
2025年3月16日 説教「教会の召しにふさわしい歩み」 “A Walk Worthy of the Church’s Calling”
箇所Text:エペソ人への手紙 Ephesians 3章19~22節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア
讃美歌/Hymns:4、312、403、541番 招詞/Call to Worship:詩篇Psalm 133篇1~3節 交読文/Line-by-line responsive reading:41番 マタイ伝5章 (Matthew 5, the Beatitudes)
初めに
家、会社、学校の誇りを守るために人は大抵、立場をわきまえて、立派な生き方をしようとします。消極的に言うと、自分の大切な人に恥や迷惑をかけないように、「ふさわしい歩み」をしようとする訳です。積極的に言うと、私たちは与えられた特権や愛情を分かれば分かるほど、それらを下さった親、上司、先生などを嬉しくさせたいです。教会の歩みでもそうですが、教会に対して以上に、私たちを召してくださった神様を前にして、ふさわしく歩みたいと思うはずです。
エペソ4章1節にパウロは「さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます」と言います。「さて」は「ですから」「したがって」を意味します。パウロが3章まで崇高な真理、神様の召しの素晴らしさを語ってきました。時には理解しにくかったかもしれませんが、それは4章以降の適用の土台です。パウロは神様の救いの教えから、4章1節で主に適用に移ります。今日は、①召しにふさわしい歩みの特徴の幾つかです。①謙遜な歩み、②寛容と愛ある忍耐、③平和です。
一、召しにふさわしい歩み(1節後半・2節初め)
- 「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。」
- 聖書で「召し」は父なる神様が罪びとの心に働き掛ける聖霊様を通して、信じる信仰と悔い改める敏感な心を与えることです。エペソ1章18節(p385)ですでに、その召しは「望み」を与えるものであり、神の国の祝福を受け継ぐことを意味します。
- イエス様がいのちを犠牲にして、獲得してくださった祝福への召し(1、3章)。
- 異なった背景や強み、また弱み、それから罪を持つ人々を神様の民また家族、また神様が住まわれる宮に加えた召し(2、3章)。
- 神様の召しは一方的な恵みです。しかも、応答を起こさせる力があります(有効召命とも言う)。 ⑴それは歩みですが、ふさわしくない歩みとふさわしくない歩みがあります。
- ふさわしくない歩み:召しの素晴らしさを忘れて、或いは無視して歩むこと。
- ふさわしい歩み:神様の召しに見合った応答。イエス様の犠牲および神様との素晴らしい関係への召しを無駄にしないで、神様の栄光をあらわして、神を喜ぶ歩みです。
- 聖書で「召し」は父なる神様が罪びとの心に働き掛ける聖霊様を通して、信じる信仰と悔い改める敏感な心を与えることです。エペソ1章18節(p385)ですでに、その召しは「望み」を与えるものであり、神の国の祝福を受け継ぐことを意味します。
- 「謙遜と柔和の限りを尽くし…」
- 「謙虚と…を尽くし〈で〉」はおそらく、1節終わりのふさわしい歩みの特徴を表すでしょう。
- 謙遜や柔和は、ローマの当時の文化で(日本でも?)、良い響きはありませんでした。少なくとも、成功者の態度とは思えない生き方でした。誇りをもって生きるのが良くて、謙遜は卑しいという考えでした。
- 考えや欲を押し通さないことになるかもしれません。
- これは「互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」とピリピ書2章4節が言うように、難しいことです。
- 私たちは自分が正しい、良い、と思いたがるので、誰かと意見が違えば議論にやりやすいです。確かにどちらかは間違っているかもしれません。でも正しいとしても、態度はへりくだる態度であるべきです。
- ガラテヤ6章1節「柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」これは2節の続きのポイントに繋がり、へりくだったイエス様の召しにふさわしい態度です。
- 「謙虚と…を尽くし〈で〉」はおそらく、1節終わりのふさわしい歩みの特徴を表すでしょう。
二、寛容と愛のある忍耐(2節後半)
- 「寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び…」。
- 「謙遜と柔和の限り」が見える歩みは何でしょうか。ここの表現が具体的にします。つまり「寛容な態度で、愛をもって互いに忍び合う」寛容と愛が特徴の忍耐です。
- 互いに過ちを指摘するべき時はあります。しかし、愛をもって真理を語る必要があります(ガラテヤ6:1、エペソ4:15参照)。教会の仲間について耐え忍ぶべきこと、例えば人の気に入らない振る舞いや罪を見過ごすべきときもあるかもしれません。
- 愛は感情だけではありません。愛をもって人を耐え忍ぶと決心する必要はあります。
- これは私たちでは不可能です!特に自分の主張に集中するならできません。
- しかし、エペソ3章16、17節にあったように、内に住まわれるイエス様、つまり聖霊様が愛するように助けなければ、私たちはできません。
- 私たちは主の助けを受け入れる必要があります。しかし、私たちを愛の内に一つの共同体とした神の召しがあります。祈りつつ試行錯誤で寛容と愛を示す挑戦はできます。これも教会の召しにふさわしい歩みです。
三、平和(3節)
- 「平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。 」
- 「一致団結」を掲げて、本当の違いから目をそらせることは比較的に楽かもしれません。迷惑にならないように本音を隠して、うわべだけの和を創って、心の中でモヤモヤするかもしれません。
- そして自我、欲望が台頭すると、そのようなでっち上げの平和は崩れます。
- 世界史を考えると、平和条約や休戦同意ががどんなにたやすく消えるかは明らかです。
- 本当の「平和の絆」は私たちではなく、神様が創られます。御霊がもたらしてくださいます。
- そして教会には、御霊がもたらす一致はすでに与えられています。創りなさいではなく、それを「保ちなさい」とパウロが言います。
- 一致を作る代わり、教会はそれを熱心に保つように召されています。ぬるい気持ちで平和を保つことはできません。教会は十人十色の共同体だから、一致しない理由は探せばいくらでもあります。でも、聖霊様の下さる一致によって、私たちは柔和と愛と平和に召されています。
結び
- 【まとめ】パウロはエペソ3章まで熱心に語った、目に見えない現実と真理の教理を、具体的な課題と歩みに当てはめ始めました。神の家族に入れられたという観点から、ふさわしい歩みは、誠実に「謙遜と柔和の限りを尽くし」、時間にわたって「耐え忍び」、難しい関係でも「熱心に」御霊の一致を求める教会内の人間関係です。教会の中に愛しにくい相手はいるかもしれませんが、そこでこそ、私たちが信じて告白する「聖徒の交わり」が問われます。
- 【罪の問題】教会の中で謙遜、柔和、寛容、愛、耐え忍び合い、平和、一致を生きることによく失敗します。自分のために生きて、罪を犯します。召しを忘れて諦めているか、召しを無視してその祝福より、自分の欲望を優先させてしまうかもしれません。柔和より自分の誇り、愛ある忍耐より楽、聖霊様に従う平和より上に立つことを優先させることがあるかもれません。
- 【福音】しかし、「召されたその召し」を覚えて、主に信頼して歩みましょう。
- 神様が熱心に私たちに祝福の召しを下さったからこそ、新しい歩みが可能です。感謝なことに、神様はただの招きではなく、私たちを実際に変える召しを与えてくださいました。聖霊様は私たちが召しにふさわしく歩もうとするように、心に住まわれます。
- 主イエス・キリストこそ、今日の箇所の謙遜、柔和、寛容、愛、耐え忍び合い、平和、一致にに生き、それを下さった方です。その完全に正しい義の歩みが信じる私たちのものであるかのように、神様は私たちを赦し、義と認めてくださいます。主によって、敵だった人々は一つの家族に変えられています。こういう召し、こういう愛の関係をイエス様が築いてくださいました。裏切られても、赦してくださったイエス様です。信じられない恵み、信じますか。
- 【応答】難しい共同生活でも、永遠のいのちを下さる召しにふさわしく、教会の家族としてまず信じて、次に悔い改めて、神様に期待しましょう。そうして共に歩みたいと思います。
説教補足
振り返り:キリストが謙遜に歩まれ、愛を尽くして、十字架で平和をもたらした召しにふさわしく歩みたいですか。
参照聖句:ガラテヤ6:1-2、ピリピ2:1-11。
註
⑴ ウェストミンスター小教理問答第31問。