
2025年3月2日 説教「苦しみの中から」 “Out of My Distress”
箇所Text:ヨナ書 Jonah 1章17〜2章6節 聖書引用 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:3、89、294、140、545A番 招詞/Call to Worship:詩篇 Psalm 72篇18~19節 交読文/Line-by-line responsive reading:12番詩42篇 Psalm 42(交読p10)
「苦しみの中から」と今日の題を、わざと中途半端にしました。あなたは、自分について、どのように完成させると思いますか。どの述語(動詞)で締めますか。「…抜け出す!」と意気込むか、「…抜け出せない!」と意気消沈するか、「…叫ぶ」とか、色々な終わりはあるかもしれません。ヨナは、「…私は【主】に祈った」と締めました。
前回お伝えしたように、預言者ヨナは神様に逆らって、逃げようとしました。悪名高いアッシリア人に神の警告を伝えまい、と逆方向の船に乗り込んでいました。ところが、神様は嵐を用いて、あの船をを絶体絶命の危機に導きました。結果は、一緒に乗っていた水夫たちが主を信じるようになりました。さらに、今日の箇所では、主はヨナを苦しみの中で取り扱ってくださいました。今日、話の難題とされる魚に触れてから、ヨナの経験と祈り、そして助けの証しと適用を見ていきます。
一、魚と三日三晩(1章17節)
ヨナ書1章17節にこのことばがあります。「主は大きな魚を備えて、ヨナを吞み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」
多くの人はこの箇所を読んで、「信じられない」と思います。人間は本当に魚(あるいは鯨)に呑み込まれて、生き延びることが可能かなど、議論されてきました。近代に人がマッコウクジラやジンベイザメに呑み込まれてから、同じ鯨と鮫を殺して、生きたままその体内から人を助け出したという証言はあります。でも当然、その話に突っ込み所があると言って、疑う人はいます。ヨナが本当に魚か鯨に呑み込まれ、食道を通り胃袋で息ができて、胃酸に耐えることが自然にできるかどうかはそもそも、実験では確かめにくいことです。でも考えにくいです。詳細は分かりません。
聖書の言うことを理解しようとよく考えながら読むべきです。同時に、真理そのものである神様が人に書かせた、と神を信じて読む必要もあります。⑴ 例えば一方で、今日の話は自然には起こり得なかったかもしれません。もう一方で、神様は超自然的なことができないと決めつけて、全てを自然界と人間の理性の枠に収めようとするのは高ぶりでしょう。今日の話は作り話だと言う人もいるが、ヨナは列王記に出る歴史的人物として登場します。イエス・キリストが歴史的な人として扱った人です(マタイ12:40)。ですから、これを奇跡を含めた歴史として読んで良いと考えます。
「三日三晩」はちょうど72時間ではなくても、三日連続の全部または一部かもしれません。著者が詳しく書いた訳ではありません。これについても私たちは全てを、詳細を知り得ません。しかし神様から、著者を通して、真実を教えられています。趣旨は、ヨナは辛い、現実の苦しみをしばらく経験したのでした。そして神様はヨナを取り扱うために、それを用いてくださいました。
二、ヨナの祈りと溺れの体験(2章1~6節)
さて、ヨナの祈りと苦しみ、溺れの体験を見ましょう。
2章1-2節 ヨナは魚の腹の中から、自分の神、【主】に祈った。
「苦しみの中から、私は主に叫びました。 すると主は、私に答えてくださいました。
よみの腹から私が叫び求めると、 あなたは私の声を聞いてくださいました。」
私たちは魚の奇跡に驚きますが、ヨナの祈りということにも驚くべきです。1章では、同じくらい絶体絶命の嵐の中でも、神様に祈る代わりに神様を宥めるために自分を海に投げ込めと勧める、自分で自分の問題を解決しようと意地を張っていました。でもここで、心は多少、変わっています。神に逆らってきた人の心が変えられることは奇跡です。
2節で「主は、私に答えてくださいました」と後の出来事をまとめまてから、ヨナは苦しみの体験を辿って行きます。3節「あなたは私を深いところに、/海の真中に投げ込まれました。」彼自身が指示して、水夫たちによって海に投げ込まれましたが、神様がそれにも関わったとヨナは理解します。まず海面近くで大波に打たれて、潮に流されて苦しんだ様子が書かれています。その時にやっと、神様の取り扱いに応えたそうです。4節によると、ヨナは神様に見捨てられたと感じました。神様の「聖なる宮」、神殿で再び祈る喜びを味わいたい、と半分絶望しながら祈りました。
5節でヨナは沈み始める様子を描きます。
「水は私を取り巻き、喉にまで至り、大いなる水が私を囲み、海草は頭に絡みつきました。」
さらに、6節げで描く感覚は、溺れて死にそうな苦しみでした。
「私は山々の根元まで下り、 地のかんぬきは、 私のうしろで永遠に下ろされました。」
「山々の根元」や「地のかんぬき」は古代中近東の考えでは、人が死ぬときに行く「よみ」(2節参照)の場所を連想させるイメージでした。光も空気も、希望もない状態でした。私たちにも心当たりある感覚なのかもしれません。
三、ヨナの助けの証し(2章2、6節後半)
しかし!6節後半でヨナの絶望が助けの証しに切り替わります。
「しかし、私の神、【主】よ。 あなたは私のいのちを 滅びの穴から引き上げてくださいました。」
ヨナが死ぬと思ったのに、生かされていると気づきました。魚の腹の中かもしれません。とても苦しかったでしょう。でも守られていました。誰も信じられないような守られ方でしたが、守られていました。彼が完全に清い心で祈った訳でもありませんでした。まだ反抗の罪ある人として祈ったが、主が答えてくださいました。自分の罪の結果、まだ苦しみましたが、神様が助けるという希望も湧きました。
ヨナ、キリスト、私たち
ただ、私たちはこの話を読んで、単純に「苦しい中で祈りなさい」と自分に当てても効果はあまりないと思います。祈ることさえできないことだってあります。死んだ方が良いと思うときもあるかもしれません。聖書は「祈れば状況がきっと良くなる」と約束はしていません。
でも、私たちもヨナのように、滅びの穴から引き上げられる経験ができます。究極の滅びの穴は地獄、神様との敵対の故に神様に見捨てられ罰せられることです。でもイエス様はヨナ以上の経験を通ってくださったから滅びの穴から救われることができます。ヨナより7、8百年後に生きたイエス様は、御自分に疑いを投げかけたユダヤ人指導者たちに、こう答えました。
マタイ12:39-40「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」
イエス様が約束した「預言者ヨナのしるし」は目で見える、輝かしいしるしではありませんでした。ヨナのように、死まで下り、苦しんで、また生きる人のしるしでした。十字架にかけられて、神様の裁きをあなたと私のような罪びとの代わりに受けて、罪に対する神の怒りを宥めてくださいました。ヨナが死んだように三日間消えたが、イエス様は実際に死なれました。「死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」をなさいました(使徒信条)!ヨナのしるしは、苦しみの中から父なる神様を求め続けても救われず、死を通ってようやく穴から出て来るイエス様をほのめかしました。
私たちはヨナのような人間です。自分で悩んだ挙句、やっと思い出して苦しみの中から神様に叫び求めるかもしれません。また、不純な、自己中心的な思いで、「苦しい時の神頼み」をするかもしれません。この態度は悔い改めるべきです。しかし、神様は不純な祈りをも、イエス・キリストへの信仰ゆえ、答えてくださいます。自分の罪を悔い改めてイエスに自分を委ねる人は、イエス様が代わりに地獄の苦しみを通られたと安心して、祈ることができます。究極の滅びの穴から救いだされてこそ、神様が今の苦しみの中でも支えると分かることができます。
神様の答え、助け、救いは中々見えてこないかもしれません。私たちや他の人の罪の結果、一生抱える悩みや痛みはあるかもしれません。助けと癒しを求めて良いです。それがこの生涯の内に全て取り払われる保証はありません。でもイエス様により頼んで、苦しみの中から主に叫びましょう。「死の陰の谷」(詩篇23:4)でも、「主の手にすが」って、歩みたいと思います(讃美歌294番)。
振り返り:苦しみが続いても、イエス様に信頼する意味があります。信頼しますか。
参考箇所:詩篇130:1-8、マタイ12:39-40、ローマ8:34-39。
註
⑴ ウェストミンスター信仰告白1:4「聖書の権威は、…(真理そのものであり)その著者であられる神に、全く依拠する。」(日本基督改革派教会信条翻訳委員会、1964年訳。)