2025年2月16日 説教 「キリストの愛を知ることができますように」 “To Know the Love of Christ”

箇所Text:エペソ人への手紙 Ephesians 3章18~19a節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 説教者:百瀬ジョザイア  讃美歌/Hymns:85、138、461、539番 招詞/Call to Worship:詩篇Psalm 149篇1~4節(旧p1090) 交読文/Line-by-line responsive reading:45番 コリント前書13章(交読p41)

 知ることは好きですか。(ニュース、豆知識、友達の好きな音楽、トレンドなど…聖書箇所?)知ることはときに難しいです。そして、知ることができないこともあります。知らないことは知らないと認めるのは大事です。

 しかし、神様が伝えることを知ることは、知る価値があることばかりです。申命記29章29節で預言者モーセはこう告げました。

「隠されていることは、私たちの神、【主】のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」

 隠されたことは神様に委ねて、謙遜に「知らない」と言うべきですが、神様があわれみと意図をもって教えてくださったことで聖書は満ちています。折角与えられたのに無視すると、さまよってしまうでしょう。「全てを知ることはできないが、実に知ることはできる」と言います。

 さて、今日のテーマであるイエス・キリストの愛についてもそうです。クリスチャンでなくても、ナザレのイエスという歴史的人物は、愛を説いて、愛を実行した。多くの人はそう認めます。でも、今日の箇所はそれを意味していません。神様がイエス様の愛について教えてくださる事を、クリスチャンたちがよくよく知るように。

 前回、キリスト(の霊)がいつも、愛に土台を置くクリスチャンの内に住まわれるように祈っていました。そして今日の箇所でパウロは、完全にではなくても、実にキリストの愛を知るように、エペソのクリスチャンの会衆のための祈りを報告します。今日お答えしたいと思う質問は、「キリストの愛をどうやって知るか」です。

一、教会として、ともに(18節1行目)

  • すべての聖徒たちとともに」知識は力と見做されがちです。「えっ、それも知らないの」と言われるととても恥ずかしいですね。でもパウロは教会全体のため、漏らさずにに祈ります。
    • 16節で各個人としてクリスチャンは聖霊様によって強められるようにと祈りました。
    • 17節でイエス様が内に住まうようにと願いました。これは個人的にもそうですが、教会についても言えることです。
      • 2章22節では、「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなる」と、共同体だと強調しました。
    • ここ3章18節では、聖徒たち、聖なる人たちがともに経験することを願います。
  • 私たちクリスチャンは「すべての聖徒たちとともに」知ろうに励んでいるでしょうか。
    • 聖書から知った真理が日常生活に当てはまると知ったら、喜んで、他の人と謙遜に分かち合いますか。あるいは自己満足のために、独り占めにしたり、武器にしたりする「頭でっかち」になりますか。互いへの愛のゆえに求めると、真理の力は何倍も大きく発揮されるでしょう。
    • 聖書や神学は本当に難しいと感じる兄弟姉妹もおられるかもしれません。難しいから知らなくてもいいや、と諦めますか。より豊かなクリスチャン生活のためだから、相談しつつ、学びませんか。勉強好きな人が一人で気づかないことを発見するかもしれません。
  • パウロは、大きな夢を持って祈りました。それは、皆を愛する故に、祈りました。私たち一人一人は一つの教会、キリストのからだの各部分として、補い合う特権を受けています。続くキリストの愛をともに知ることができますようにと願います。

二、知り尽くせない愛を知るように(18節後半・19節前半)

  • 18節後半・19節前半はパウロの具体的な願の内容です。知るように、力づけられるように。パウロはここで、同じことを二回言い回しを変えて伝えます。
  • 新改訳聖書では17節にあった「愛」は「その」の対象ですが、私は文法的に17節の愛は17節のクリスチャンたちの土台であると前回言いました。18節の「その」は原文でも、「その」が指すことばは19節前半に来る「愛」です。
    • 18節後半で「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」四つの次元のようなものでこれはとにかく大きい!とパウロは印象付けます。それを、「理解する力を持つようになり」掴む、捉えることができるように、と祈ります。
    • 次に19節前半で「人知をはるかに超えたキリストの愛を」、とパウロがはっきりと知る事を指します。それを、「知ることができますように」祈っています。
      • 人知をはるかに超えた」ことを「知る」?知識を超えたことの知識を受けられるように?わざとパウロは矛盾のように聞こえることを言っています。私たち人間には不可能なことです。勉強を幾らしても知り尽くせません。
      • 知り尽くせないことですが、神様がこの祈りに応えてくださると、確かに、実に知りえます。聖霊様が私たちに印象付けてくださるとき、私たちは知ります。「ああ、私たちは本当にイエス・キリストに愛されている」と知ります。実感とでも言えるかもしれませんが、感情が余りないかもしれません。でも、キリストの愛は本当です。これを理解して、さらに受け入れると、その愛の力が私たちを励まし、支えとなります。

三、キリストの愛を(19節前半)

  • クリスチャンはイエス様の愛をよく言うと思います。頭で知るのは第一歩です。決して忘れたくない現実です。イエス様の愛はどういう愛か、頭で知る必要があります。
    • 私たち中心の愛ではありません。神様の義と素晴らしさを表す愛です。イエス様の愛を考えてみましょう。それは人にその自己中心を指摘した上で、その罪の代償を十字架の刑罰を受けて、払った愛です。人間による肉体的な痛み以上に、父なる神様から受けた呪いの霊的な痛みをも通られた愛です。神様を完全に信じ、従い通した愛として義の愛でした。
      • キリストの愛は神様第一、人第二の愛でした。それが最高の結果をもたらして、信じる人を神様に近づける愛でした(参考:マタイ22:37-39、第一ペテロ3:18)。
    • イエス様が示された愛はどう思いますか。
  • また、パウロの願いとしては、私たちがただ頭で理解するだけではありません。今日の箇所が教えるように、私たちの理解を超えた愛をそのまま受け入れたいです。聖書を読んで、世の中を見ると、受け入れたくない現実は沢山あります。分からないことは多々あると思います。だからこそ、信仰が必要です。イエス様の愛を信じるなら、イエス様に自分を委ねる訳です。

結び

  • 今日の質問は、「キリストの愛をどうやって知るか」でした。キリストの愛を知るのは、具体的に、キリストの歩みから分かります。福音書でキリストの歩み、特に十字架の経験を見て、分かります。信頼すると、それを本当に知ります。
    • それを実に知ったかどうか、簡単な確認方法があります。
      • 第一ヨハネ3:16(新p482) キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 
    • そう突っ込まれると、心が痛むかもしれません。神様が教えてくださった愛を、聖徒たちとともに知るように祈られたのに、互いに愛しあうことをせずにいるかもしれません。あるいはともに学ぶことを面倒くさいと思ったかもしれません。神様の愛を受けてばかりで与えるのを難しいと思うことはあるかもしれません。
  • しかし、元気を出してください。私たちはそれぐらい恩知らずですが、キリストの愛はこんな罪びとをもきよめることができます。十字架を改めて思い出して信じてください。愛の足りない私たちに、その愛が向けられています。ともに、この愛をもっと知ろうと追及しましょう。イエス様の十字架の犠牲の愛と価値をともに確かめ合える相手を見つけませんか。教会として、ともにキリストの愛を知ることができますように。

振り返り:イエス様が十字架の犠牲で示された愛に魅了されていますか。

参照Other key verses:申命記 Deuteronomy 29:29、エペソ Ephesians 2:22、第一ヨハネ 1 John 3:16

鳴門キリスト教会
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