
2025年3月9日 説教 「教会が宿す、神様の栄光」 “God’s Glory, in the Church”
箇所Text:エペソ人への手紙 Ephesians 3章19~22節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
説教者:百瀬ジョザイア 讃美歌/Hymns:63、164、194、539番 招詞/Call to Worship:イザヤ Isaiah 6章1~4節 交読文/Line-by-line responsive reading:27番 詩118篇 (Psalm 118)
初めに
「栄光」という言葉を余り日常会話で聞きませんが、2004年オリンピックのNHKテーマ曲としてバンドゆずの「栄光の架け橋」が用いられました。私の好きな曲の一つです。人が失敗と落胆を通って、他の人の助けで、漸く、労苦して求めた「栄光」を手に入れるという歌です。スポーツ選手を始め多くの人を励ましてきたのだろうと思います。でも日常的にあまり考えないことだと思います。そして考えても、私たちは自分のために栄光を獲得せねばと思いがちかと思います。
ところが、聖書は創造主なる神様の栄光を頻繁に歌います。しかも、驚くべきことに、弱くて失敗、罪だらけの人が教会に加わているなら、神の栄光を表すと今日の聖句が言います。パウロは今日の箇所で、私たちクリスチャンに与えられた大きな祝福を教えます。
一、満たされるように(19節後半)
- 「神の満ちあふれる豊かさ…」
- 「神の満ちる(もの)、充満の全てまでで、あなたがた満たされますように。」聖書で満たされるのは何か。神様が入って満たしてくださるという出来事は、とても大切な出来事について何回か記録されています。具体的に、神様が御住まいに入られると、それは神の栄光で満たされ、その現れがあります。
- 天国の宣言:イザヤ6章1~4節の幻で天使たちが叫ぶ。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる。」そして「宮は煙で満たされた。」モーセの天幕、ソロモンの神殿、エゼキエルの幻に出る、究極の宮参照。⑴ どれでも、神様の偉大さと聖なるきよさが雲や煙で現れて、人々は主の素晴らしさを経験しました。ちなみに、旧約聖書で「栄光」と訳される言葉は「重み」、「威厳」を意味しました。私たちは神様の重み、威厳、素晴らしさを表せるように、祈られています。
- ですから、旧約聖書の背景を覚えてエペソ書3章19節にあるパウロの意味を汲み取ると、「栄光」と書かなくても、「満ち溢れる豊かさ」で「満ち溢れる神の威厳ある栄光」を言っていることになります。神の栄光はは私たちを圧倒して、また満たす豊かさです。私たちは自分たちの小さなことから目を離して、本当に偉大な神様の素晴らしさを経験するからです。快楽や成功、名声や人間関係よりも、神様の威厳と愛に出会うのは栄光に満ちて、私たちを満たすことです。
- 「神の満ちる(もの)、充満の全てまでで、あなたがた満たされますように。」聖書で満たされるのは何か。神様が入って満たしてくださるという出来事は、とても大切な出来事について何回か記録されています。具体的に、神様が御住まいに入られると、それは神の栄光で満たされ、その現れがあります。
- そして「あなたがたが満たされますように」とパウロが願ったのはつまり、昔の天幕のように、神殿のように、教会が神の新たな御住まいとして満たされることです。神様の地上の家はエルサレムの建物から、全世界に広がることができる教会の家族に移りました。
- 神様が教会に「満ち溢れる豊かさ」つまり、その栄光を、宿らせてくださいます。私たち教会の皆は神様の栄光で満たされます。
- 目で見える雲などで神の栄光は私たちの間にもう現れませんが、その代わり、教会のあり方と歩みから、栄光が現れるのをパウロが期待して祈りました。
二、神に…(20節)
- さて、3章最後にパウロは神様に栄光が行くように願う、短い賛美(頌栄)です。
- まず20節で、パウロはどのような神様について賛美するかを思い出させます。「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に…」
- 私たちは考えることだけを願えます。でも神様はこの全ての思いを超越する、良いご計画があります。
- そして神様は絶大な力をもって、私たちの内に働いてくださいます。私たちの罪や失敗や愚かさを超えて、また用いて、益としてくださることができます。
- こういう神様に向けた頌栄は21節で続きます。
三、教会とキリストの共同作業(21節)
- 21節前半「教会において、またキリスト・イエスにあって…」
- 「キリスト・イエスにあって」栄光が現れるのは納得行きますが、教会も神の御栄光を表すと言うの驚きかもしれません。でも、教会はキリストのからだとも言われます。
- 神の栄光を表すのは、共同作業だと言っても、私たちはまだたくさんの過ちで神様の御名を汚してしまう者です。
- 「神を信じます」と言いながら神の栄光・素晴らしさを世に示さない時、つまり神様への愛を捨てて神の律法を破る際、出エジプト記20章の十戒の第3戒、「あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない…」(出エジプト20:7)を破ってしまいます。
- でもそもそも、私たちは神様の為に栄光を創り出すのではありません。栄光の架け橋を自分で架けようとしても、道徳や努力で神に届くことは全くできません。ローマ3章23節曰く、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」です。
- でもローマ3章24節で続きます。「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」私たちを救ってくださったイエス様の栄光が私たちに与えられます。
- イエス様が私たちにご自分の義を転嫁させて、共有すると、私たちにその栄光をも共有してくださいます。イエス様は十字架で私たちの罪の刑罰を身代わりとして受けてくださいました。信じる私たちは世界中の他のクリスチャンと一緒に一つの教会に入り、神様の栄光、イエス様の栄光を(失敗しながらも)映します。究極の「栄光の架け橋」は人間から神様へでなく、神が天の栄光を隠しながら下って、罪びとを天に導く十字架です。
- 光、威厳、栄光の源は神様です。そして世界中にある一つの教会は共にその栄光を反射する鏡、シャンデリア、雲のようなものです。
- 21節後半「栄光が世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」
- キリストの信者・弟子たちはこの地上での歩みの後に天で神の栄光を直に楽しみます。そして復活を経て、永遠に健康で栄光を受けたからだで神様の栄光を、キリストとともに映し続けます。
- 4章以降でパウロは具体的な適用で説明してくれます。一言で言うと、全ての信者が愛の内に、真理によって一致することで、教会に現れ、神様に栄光がささげられます。⑵
結び
- 社会から見たら、教会は地道で時に馬鹿馬鹿しい歩みをする集団です。個人の信徒の生き方を褒めるかもしれません。しかし、教会そのものの存在、特に教会の中心である福音宣教(とそれの前提にある神様の存在や律法)を中々認められないでしょう。教会を見ても、神様の栄光をあまり讃えないかもしれません。今日の総会もただの予算の確認、ボランティアする奉仕者の確認の業務に見えるかもしれません。
- しかし、パウロは期待していました。「教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。」私たちの共同体で生まれる日常的な愛の行為…例えば、捧げる祈り…嫌われても伝え続ける福音…信徒総会で祈って決めて、進めていく教会生活と活動も必ず用いられます。神様は私たちを用いて、あらゆる被造物に、栄光を表してくださいます!全地に神の栄光が行き渡ります。
- ですから、教会の皆様、日々の地道な中で、教会の一員であることに意味があると覚えて、喜んでください。
- 罪を犯して神様の名を汚したら、イエス・キリストを改めて信じて、赦しと神の義、神の栄光をいただきましょう。神様が喜んで、私たちを通して栄光を表してくださいます。
説教補足
振り返り:キリストが教会に神の栄光が満ちるという特権を下さって、あなたを用いようとされると信じますか。
参照聖句:エペソ2:20-22・3:5-10、ローマ3:23-24
註
⑴ 出エジプト40:34-35、第一列王記8:10-11、エゼキエル43:4-5。
⑵ 3章5~10節でクリスチャンたちは背景と関係なく一つの家族とされることによって神様の知恵を全宇宙で輝かせると同じ様に。