟子たちのように慰めを受けることもできます。イエスの死は偶然ではなく、昔から神さまに計画され、予告されていた出来事でした。同様にその復活も計画され予告されていました。そしてその意味は、何よりも大きな悩み、憂い、恐れをもたらす私たちの罪が、赦され得ることです。

 ここにおられるかもしれないクリスチャンでない方に、直接お話しします。自分の五感で感じ取れない限り、神の存在やイエスの復活を信じないと思うかもしれません。しかし、逆に、神様はあなたの要求に応じる義務はありません。神様があなたを造ってくださいました。あなたの周りに置いてくださったクリスチャンの中に、生きておられる主イエスの霊がおられます。クリスチャンに苦しみ悩みがありながらも、慰めと喜びがあることをあなたは説明できますか。それこそ、イエス様の復活の現実を現す、現在の慰めです。あなたもイエス様の慰めは必要ではありませんか。

 この復活祭の日に、私たちは何を悩み、恐れているでしょうか。それも現実ですが、イエスは悩み、涙、憂い、悲しみを通って、死んでくださることによって、赦しと神との和解が可能です。神様と人に対して犯してきた自分の悪さを認めて、イエスを自分の王また神(主)として認めて、更にイエスが復活して自分を救うと信じて自分を委ねる人が誰でも受けられます。

 イエス・キリストの復活が現実だから、未来の慰めも約束されています。私たちも現実の復活に与れます。永遠に完全な方、神様をほめたたえて、喜び楽しむことができます。これに優る慰めも希望もありません。復活によって、私たちはこれを受けます。だからこそ、この壊れた世界で希望を持って、壊れた世界に愛と希望を差し出すことができます。そのように、イースターを過ごしましょう。 

説教の後

振り返り:イエス・キリストが復活されたことによって、何の慰めを具体的に受けていますか。

参照箇所:ローマ4:25-5:5。

鳴門キリスト教会
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